第2章 老犬トレイ (変わらない絆と、寄り添う視線)
視線が絡み合ったあの瞬間の気まずさと、胸の奥をかき乱されるような熱をどうにか鎮めたくて、私はその場から一目散に逃げ出したかった。けれど、足元に根が生えたように動けない私を置いて、周囲のざわめきだけが日常の音へと戻っていく。
「ど、どうしよう……目が、合っちゃった……」
柱の陰に隠れるように体をすくめ、私は小さく息を吐き出した。自分の心臓の音がうるさすぎて、近くを通る通行人にまで聞こえているんじゃないかと本気で焦る。
あの日、10年前の書店でぶつかってから、私の中で大原 駈という存在は特別だった。けれど、それはあくまで「遠くから憧れているだけの存在」だったはずなのだ。人見知りで、自分から人に話しかけることなんて人生で一度もできたことがない私にとって、彼のような眩しい存在は、同じ世界に生きているとは思えないほど遠い人だった。
それなのに。
あの日、このショッピングモールで彼のピアノの音色を再び耳にしてから、私の毎日はすっかり変わってしまった。
学校が終わると、足は自然とこのモールに向かっている。遠くから彼の弾くフォスターの曲に耳を傾け、誰にも見つからないようにそっとその姿を眺めて帰る――それが、臆病な私にとっての精一杯の「秘密の楽しみ」だった。
なのに、あんな風にまっすぐ見つめられてしまったら。
私の隠していたはずの想いが、全部見透かされてしまったような気がして、顔から火が出るほど熱かった。
(もう、あそこに行くのはやめよう……。あんな風に目が合うなんて、心臓が持たないよ……)
そう頭の中で何度も自分に言い聞かせたのに。
不思議なもので、翌日の放課後になると、私の足はまた同じショッピングモールのエスカレーターを上がっていた。どうしても、彼の音が聴きたくて仕方がなかったのだ。
* * *
その日も、私はいつものように少し離れた2階の吹き抜けの隅に身を寄せていた。
まわりのざわざわとした人の波から少しだけ外れた場所。ここなら誰にも見つからない。そう安心しながら、下の階にあるストリートピアノを見下ろした。
そこに座る駈くんの背中は、昨日よりも少しだけ小さく見えた。
まわりを行き交う人々は誰も足を止めず、ただ通り過ぎていく。少し静かな夕方の時間帯。
彼はゆっくりと鍵盤に手を伸ばし、静かに指を滑らせた。
――『老犬トレイ』。
哀愁を帯びた、静かで、どこか寂しげなメロディーが空間に広がる。
それはフォスターの曲のなかでも、穏やかな寂しさに満ちた曲だった。
駈くんの指先は丁寧で、まるで何か大切なものをそっと撫でるように、一つひとつの音を大切に紡いでいる。その横顔を見ていると、胸の奥がキュッと締め付けられるような、痛いほどの愛おしさがこみ上げてきた。
(……どうして、そんなに寂しそうな音を出すの……?)
いつもは軽快で明るい曲を弾いていても、ふとした瞬間に彼の音には深い孤独の影が混じる。
誰にも言えない痛みを抱えているような、そんな彼の背中を見ていると、胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、じっとしていられなくなる。
気づけば、私の足は自分で思っているよりも早く、柱の陰から一歩、また一歩と踏み出していた。
(ダメだよ、天音。見つかっちゃう。また昨日みたいになったら……っ)
頭の中では必死にブレーキを踏んでいるのに、足は勝手に階段を下り、彼のいるピアノのすぐ近くへと近づいていく。
曲の最後の音が、しじまの中に溶けるように消えていく。
ペダルからゆっくりと足を離した駈くんは、ふうっと小さく息をつき、膝の上で軽く組んだ両手をじっと見つめていた。その背中があまりにも孤独で、私の口から、自分でも信じられないほど小さな声がこぼれ落ちていた。
「……すごく、綺麗な音……だった、です」
自分でも驚くほど掠れた、蚊の鳴くような声だった。
それでも、静まり返った吹き抜けの空間で、その言葉は彼に届いてしまったらしい。
駈くんがビクッと肩を揺らし、驚いたように顔を上げる。
そして、私の姿を見つけた。
「っ……!」
駈くんの黒目が大きく見開かれる。
私は心臓が喉まで飛び出しそうなほどの恐怖と緊張に襲われ、今すぐここで消えてしまいたい衝動に駆られた。逃げたい。逃げなきゃいけないのに、足がすくんで一歩も動けない。
「……あの、えっと……でも、寂しい感じがする音でした」
頭の中が真っ白になりながらも、私は震える声で何とか言葉を絞り出した。声が小さすぎて、きっと彼には届いていない。どうしよう、何か言わなきゃ。変な奴だと思われる、逃げ出せ、私――!
