第2話 ハートイーター
教会からの帰り道、俺はずっと黙っていた。
春のやわらかな風が吹いている。石畳を踏む家族の足音も、行き交う人々の声も、ちゃんと耳には入っている。けれど、頭の中ではそれ以上に大きく、たった一つの言葉が何度も反響していた。
――暴食。
自分に与えられたスキルの名だ。
兄のアルは身体強化。妹のリリアは回復。どちらも分かりやすく、周囲も納得しやすい力だろう。貴族の子としても、将来役に立つとすぐに想像できる。
だが、暴食は違う。
響きからして不穏だ。教会で神父がその名を告げた瞬間、空気がわずかに変わったのを俺は見逃さなかった。父さんも母さんも表情を崩さなかったが、ほんの一瞬だけ、目の奥に何かが走った。
あれは気のせいじゃない。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
隣を歩くリリアが、俺の顔を覗き込んだ。
「なんでもないよ」
「なんでもない顔じゃないわよ」
前を歩いていた母さん――ロゼッタが、少し困ったように微笑む。柔らかい声だったが、その目にもわずかな心配がにじんでいた。
「スキルのことを考えていたんだろう」
父さん――アバンが、振り返らずに言った。
やっぱり、この人には隠せない。
「……うん」
俺がそう答えると、父さんは短く言った。
「帰ったら話そう」
その一言で、胸の奥が少しだけ重くなった。
バーデン公爵家の屋敷へ戻ったあと、俺たちはそのまま応接室に集まった。
外ではまだ日が高い。けれど、部屋の中は妙に静かだった。いつもならリリアが何か話し始め、アル兄さんが軽く返し、母さんが笑う。そんな空気になるはずなのに、今日は誰もすぐには口を開かなかった。
やがて父さんが椅子に深く腰を下ろし、俺を見た。
「まず確認する。教会で授かったスキルについて、何か異変はあったか?」
「異変?」
「頭の中に、何かが流れ込んでくるような感覚だ」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「……あった」
教会を出た直後から、うまく言葉にできない違和感があった。まるで自分の中に最初からなかったはずの何かが、静かに根を張っているような感覚だ。
「内容は分かるか?」
父さんに問われて、俺は一度息を整えた。
正直に話すべきか少し迷ったが、ここで隠しても仕方がない。
「完全じゃないけど……さっきから、断片みたいなものが頭に入ってきてる」
「どんなものだ?」
「心臓を食べると、その相手のスキルを奪える……そんな感じの」
言葉にした瞬間、自分でも嫌な気分になった。
食べる。心臓を。しかも奪うために。
部屋の空気が、すっと冷えた気がした。
母さんがわずかに息を呑み、リリアは意味を理解しきれていないのか、ただ不安そうに俺を見ていた。アル兄さんだけは表情を変えなかったが、その視線はいつもよりずっと鋭い。
父さんは黙ったまま、俺の次の言葉を待っていた。
「それと……身体能力とか魔力も、少しだけ取り込めるみたいだ」
「……そうか」
父さんは低くそう言うと、ゆっくりと目を閉じた。
その反応だけで分かる。
これはやはり、普通のスキルじゃない。
「名前も見えた」
「言ってみろ」
「暴食……ハートイーター」
その名を口にした途端、リリアが小さく肩を震わせた。
無理もないと思う。俺だって、初めて頭に浮かんだ時はぞっとした。
「やっぱり」
そう呟いたのはアル兄さんだった。
「知ってるの?」
俺が聞くと、兄さんは首を横に振った。
「いや、詳しくは知らない。ただ、“暴食”が普通の系統じゃないことだけは、俺でも分かる」
その後を引き取るように、父さんが静かに口を開いた。
「エイト。お前の“暴食”は、大罪スキルだ」
「……大罪スキル」
聞き慣れない言葉だったが、その響きには妙な重みがあった。
「世界には七つの大罪スキルが存在すると言われている。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰。どれも、かつて世界に災厄をもたらした魔王たちの力の残滓だ」
父さんの声は落ち着いていた。けれど、その一言一言は重かった。
「魔王たちの……力?」
「ああ」
父さんは頷く。
「昔、勇者と魔王たちが争った時代があった。詳しい年代は諸説あるが、少なくとも今の世では神話に近いほど昔の話だ。魔王が死んだ瞬間、その力は完全には消えなかった。砕け、散らばり、世界のどこかで人へ宿るようになった。それが大罪スキルだと言われている」
俺は息をのんだ。
魔王の力。そんなものを、自分が持っている。
「持ち主が死ねば、大罪スキルはまた次の宿主を探す」
父さんの視線が、真っ直ぐこちらに向けられる。
「そして厄介なことに、大罪スキルは同じ名を持っていても、発現する能力がまったく同じとは限らない」
