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第10話 貴族になる。

「ああ、先生。うちはねえ今度、男爵になるんですよ」

マルセルは家庭教師協会から来た、思ったより地味な女に席を立ちもせずに挨拶をする。先ほどまで吸っていた葉巻が、灰皿でくすぶっている。


「それでね、うちの息子を貴族用の学院に入れたいと思いましてね。今、14歳なので、一年で何とかしてほしい。」

「はい。では、そのための勉強でございますね」

葬式帰りのような真っ黒のワンピースを着た女が、淡々と答える。

「礼儀作法や、ダンスなども組み込んだ方がよろしいですか?」

「ああ。金に糸目は付けません。必要なものは買っていただいて構いません。」


かしこまりました、と言いながら、その女が頭を下げるのを眺める。


マルセルは…ここまでのし上がった。

オヤジから譲られた、小さな商店から、努力して努力して、寝る間も惜しんで働いてきた。今はそれなりに大きな商会を経営している。あと一歩。

裏で売り出されていた男爵位を手に入れる。それなりの金は払った。自分とそう変わらない年齢の爺さんに養子に入る段取りになっている。いわゆる、身分はかろうじてあるが、没落寸前の家。


長女を貴族に嫁に出して、とも思ったが、それでは親族に貴族がいるだけなので、息子は平民のままだ。身分を買って、俺も息子も貴族になる。商売もやりやすくなるし、俺に金を借りていながらも裏で平民風情が、とほざいていた貴族連中も見返せる。

この家庭教師だって、わかったもんじゃない。家庭教師協会に申し込んだときに、家名を書け、と言われたしな。なんだ、平民の子供か、などと思われるのもしゃくだ。


俺の部下に付き添われて部屋を出ていく家庭教師。デボラと言ったか。


屋敷も建てた。装飾品も凝ったものを揃えた。前妻は金を握らせて離縁して、その男爵の爺さんの行き遅れの娘を後妻に貰う予定になっている。


俺の人生も捨てたもんじゃない。とうとうここまでのし上がった。


マルセルは新しい葉巻に火をつけると、皮張りのソファーにその小太りの体を沈ませた。



***


「初めまして、ジル様。今日から家庭教師を務めるデボラと申します。」


俺の部屋に、オヤジの部下に連れられて入ってきた女がそう言って頭を下げる。

…地味な女だな。

しかも、家庭教師、って…オヤジ本気だったんだ。


ジルは、頭の先からつま先までその女を観察した。黒のワンピースにこげ茶の髪。平民でもいそうだが、瞳は緑色か…。俺は庶民中の庶民。茶髪に茶色い目。それが嫌だと思ったことはないが、オヤジは不満らしい。


真新しい部屋でベッドに寝そべって雑誌を読んでいた俺は、起き上るのも億劫だったので、そのまま挨拶した。

「はーい。よろしくねえ。」


**


いざ勉強というものが始まってみると、このデボラ先生という女が、マジ真面目な女だということが分かった。冗談も通じない。

「ねえ、先生。授業料のほかにお金やるからさ、今日の午後、見逃してちょ?俺、彼女とデートなんだよね」

「授業料はキチンといただいておりますので、ご心配なく。私にはあなたを貴族令息として見劣りしないように教育する責務がございますので」


きっちり朝8時には来る先生は、怒りもしなければ、媚びも売らずに、授業を続ける。俺の勉強部屋になった応対室のドアの外には逃げ出さないように、オヤジが部下を立たせている。やってらんねえぜ。


午前中はいわゆる一般教養や、読み書き計算。

午後は礼儀作法や…ダンス?

貴族って…お茶も自由に飲めねえのかよ?


先生が丁寧に入れてくれた紅茶を、ソーサーとカップを持って…

「うああああ、もういいよ。俺は今まで通りで良いんだ!」


金にだって不自由してこなかったし、前に住んでいた下町の家だって住み心地が良かった。オカンは口うるさかったが。

夜中に悪い友達が俺の部屋の窓を叩くので、こっそり抜け出して女遊びもした。年をごまかして酒も飲みに行ったなあ。金はみな俺が払った。言えば言っただけオヤジが小遣いをくれた。