頭の中でパニックを起こしていると、目の前のピアノの椅子から、駈くんがスッと立ち上がった。
そして、驚くほどまっすぐな足取りで、私のほうへ歩いてくる。
「っ、こ、こないで……じゃなくて、その……!」
あまりの近さに、私は反射的にぎゅっと目を閉じ、両手で顔を覆ってしまった。逃げ出したい、でも逃げられない。そんな情けない姿をさらしている私の耳に、すぐ近くで彼の低い、優しい声が届いた。
「……毎日、聴いてくれてたんだね」
え、と思って、そっと指の隙間から目を細めた。
目の前に立っていた駈くんは、怒っているわけでも、気味悪がっているわけでもなく、どこか驚いたような、それでいて心の底から嬉しそうな、不思議な笑みを浮かべていた。
「え……?」
私がぽかんと口を開けると、駈くんは優しく微笑みながら、少しだけ距離を詰めてきた。
「ずっとさ、誰かが近くで聴いてくれている気がしてたんだ。でも、振り返るといつも誰もいなくて……気のせいかなって思ってた。……そっか、君だったんだね」
「わ、私……その、ずっと……」
恥ずかしさと緊張で、私の顔はきっとトマトのように真っ赤に熟れていたはずだ。逃げ出したいのに、彼の優しい瞳から目を離すことができない。
「変なことなんて言ってないよ」
駈くんは私のただならぬ緊張を察してくれたのか、困ったように、けれど柔らかく笑った。
「誰も……俺のピアノの音のそういうところなんて、言ってくれたことなかったから。嬉しいよ。ありがとう。」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ね上がった。
怒られるどころか、ありがとうなんて言われるなんて思っていなかった。
夕暮れのオレンジ色の光が、彼の横顔を優しく照らし出している。あんなに寂しそうに見えた彼の瞳の奥に、今はきらりと確かな光が宿っていた。
「俺は、大原駈。……君は?」
彼は自分の手をそっと体の脇に下ろし、少しだけ照れくさそうに名前を尋ねてきた。人見知りの私に、こんな風に優しく、ペースを合わせてくれる。
「私は……星野、天音……です」
声を絞り出すようにして答えると、駈くんは嬉しそうにその名前を繰り返してくれた。
「天音……そっか。天音ちゃん」
初めて名前を呼ばれたその響きが、なぜか胸のなかに温かく染み込んでいく。
私たちはストリートピアノの脇に並んで立つ形になり、気まずさと甘酸っぱさが入り混じった、でもどこか心地よい沈黙が私たちの間を包み込んだ。
「ねえ、天音ちゃん」
少しの間のあと、駈くんがぽつりと切り出した。
「また、明日も……ここで、俺のピアノを聴いてくれる?」
その問いかけは、どこか子供っぽく、けれどまっすぐで、私の返事を待つ彼の瞳は真剣そのものだった。
人見知りで、誰かと関わるのが怖かったはずの私の胸のなかで、その言葉が温かい波のように広がっていく。
私は大きく息を吸い込むと、震える手をそっとスカートの裾から離し、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「……うん。毎日、聴きに来る、ね」
駈くんは驚いたように目を丸くしたあと、まるで見違えるような、太陽みたいな笑顔を咲かせた。
それは10年前、お母さんの演奏を見上げていたときと同じ、世界で一番眩しい笑顔だった。
内気な私の小さな勇気が、あの日の記憶を越えて、やっと今、彼との新しい一歩を踏み出させた瞬間だった。




