第3話 訓練開始
翌朝、まだ空が白み始めたばかりの時間だった。
ひやりとした朝の空気が頬を撫でる。バーデン公爵家の広い庭には、朝露の残る草の匂いが満ちていた。眠気など、とっくに吹き飛んでいる。
いや、正確に言えば――目の前に立つ人を見た瞬間に、そんなものは吹き飛んだ。
「遅くはない。だが、速くもない」
低く、腹の底に響くような声だった。
俺は反射的に背筋を伸ばす。
「……はい」
目の前にいるのは、祖父――ゴウル・バーデン。
俺にとっては、お祖父様。
バーデン公爵家の前当主にして、アスティア帝国最強と名高い男だ。
年齢だけ見れば、もう第一線を退いていてもおかしくはない。けれど、目の前の姿を見れば、そんな考えは一瞬で消える。体は大きく、分厚い胸板と盛り上がった腕の筋肉は、今なお現役の戦士そのものだった。鍛え抜かれた肉体は古びるどころか、むしろ積み上げられた年数の分だけ凄みを増しているように見える。
立っているだけで威圧感があった。
言葉を交わさなくても分かる。この人は強い。たぶん、理屈より先に体が理解してしまう種類の強さだ。
「今日からお前の基礎を鍛え直す」
お祖父様はそう言って、庭の隅に立てかけてあった木剣を顎で示した。
「持て」
「はい、お祖父様」
俺は木剣を手に取った。
ずしり、とした重みが手のひらに伝わる。子供用とはいえ、軽くはない。
「構えろ」
短い命令だった。
言われた通りに構える。
けれど次の瞬間には、
「違う」
ぴしゃりと切り捨てられた。
「肩に力が入りすぎている。腰が浮いている。足の幅も甘い。そんな構えでは、振る前から崩れているのと同じだ」
「……はい」
「返事だけは良いな。なら直せ」
容赦がない。
木剣を持つ手の位置、肘の角度、足の開き、重心の置き方。お祖父様は一つ一つを正しながら、ほんのわずかな乱れも見逃さなかった。
「構えとは、そのまま生き方だ。雑な構えをする者は、いざという時も雑に死ぬ」
朝一番から言う言葉ではない気もするが、この人なら妙に納得してしまう。
俺は何度も構え直した。
ただ立つだけ。木剣を構えるだけ。
それなのに、少し経つ頃には腕がじわじわと重くなってくる。肩も足も痛い。体のあちこちが悲鳴を上げ始める。
だが、お祖父様は許さない。
「まだだ」
「もっと腰を落とせ」
「目線を切るな」
「力を入れろ。だが力むな」
無茶を言っているようで、実際やってみると何となく分かる。無駄に固まるのではなく、必要なところだけを締める。言葉にすれば簡単だが、それを体に覚え込ませるのは難しかった。
汗が一筋、頬を伝う。
朝だというのに、背中はもうじっとりと湿っていた。
---
ようやく構えを許された頃には、腕がかなり重くなっていた。
だが、お祖父様の訓練はそこからが本番だった。
「振れ」
「はい!」
「一太刀ごとに意味を持て。雑に振るな。敵を斬るつもりで振れ」
木剣を振る。
風を切る音が耳に残る。
もう一度振る。
また振る。
何十回、何百回と繰り返していくうちに、腕の感覚はどんどん鈍くなっていった。けれど、少しでも軌道がずれれば、すぐにお祖父様の声が飛ぶ。
「手打ちになるな!」
「足が止まっている!」
「全身を使え!」
その一声ごとに、自分の甘さを思い知らされる。
正直、きつい。
前世の俺なら、たぶんすぐに嫌になっていた。面倒だとか、苦しいとか、向いていないとか、そういう理由をいくつも並べて逃げていたと思う。
でも今は違う。
この世界で生きるなら、強くならなければいけない。
それも、できるだけまっとうな形で。
暴食――ハートイーターに頼らずに済む強さを、まずは身につけたい。
そのためなら、この程度で音を上げるわけにはいかなかった。
「顔に出ているぞ」
お祖父様が言った。
「え?」
「苦しい、きつい、やめたい。全部顔に書いてある」
「……すみません」
「謝る暇があれば振れ」
「はい!」
木剣を振る。
息が荒くなっていく。
手のひらも少し痛い。
それでも振る。
地道で、単純で、派手さのない繰り返しだった。けれど不思議と、無意味だとは思わなかった。