「何でこんなことしなきゃならねえんだよ?」

俺が癇癪を起して投げ捨てて割れたカップを、先生が丁寧に拾っている。


「貴族社会で生きていくにあたって、最低限の礼儀作法は必要です。それに、ゆくゆくお父様の事業を継承なさるのに、計算もできない経営者では困るから。で、しょうか?」

破片を拾い集めながら、淡々と先生が言った。


「俺が小さい頃は…オヤジもオカンも汗かきながら朝から晩まで働いてた。俺も姉ちゃんも手伝えるところは手伝った。家のこととかな?それがどうだ?オヤジはオカンを捨てるらしい。貴族になるってのは…そんなことまでしなくちゃいけないのか?」

「……」


先生にあたっても仕方がないことだと、わかってはいるが…。


「貴族になるということは、国王や領民に対して責任を負う、ということです。自分の家族のことだけではなく、自分の領地の民のことも考えなければいけません。身勝手は身を滅ぼします。商家でも同じでしょう?従業員の生活を守らなければいけないでしょう?それが…少し大きくなった感じでしょうか?」

「……」

「奥様のことは…どのような事情があるのかは存じ上げません。」


そう言いながら、先生が真新しい絨毯にできたシミを、濡らした雑巾で叩きだした。

それを眺めながら…俺はなんだか泣きそうになった。


「子供はつまんねえな。結局、親の言いなりにしとかなくちゃ、飯も食えねえのかよ…。」

「どうでしょう?働く、にしても、読み書き計算ぐらいはできた方がよろしいかとは思います。」



俺は仕方なく、先生の言う通り、読み書き計算は真面目にやった。

お茶は、飲みたいように飲んだ。そのかわり午後は新聞を隅から隅まで音読させられた。クソつまらねえ話が多かったが、時々、おっ、と思うような記事もあった。分からない単語を先生に聞こうとすると、辞書を差し出される。仕方なく、辞書を引く。


そんな生活をして、3か月ほどたった。

新聞は意外と面白いことが分かった。

事件や事故はもちろんだが、今の流行も分かるし、なんとかおばさんのおすすめ料理レシピ、なんてのも載っていたりする。毎日、ほんの少しずつ進む小説も面白かった。誰が誰とどうした、なんていうゴシップがあったり、イング国で始まるらしい蒸気機関の論文も読んだ。


俺が音読している間、先生は座ってお茶を飲みながら、時々、読み間違いを指摘したりする。読んだ記事について質問すると、先生は教えてくれる代わりに、次の日にはその関連の本を俺に差し出す。

…俺は夢中でその本を読んだ。…そんな生活も結構面白かった。


「では、図書館に行って見ましょうか?」

先生に誘われて、乗合馬車に乗って王立図書館に行った。基本、貴族でなければ入館証が手に入らないらしいが、先生の家庭教師協会の会員証で入れた。


…おお!


俺は…田舎もんが都会に出てきて建物を見上げるみたいに、高い本棚を見上げた。本、本、本…。

「ジル君が昨日質問したのは、この国の税の徴収方法でしたね?」

そう言って先生がずんずんと進んでいく。その後ろを俺はきょろきょろしながら付いて行った。

俺は…平民だから目立つかと思ったら、利用している人たちはみんな本を読んでいたり調べ物をしていたりして、他人のことまでは見ていないようだ。


先生が本棚の前で立ち止まった。

「うーん」

と独り言を言ってから、つっと一冊本を引き抜いた。

「これがいいかしら。」


図書館に置かれている大きな机と椅子は、誰でも使っていいらしい。俺は、夢中で読みだした。


それは入門書のような、わかりやすく徴税の仕組みが書かれた本だった。読み進めていくと…誰かが栞の代わりに挟んで忘れたのか、チラシのようなものが一枚挟まっていた。俺はそっとそれを引き抜いて、ポケットに入れた。

先生は俺が本を読んでいる隣の席に座って、なにやら難しそうな本を読んでいた。


その夜に、ジルはランプを付けた自分の部屋で、図書館から持ってきたチラシを広げた。

【商業専門学校入学要綱】

チラシ自体は2年ほど前のものらしいが、商業学校というものがあるんだ…。そう思いながら読んでいく。昼間部は3年間、夜間部は4年間。働きながら夜間部で学べるらしい。平民でも入学できる。

…商業学校か…。


入学するにはもちろん試験がある。読み書き計算。小論文。ってなんだ?

年末に試験があって、来春から入学、か…。


ジルはそのチラシを何度も読んで、大事そうにまた折りたたむと、机の引き出しにしまった。








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