プロローグ 草競馬ーあかね色のスケッチー
ショッピングモールの喧騒は、夕暮れ時になると少しだけ輪郭を柔らかくする。
自動ドアが開き、ひんやりとした冷房の風と、外の湿ったアスファルトの匂いが混ざり合う。平日の夕方、きらびやかなモールの一角にある大きな書店の児童書コーナーは、帰宅を急ぐ親子の足音と、絵本のページをめぐる乾いた音で満ちていた。
「おい、待てってば!」
子ども用の低めの本棚のあいだから、ドタバタと足音が響く。
お母さんの買い物を待っている間にじっとしていられなくなったのだろう。年長さんの駈は、いつもの「馬の図鑑」めがけて一直線にダッシュしていた。小さなスニーカーが床を蹴る音は、まるで小さな仔馬の蹄のようだった。
「あっ……!」
角を曲がりきった瞬間、目の前にふんわりとしたピンク色のワンピースの裾が飛び込んできた。
ブレーキが間に合うはずもない。
ドスン、と乾いた小さな衝突音がして、駈はバランスを崩して尻餅をついた。
「痛っ……」
目の前で、小さな女の子がその場にペタンと座り込んでいた。
手からポトリと落ちたのは、白い子犬が表紙に描かれた絵本。
駈は自分の尻の痛みも忘れてパッと顔を上げた。目の前の女の子は、驚きで丸くなった目をぱちぱちとさせ、まるで今何が起きたのか理解できていない様子だった。
「……っ」
駈は慌てて立ち上がると、落ちていた子犬の本をひょいと拾い上げた。そして、まだポカンとしている女の子の手首を、迷いのない小さな手でギュッとつかむ。
「ごめん!」
勢いよく引っ張り起こすと、女の子は「わっ」と声をもらした。
駈はそれ以上言葉を続けることもなく、ごめんねの代わりににかっと笑ってみせた。
「じゃあ!」
そして、まるで最初からそうする予定だったかのように、すぐ近くにあった「馬の図鑑」のコーナーへ再び猛ダッシュで駆けていってしまった。
「…………え?」
取り残された天音は、パチパチと瞬きを繰り返した。
さっきまで手をつながれていた右手の人差し指のあたりに、男の子の体温がまだかすかに残っている。開いた口が塞がらないまま、遠ざかっていく小さな背中を目で追った。
――なに、あの子……。
急にぶつかってきて、勝手に引っ張り起こして、風のように走り去っていった。少し呆れながらも、天音の胸の奥では、トクンと小さな波紋が広がっていた。
* * *
ほんの数分後。
「もう、駈! 勝手に走っちゃダメって言ったでしょ。それに、今日の買い出しの荷物はこんなに多いのよ。これ以上重い図鑑まで抱えて帰るなんて、到底無理なんだからね!」
「やだ! このウマの本がほしいの! 今日買ってよお!」
書店のレジ前で、駈はお母さんの服の裾を引っ張りながら大泣きしていた。
両手にはすでにスーパーのロゴが入った重たそうなレジ袋がいくつもぶら下がっており、お母さんは困り果てたように大きなため息をついている。
「おねがい、今日買ってよー!」
「ダメよ、お家に帰ってからお父さんとまた来ましょう?」
「やだやだ!」
駄々をこねて床に座り込みそうな勢いの駈に、お母さんは困った顔のまま、ふと目の前にあった「ストリートピアノ」に目を留めた。
「……もう、仕方のない子ね。少しここで待ってて。お母さんが魔法をかけてあげるから」
お母さんは両手に持っていたたくさんのレジ袋をよいしょと足元に下ろすと、鍵盤の前にそっと腰を下ろした。
そして、ため息を驚くような軽やかなステップに変えるように、鍵盤の上へと指を滑らせた。
――『草競馬』。
軽快で弾むようなメロディーが、モールの広い空間にパッと花火のように広がっていく。
あまりの鮮やかな手並みに、先ほどまで駄々をこねていた駈は、泣き顔のままピタリと動きを止めた。
行き交う人々が思わず足を止め、音のほうを振り返る。
その中心で、お母さんの指先は驚くほど滑らかに、楽しそうに鍵盤の上を舞っていた。
「わあ……!」
駈はすっかり「馬の図鑑」のことなど忘れてしまい、母親の隣にぴったりと寄り添い、目をキラキラと輝かせていた。
「お母さん、すごい! お馬さんが走ってるみたい!」
ぴょんぴょんとその場で跳ねながら、駈は両手をパタパタと動かして馬のマネをする。
恥ずかしがる様子もなく、ただ純粋に、目の前でピアノを弾く母親のことが好きで好きでたまらない――そんな眩しすぎるほどの「誇らしげな目」で、駈は見上げていた。
お母さんは嬉しそうに微笑み返し、二人の間には、世界で一番温かい空気が流れていた。
少し離れた場所で、母の手を引かれながらそれを見ていた幼い天音は、胸を突かれたようにじっと立ち尽くしていた。
ピアノの音色そのものよりも、あの男の子が浮かべていた「自慢の母親を見つめる誇らしげな横顔」が、天音の小さな胸に焼き付いて離れなかった。
――あんなふうに誰かを誇らしく思えるって、すごく素敵なことだ。
――あの子の笑った顔、なんだかカッコよかったな。
音楽の楽しさと、あの日の男の子の温かな横顔が、天音の中で鮮やかに混ざり合った瞬間だった。
(……あの日から、ずっと、心のどこかに残っていたんだ)
あれから十年。
季節は巡り、高校生になった天音は、今、夕暮れのショッピングモールにいた。
見慣れたストリートピアノの前に座っているのは、もうあの日の小さな男の子ではない。少し背が高くなり、少しだけ大人びた輪郭をした、けれど面影を色濃く残す少年――駈だった。
相変わらず彼は、その場所でフォスターの曲を弾いている。
軽快で、どこか切なさを纏った『草競馬』のメロディーが、当時の記憶を鮮やかに引きずり出すように響き渡っていた。
周りにはいつの間にか何人もの人が集まり、その演奏に聴き入っている。
天音は少し離れた柱にもたれかかり、トクンと高鳴る胸をそっと左手で押さえた。
「ねえ、天音。また今日のフォスター君、あの曲弾いてるよ」
クラスメイトの友人が、クスッと笑いながら天音の腕をツンツンと突く。
「うん……」
「また聴いていくの? 本当に好きだよね、あの人のピアノ」
友人の冷やかすような、でもどこか優しい声が遠くで聞こえる。
天音は答えず、ただじっとピアノの前に座る駈の背中を見つめた。
10年前、本屋でぶつかって、手を引いてくれた乱暴で不器用な男の子。
荷物が多くて買ってもらえなかった図鑑の前で、お母さんのピアノに夢中になっていた男の子。
――「……あの日から、ずっと聴いていたんだよ。私のフォスター君」
心の中で小さく呟いた言葉は、夕暮れの音楽にかき消されて消えていく。
けれど、高鳴る鼓動だけは嘘をつけなかった。
天音は、制服のスカートの裾をキュッと握りしめると、胸の奥の切なさと愛おしさを抱えたまま、まっすぐに彼のほうへと歩き出した。
草競馬など幼い頃から曲名は知らなくても耳馴染みのフォスターの曲。
この物語はそんなフォスターの曲に絡めた、大原駈と星野天音の物語です。
投稿済みの掌編集ストリートピアノの草競馬を入力をアイデアと共に入力して、AIが紡ぎました。
フォスターの曲をイメージしたアニメ、風の中の少女ー金髪のジェニーーという作品がありますが、ちがった感じのフォスターの曲で綴る物語です。