一つ振るたびに、ほんの少しずつ、自分の中に芯ができていくような感覚があった。
---
午前の剣術が終わる頃には、腕が鉛のように重かった。
これでようやく休めるかと思ったが、もちろん甘かった。
「次は体術だ」
お祖父様の一言で、希望はあっさり砕け散る。
「……はい」
「声が死んでいる」
「はい!」
「よろしい」
よろしい、で済ませていい負荷じゃない気がしたが、口には出さない。
体術では、まず立ち方から教え込まれた。
剣がなくても戦えるように、足運び、踏み込み、重心移動、相手との間合い。殴る蹴るといった分かりやすい動作より先に、その土台をひたすら叩き込まれる。
「相手の動きを見ろ。自分だけを見ている者は、いずれ必ず死ぬ」
お祖父様は、俺の動きに合わせて軽く手を出してくる。
それを避けるだけなのに難しい。
見えているのに反応できない。反応しても体がついていかない。たったそれだけのことに、自分の未熟さがよく分かった。
「遅い」
軽く額を弾かれる。
「痛っ」
「今のは死んだ」
「……はい」
「次」
休ませる気がない。
だが、嫌いではなかった。
たぶん俺は、前の人生でこういうふうに何かを積み上げたことがなかったのだと思う。苦しいが、昨日の自分よりは少しだけ前に進んでいる。その実感があるだけで、何とか食らいついていけた。
---
昼を過ぎ、少し休憩を挟んだ後。
今度は庭の別の場所で、アル兄さんが木剣を持って待っていた。
風に揺れる髪を軽くかき上げながら、いつも通りの落ち着いた表情でこちらを見る。
「お祖父様の訓練、どうだった?」
「きつい」
「だろうな」
アル兄さんは少し笑った。
この人は昔からそうだ。必要以上に甘やかしはしないが、突き放すこともしない。ちょうどいい距離感で横にいてくれる。
「じゃあ、ここからは実戦寄りでやるぞ」
「もうやるの?」
「やる。基礎だけじゃつまらないだろ」
そう言って木剣を構える姿は、やはり様になっていた。
アル兄さんは剣術に加えて、風魔法の適性も持っている。足運びが軽く、動きに無駄がない。見ているだけだと柔らかく見えるのに、いざ向かい合うと鋭さがある。
「来い、エイト」
「……うん」
俺も木剣を構えた。
打ち合う。
一合、二合、三合。
すぐに分かる。強い。
同じ木剣でも、アル兄さんの一撃は重さより“速さ”が印象に残る。最短で入ってきて、最短で離れる。無理に押し切るのではなく、こちらの隙を拾ってくる感じだ。
「ほら、足が止まってる」
木剣が軽く肩に当たる。
「くっ……!」
「剣だけ見すぎだ。全体を見ろ」
打ち込む。
かわされる。
打ち返される。
また止める。
悔しいが、まだ明らかに上をいかれていた。
「でも、昨日よりはいい」
少し距離を取ったところで、アル兄さんが言った。
「本当に?」
「本当。お祖父様の訓練、ちゃんと効いてるよ」
その言葉に、少しだけ息が楽になる。
きつかった分、ちゃんと意味はあるらしい。
---
「お兄ちゃんー!」
明るい声が飛んできた。
振り向くと、リリアが小走りでこちらへ向かってきていた。
兄弟の中で一番年下のリリアは、こういう時いつも空気を軽くしてくれる。表情がころころ変わって、思ったことがすぐ顔に出る。けれど、だからこそ家の中の雰囲気が和むのだと思う。
「終わったの?」
「今ちょうど休憩」
「じゃあ見てて! わたしも先生に教わったの、少しできるようになったの!」
そう言って、リリアは胸を張った。
母さん譲りの明るさと、ちょっとした負けず嫌いが混ざった顔だ。
「見たい」
俺がそう言うと、リリアは嬉しそうに頷いた。
「えへへ。じゃあ、いくよ」
両手を前に出し、息を整える。
「――ファイア」
ぽっと、小さな炎が生まれた。
まだ大きくはないし、少し揺らいでもいる。けれど、確かに炎の魔術だった。
「すごい」
「でしょ!」
リリアの顔がぱっと明るくなる。
「それだけじゃないよ。こっちも」
今度は胸の前で手を合わせるようにして、静かに詠唱した。
「――ヒール」
淡い光が手のひらに集まった。
柔らかく、温かそうな光だった。回復魔術の気配は見ているだけでもどこか安心する。
