第3章 ケンタッキーの我が家 (温かな記憶と心の拠り所)
翌日、そしてその次の日も。
私の放課後は、少しずつ、けれど確実に色を変えていった。
これまでの私だったら、学校が終われば誰とも目を合わせないように足早に下駄箱へ向かい、まっすぐ家に帰るのが日課だった。人の多い場所は息が詰まるし、誰かに話しかけられるかもしれないという恐怖で、いつも背中を丸めて歩いていた。
けれど、今の私には目的地があった。ショッピングモールの2階、あの吹き抜けの特等席。
待ち合わせをしているわけでもないのに、そこに行けば駈くんがいて、私に気づいてくれる――その事実だけで、憂鬱だったはずの学校生活の終わりが、胸がときめく特別な時間に変わっていた。
今日も、私は人の波に揉まれないよう少し遠回りしながらモールへ入った。
2階の手すりから下を覗き込むと、すでにストリートピアノの前に座る見慣れた背中があった。
白いシャツの袖をまくり、真剣な横顔で鍵盤と向き合っている大原駈くん。
(……今日も、もう弾いているんだ)
私は誰にも見つからないように、柱の陰からそっと息を潜めてその姿を見つめた。
人見知りの私にとって、たくさんの人が行き交う場所でじっと突っ立っているだけでも勇気がいることなのに、彼のそばに近づくとなると、途端に心臓が激しく脈を打ち始める。昨日あんな風に名前を呼ばれ、言葉を交わしたというのに、いざ本人を目の前にすると、気恥ずかしさと緊張で足がすくんでしまうのだ。
「……今日は、これ」
誰もいない空間に向かって呟くように、駈くんはゆっくりと両手を鍵盤の上に落とした。
流れてきたのは、昨日までの哀愁を帯びた曲とは少し違う、牧歌的で、どこか温かい、誰もが一度は耳にしたことがあるような優しいメロディーだった。
――『ケンタッキーの我が家』。
その音が響いた瞬間、私の胸の奥がふわりと温かさに包まれた。
古びた家の梁に差し込む柔らかな光のような、あるいは寒い日に暖炉のそばで毛布にくるまっているような、穏やかで優しい時間が空間に満ちていく。
駈くんの指先は、まるで大切なものを傷つけないように扱うみたいに、一つひとつの音を丁寧に、慈しむように紡いでいた。
(……すごく、優しい音……)
いつも彼の背中に感じていたどこか切ない孤独の影が、今日のこの曲には少しだけ薄れているように見えた。
その理由が知りたくて、私は無意識のうちに、柱の陰から一歩、また一歩と足を踏み出していた。
(ダメだよ、天音。急に近づいたら変に思われちゃう……!)
頭の中では臆病な自分が必死にブレーキをかけるのに、心臓の奥のほうで、もっと彼の近くに行きたい、彼の奏でる音の温度を近くで感じたいという強い衝動がせり上がってくる。
気づけば、私はピアノのすぐ近く、ベンチの端っこにそっと腰を下ろしていた。
駈くんは演奏の途中でふと気配に気づいたのか、鍵盤から片手を離し、隣を振り返った。
その黒目が大きく見開かれ、驚いたように私をとらえる。
「……天音ちゃん?」
「あっ……えっと、その……」
名前を呼ばれた瞬間、頭が真っ白になり、私は反射的に小さく縮こまった。急に隣に座ったりして、邪魔だったかもしれない。迷惑だったらどうしよう――そんな不安が一気に押し寄せて、私は慌てて立ち上がろうとした。
「ご、ごめんね……! 邪魔だったよね、私、すぐに――」
「待って!」
逃げ出そうとした私の手首を、駈くんの大きな手がふわりと掴んだ。
その温かさに、体がビクリと硬直する。見上げると、駈くんは慌てたような、けれどどこか嬉しそうな、困ったような複雑な笑みを浮かべていた。
「逃げないでよ。……邪魔なんかじゃないって。来てくれて、嬉しいよ」
「う、嬉しい……?」
「うん。ずっと、隣に誰か座ってくれたらいいなって思ってたからさ」
駈くんはそっと手を離すと、ピアノの椅子を少しだけ私の方へ引き寄せ、トントンと隣の空いたスペースを叩いた。
「ほら、そこに座ってよ。立たれると、なんだか俺が何か悪いことしたみたいで落ち着かないからさ」
「う、うん……」
私は顔が真っ赤になっているのを必死に隠しながら、おずおずと彼の隣のベンチに腰を下ろした。
至近距離から伝わってくる彼の体温に、心臓の音がうるさすぎて、きっと彼にも聞こえているんじゃないかと本気で焦る。
駈くんは少し照れくそうに鼻を軽くこすると、ふうっと息をついてから、再び鍵盤に視線を落とした。
「さっきの曲、聴いててくれた?」
「うん……すごく、温かい曲だった。聴いていると、なんだか胸がじんわりして……」
私の言葉に、駈くんは嬉しそうに目を細めた。
「だろ? この曲、小さい頃によく……母さんが弾いてくれたんだ」
「お母さん……が」
「うん。俺の母さん、ピアノがすごく上手だったんだよ。俺がどんなに泣き虫で、わがまま言って困らせてても、母さんがこの曲を弾き始めると、全部嘘みたいに穏やかな気持ちになれたんだ」
