第1章 おおスザンナ (動き出す時間、10年後の再会)
放課後のチャイムが遠くで鳴り響き、茜色の夕暮れが街の窓ガラスを染め上げる頃、私はいつも誰にも気づかれないように、足早にあのショッピングモールへと向かっていた。
ガラス張りの高い天井から降り注ぐ柔らかい光の中、ひんやりとした冷房の風と一緒に、軽快で明るいピアノの音が聴こえてくる。
――あの場所だ。
人混みが少し苦手な私は、人目を避けるように柱の陰へと身を寄せ、息をひそめるようにしてその背中を見つめた。
白いシャツの袖をまくり、真剣な横顔で鍵盤に向かっているのは、高校生になった大原 駈くんだった。彼が奏でているのは、陽気で弾むようなスティーブン・フォスターの『おおスザンナ』。
リズミカルな音色がモールの吹き抜けに響き渡り、通りすがりの人たちが思わず足を止めて、楽しそうに耳を傾けている。
(……相変わらず、すごい人だな)
私は胸の前で制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめ、心の中で小さく呟いた。
10年前、あの本屋で偶然ぶつかって、無茶苦茶に手を引いて走り去っていった男の子。そしてあの直後、目の前でお母さんのピアノを世界で一番誇らしそうに見上げていた小さな駈くん。
人見知りで、普段は誰ともうまく話せない私にとって、あの日の記憶は、心の奥底にずっと大切にしまい込んできた唯一の宝物だった。
まさか、あの時の男の子がこうして毎日のようにここでピアノを弾くようになるなんて。そして、それをこうして遠くから見守ることができるなんて、少し前の私なら想像もできなかっただろう。
「……あ、また弾いてる」
もっと近くで見たい。でも、人がたくさんいる輪の中に入る勇気なんて到底なくて、私はただ柱の影から一歩も動けずにいた。
近づきたい気持ちと、臆病な自分がせめぎ合う。昔からそうだ。声をかけたい、名前を呼びたいと思っても、いざとなると喉の奥がキュッと詰まって、声が出なくなってしまう。
私に見えているのは、いつだって遠くの背中ばかりだった。
ちょうど『おおスザンナ』の軽快な演奏が終わり、駈くんがふうっと息をつきながら、鍵盤から手を離したところだった。周りからパチパチと小さな拍手が起こり、駈くんは少し照れくそうに、けれどどこか誇らしげに軽く会釈をする。
その横顔は、10年前にお母さんの演奏を見上げていたあの日の面影を、驚くほど色濃く残していた。
(――あの日から、ずっと聴いていたんだよ。私の、大切な人)
心の中でそっとそう呟いた瞬間だった。
ふと、息を整えていた駈くんの視線が、なぜかまっすぐこちらに向いた。
――えっ。
驚いたように彼の黒目がわずかに見開き、私たちの目が宙でまっすぐに交差する。
柱の陰に隠れていたはずなのに、まるで最初からそこに見えていたかのように、駈くんの視線は私から離れなかった。
心臓がうるさいほど激しく跳ね上がり、私は息を呑んだ。
逃げ出したい、今すぐ走り去ってしまいたい。そんな臆病な衝動が頭を駆け巡るのに、なぜか足が一歩も動かない。彼の瞳に映る自分が気になって、呼吸をするのも忘れてしまいそうだった。
見つめ合うそのわずかな静寂が、まるで永遠のように長く感じられた放課後の夕暮れだった。