「リリアは回復と炎か」
アル兄さんが言う。
「うん! 先生にも相性がいいって言われたの!」
「すごいじゃん」
俺が褒めると、リリアは満面の笑みを浮かべた。
「えへへ。お兄ちゃんも頑張ってるもんね」
そう言ってくれる声に、少しだけ力が抜ける。
兄弟仲は良い方だと思う。
アル兄さんは落ち着いていて頼れるし、リリアは素直で明るい。前世にはなかった家族との距離が、今の俺には不思議なくらい心地よかった。
---
それからの日々は、驚くほど規則正しく流れていった。
朝は早くから庭に出て、お祖父様のもとで剣術と体術の稽古。
基礎の反復。型。足運び。受け流し。打ち込み。組み手。
どれも地味で、どれも苦しい。
それでも、お祖父様は一切手を抜かない。
「強くなりたいなら、楽をするな」
何度もそう言われた。
昼には弓術や魔術の練習も入る。
弓術では、腕力だけでは駄目だと知った。狙いを定める目、ぶれない体幹、呼吸の合わせ方。そのすべてが噛み合ってようやく一本がまっすぐ飛ぶ。
夜になれば、今度は勉学だった。
俺たちは貴族だ。
剣が振れるだけでは駄目で、政治、歴史、地理、礼法、魔術理論、他国情勢まで学ばなければならない。昼に体を酷使し、夜には頭を使う。正直かなり大変だったが、それがこの家では当たり前だった。
最初のうちは、体が悲鳴を上げる日も多かった。
けれど、月日が流れるにつれて、少しずつそれにも慣れていった。
---
そして――月日は流れた。
---
木剣を振る。
踏み込み、斬り上げ、引く。
体の動きが、以前よりもずっと自然になっていた。
「ふむ」
少し離れたところで腕を組んで見ていたお祖父様が、低く唸る。
「悪くない」
その一言だけでも十分だった。
この人に褒められることは滅多にない。だからこそ、その短い評価に重みがある。
俺は木剣を握り直した。
気づけば、かなりのことができるようになっていた。
剣術、体術、弓術。
魔法も、火、水、氷、風、土、雷、回復。全属性を一応は扱えるところまでは来ている。もちろん、それぞれ得意不得意はあるし、まだ完成には程遠い。それでも、同年代と比べればかなりできる方らしい。
その中でも特に手応えがあるのは、体術と氷魔術だった。
「エイト、氷を出してみろ」
お祖父様に言われ、俺は片手を前へ向ける。
息を整え、魔力を集中させた。
「――アイス」
空気がすっと冷える。
手の先に、透明感のある氷が形を成した。
小さいが、硬度も安定している。
「やはりな」
お祖父様が静かに頷いた。
「氷との相性が良い。体術もそうだ。お前は動きの中で力を通す方が向いている」
「自分でも、たぶんそう思います」
火や雷も使えなくはない。だが、氷だけは妙にしっくりきた。感覚的に、無理なく扱える。
体術も同じだ。
剣のように武器を介するのも嫌いではないが、自分の体そのものを使う動きは、不思議と馴染みやすかった。
---
「よし、次は俺だな」
アル兄さんが木剣を手に前へ出る。
俺も構えた。
何度も繰り返した、兄弟での立ち合いだ。
以前とは違う。今では、簡単にはやられない。
打ち合い、踏み込み、返す。
速い攻防が何度も続く。
「っ……!」
受ける。
切り返す。
アル兄さんも、俺の剣をきちんと受けるようになっていた。
しばらくして距離が空く。
互いに息を整える。
「ほんとに伸びたな」
アル兄さんが苦笑まじりに言った。
「お兄ちゃんも強いけどね」
「まだ俺の方が少し上だよ」
その言葉通りだった。
今の俺は、剣術だけならアル兄さんとかなりやり合える。
互角に近いところまでは来た。
けれど、ほんのわずかに、アル兄さんの方が上だ。
速さ。経験。判断の落ち着き。
その差が最後に出る。
「悔しい?」
「まあ、少しは」
「それでいい」
アル兄さんは笑った。
「追いつかれたら困るし」
そういう言い方が、この人らしかった。
---
ある日の夕食後、書庫に向かう途中で、アル兄さんがふと口を開いた。
「そういえば、来年には俺、家を出るからな」
「……カーティス大学だっけ」
「ああ。中央ラルラリアにある」
中央ラルラリア。