駈くんは、自分の指先をじっと見つめた。その横顔には、あの日のような深い影はなく、ただ純粋な懐かしさと、母親を想う優しい愛おしさが満ちていた。
いつもは自分の内面を見せるのを怖がっているように見えた彼が、こうして自ら家族の話をしてくれる。それが、人見知りで他人の懐に入るのが苦手な私にとって、どれほど特別なことであるか、痛いほど分かった。
「駈くんのお母さん……きっと、すごく優しい人だったんだね」
私が絞り出すような小さな声で呟くと、駈くんはふっと優しく微笑んだ。
「ああ。世界で一番、太陽みたいな人だったよ。……俺が小さい頃、あそこの本屋で馬の図鑑が欲しくて大泣きした時もさ、母さんは怒る代わりに、ここで『草競馬』を弾いてなだめてくれたんだ」
「えっ……本屋で?」
あの時のことだ。天音は大切にしていた思い出を引き出した。
「うん。恥ずかしい話だけどさ。その時も、俺は地団駄踏んで困らせてたんだよ」
駈くんの意外な子供の頃のエピソードに、私は思わずクスッと小さく笑ってしまった。
「ふふっ……駈くんにも、そんな子供っぽいところがあったんだね」
「そりゃあるよ! 俺だって人間だもん」
駈くんは少し照れくさそうに頬を掻き、それからフッと表情を和らげた。
「でもさ、今の俺が弾く『ケンタッキーの我が家』は、まだまだ母さんみたいに温かくないんだ。ただ何となく、あの頃の温もりを懐かしんでるだけでさ……たまに、自分が情けなくなるんだよ。母さんの足元にも及ばないなって」
自己嫌悪を含んだその言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥がキュッと締め付けられた。
彼の音がどこか切なく、時折ひどく寂しげに聴こえていたのは、失ったものへの憧れと、今の自分へのもどかしさが混ざっていたからなのだと気づいた。
人見知りで、普段は自分の意見なんて誰にも言えない私だけど。
今、この瞬間だけは、目の前で悩んでいるこの人に、どうしても伝えたい言葉があった。
私は小さく息を吸い込むと、勇気を振り絞って、駈くんの袖をほんの少しだけ、指先でキュッと掴んだ。
「そんなこと……ない、です」
駈くんが驚いたように、私をまっすぐに見つめた。
私の顔はきっとまた真っ赤に染まっているだろうけれど、視線を逸らすことだけはしなかった。
「駈くんのピアノは……寂しいだけじゃないよ。すごく丁寧で、聴いている人に『ここにいてもいいんだよ』って、そっと寄り添ってくれるような……そんな優しさがあるよ。私、毎日あなたのピアノを聴くたびに、すごく救われてるから……だから、自分を責めないで、ほしいな……っ」
一気にまくし立てたあと、私は恥ずかしさと恐怖で一気に息が詰まりそうになり、キュッと目を瞑ってしまった。
余計なことまで言っちゃったかもしれない。こんな内気な女の子が生意気に励まそうとなんて、迷惑だったかもしれない。
心臓がバクバクと暴れ回り、今すぐこの場から消え去りたい衝動に駆られた、その時。
温かいものが、私の頭を優しく包み込んだ。
「――っ」
そっと目を開けると、すぐ目の前に駈くんの笑顔があった。
彼は自分の大きな手で、私の頭をポンポンと優しく撫でてくれていた。その瞳は、驚きと、それ以上に深い感動の色で潤んでいた。
「天音ちゃん……」
駈くんの声が、少しだけ震えているように聞こえた。
「俺のピアノが、天音ちゃんを救ってるなんて……そんなこと、今まで誰も言ってくれなかった。母さん以外に、俺の音のそんなところまで見てくれた人なんて、いなかったからさ」
駈くんはふっと息を吐き出すと、まるで見違えるような、太陽のように眩しい笑顔を咲かせた。
「……そっか。天音ちゃんがそう言ってくれるなら、俺、もう少しだけこの場所で、この音を信じて弾いてもいいよな」
「うん……! うん、絶対に、大丈夫だよ……!」
私は涙がこぼれそうになるのを必死にこらえながら、力強く何度も頷いた。
駈くんは優しく微笑むと、再び鍵盤へと向き直った。
そして、さっきの『ケンタッキーの我が家』を、もう一度、今度は先ほどよりもさらに優しく、語りかけるように弾き始めた。
そのメロディーを聴きながら、私は確信していた。
私たちがこうして言葉を交わし、不器用ながらも心を重ね合わせているこの時間こそが、駈くんにとっての、そして私にとっても新しい「我が家」になるのだと。
夕暮れの光が二人を優しく包み込む中、私たちはそれぞれの心にある温かな拠り所を、しっかりと見出していた。
この作品では加筆修正が少ないですが、この章で加筆した部分は行の初めに一マス空けています。
それにしてもAIも少女マンガのような小説を書けるのですね☺️