それはメリルダ大陸の中央に位置する不戦国家だ。
どの国にも完全には与せず、戦争には首を突っ込まない。その代わりに、交易と学問の中心として成り立っている。
世界の中心。
その呼び名にふさわしく、様々な人と知識が集まる土地だ。
中でも名高いのが、カーティス大学。
各国の貴族、優れた学者、武芸に秀でた者、魔術に長けた者。身分だけでなく実力も問われる学びの場で、世界中から若者たちが集まってくるという。
「アスティア帝国だけじゃなくて、他の国からも?」
「もちろん。ミリア王国からも来るし、マルシャル法国からも、セフィール聖王国からも来るらしい」
その名を聞いた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
ミリア王国。
アスティア帝国と長く仲が悪く、過去に何度も争いを繰り返してきた国。
そして――前世の俺を殺した貴族がいた国。
鮮明な記憶があるわけではない。けれど、断片のような感情だけは残っている。血の匂い、冷たい視線、届かなかった手。そういう嫌なものが胸の底に沈んでいた。
だが今は、まだその感情を掘り返す時じゃない。
「エイトは三年後だな」
アル兄さんが言う。
「リリアは五年後ー!」
近くで聞いていたリリアが、元気よく口を挟んだ。
「お兄ちゃんたちと同じところ行くの、楽しみ!」
「試験はあるけどな」
アル兄さんが言うと、リリアは胸を張った。
「でも、お祖父様の訓練の方が大変だもん!」
それには思わず笑いそうになった。
たしかにそうかもしれない。
試験がどれだけ難しくても、お祖父様の前で気を抜く方がよほど怖い。
「たぶん大丈夫だと思う」
俺がそう言うと、アル兄さんも頷いた。
「まあ、あれを耐えてるなら余裕だろうな」
---
メリルダ大陸には、五つの国がある。
俺たちが住むアスティア帝国。
長年対立してきたミリア王国。
様々な人種が共に暮らすマルシャル法国。
セフィール教を中心に成り立ち、法皇が実権を握るセフィール聖王国。
そして、どの国にも深入りせず、世界の中心として存在する中央ラルラリア。
それぞれの国に文化があり、考え方があり、歴史がある。
今の俺はまだ、その全てを知っているわけじゃない。
けれど、勉学を重ねるうちに少しずつ分かってきた。この世界は広い。そして、ただ剣が振れるだけでは生きていけないほど複雑だ。
だから学ぶ。
だから鍛える。
どちらも、欠かせない。
---
夕暮れの訓練場で、俺は一人、深く息を吐いた。
木剣を握る手には、しっかりとした感触がある。
前よりも、ずっと自然に握れていた。
「エイト」
振り返ると、お祖父様が立っていた。
「はい、お祖父様」
「お前は伸びる」
不意の言葉に、少し驚く。
お祖父様は、そんな俺の様子を気にしたふうもなく続けた。
「だが、まだ未完成だ。今のままでは通じる相手も限られる」
「……はい」
「油断するな。才能がある者ほど、途中で鈍る」
厳しい言葉だった。
けれど、同時に期待されているのだとも分かった。
「はい。もっと積みます」
そう答えると、お祖父様は静かに頷いた。
その一瞬だけ、ほんのわずかに口元が緩んだように見えたのは、気のせいじゃないと思いたい。
俺はもう一度、木剣を構える。
今の俺には、暴食がある。
ハートイーターという危うい力が、確かに胸の奥にある。
けれど、まだそれに頼るつもりはない。
まずは、普通に強くなる。
剣を学ぶ。体術を磨く。弓を引く。魔法を鍛える。昼は稽古し、夜は学ぶ。遠回りに見えても、それが一番確かな道だ。
そして、もし本当に必要な時が来たとしても。
その時、力に飲まれずに済む自分でありたい。
「もう一本、お願いします」
誰に向けた言葉かは、自分でも分かっていた。
アル兄さんが笑って前へ出る。
「いいよ。今度は簡単に負けないでくれよ」
「そのつもり」
夕日の中で木剣がぶつかる。
乾いた音が、庭に響く。
月日は流れ、俺は確かに強くなっていた。
けれど、まだ足りない。
まだまだ、足りない。
だから今日も積み上げる。
この人生を、今度こそ自分の足で歩くために。