「持ち主によって違うってこと?」
「そうだ。傲慢なら傲慢、暴食なら暴食という大枠は同じでも、具体的にどう現れるかは宿主次第だと言われている。お前の“暴食”が“ハートイーター”として現れたのも、その一つだろう」
なるほど、と素直に思った。
同時に、余計に厄介だとも感じる。定まった前例がないなら、何ができて何ができないのかも、自分で確かめていくしかない。
けれど、そんなことより先に、聞かなければならないことがあった。
「……昔の暴食は、どんな存在だったの?」
そう尋ねると、父さんは少しだけ間を置いた。
その沈黙が、答えの重さを先に伝えていた。
「暴食の魔王は、七体の魔王の中でも最後に倒された存在だ」
静かな声だった。
だが、それがかえって話の深刻さを際立たせる。
「最強の魔王とも言われている」
応接室が静まり返る。
窓の外で風が木々を揺らしている音だけが、やけに遠く聞こえた。
「そいつは世界に混沌をもたらした。国を喰らい、人を喰らい、力を喰らい、倒しても倒しても膨れ上がる災厄だったと伝えられている」
俺は自分の手を見た。
まだ何もしていない手だ。だが、その奥に眠っている力は、確かにそういうものなのだろう。
「暴食の魔王を倒したのは、勇者エレン、賢者エルリア、聖女マーシャ。この三人を中心とした一行だった」
父さんの声が少しだけ低くなる。
「だが、その戦いで賢者エルリアは命を落とした」
「……」
「暴食は、勇者たちが最後に倒した魔王だ。そして、多くの記録において最強とされている」
最強。
そんな言葉、普通なら少しは心が動くのかもしれない。少年らしく、どこかで憧れるのかもしれない。
でも、俺の中に浮かんだのはそんな感情じゃなかった。
ただ、嫌だと思った。
その力を使えば強くなれる。たぶん、すごく分かりやすく。
けれど、その過程があまりにも重すぎる。
「……この力、あんまり使いたくない」
自然と口からこぼれた。
誰も笑わなかった。
否定もしなかった。
むしろ、その場にいた全員が、少しだけ安心したように見えた。
「それでいい」
最初にそう言ったのは父さんだった。
「むしろ、そうでなければ困る」
厳しい口調だったが、不思議と冷たくはなかった。
「エイト。この力のことは、家の外では絶対に話すな。できる限り隠せ」
「……やっぱり、そうなるよね」
「当然だ」
父さんは即答した。
「大罪スキルと知られれば、恐れられる。それだけならまだいい。利用しようとする者も現れるし、危険だと判断して排除しようとする者も出る」
「狙われるってことか」
「そうだ。お前自身だけではない。家族も巻き込まれる」
そこまで言われて、俺はようやくその重さを実感した。
ただ自分が危ないだけじゃない。父さんや母さん、アル兄さんやリリアにまで火の粉が飛ぶかもしれないのだ。
「分かった。隠すよ」
俺が答えると、父さんは静かに頷いた。
母さんもほっとしたように息をつく。
「でもね、エイト」
ロゼッタが、いつもの優しい声で言った。
「スキルが全てではないわ」
その言葉に、俺は母さんを見る。
「この世界には、スキルがなくても積み上げられる力がたくさんあるでしょう?」
その通りだった。
剣術、体術、弓術。そうした武の技は、日々の鍛錬で伸ばせる。魔術だって同じだ。才能や適性の差はあっても、まったくのゼロでなければ学び、磨くことができる。
「基本魔術もあるしね」
と、リリアが少し元気を取り戻したように言った。
「火、水、氷、風、土、雷、回復。適性があればちゃんと使えるし、練習すれば伸びるよ」
「回復はお前が一番好きそうだな」
アル兄さんがそう言うと、リリアはむっと頬をふくらませた。
「なによ、それ」
「事実だろう。リリアは昔から怪我した小動物を見つけると放っておけない」
「それは……そうだけど」
少しだけ、部屋の空気がやわらぐ。
そのやり取りを見て、俺も自然と肩の力が抜けた。
父さんがあらためて言う。
「エイト。お前は暴食に頼らなくていい。体術を磨け。剣術を学べ。弓も、基本魔術もだ。土台を作れ」
「土台……」
「どれほど強力な力も、それを使う者が未熟なら意味がない。逆に、基礎を積み上げた者は、容易には崩れない」
父さんらしい言葉だった。
地味で、堅実で、でも確かに正しい。
「俺もそう思う」
アル兄さんが続ける。
「強いスキルは便利だ。でも、それだけをあてにしたやつは、どこかで止まる。剣も体も魔術も、一つずつ積み上げた方がいい」
「……うん」
その言葉はすっと胸に入ってきた。
たぶん、俺自身ももう答えは決まっていたのだと思う。
この力は危険だ。便利だからといって、簡単に使っていいものじゃない。
なら、やるべきことは一つしかない。
「まずは普通に強くなるよ」
そう言うと、父さんがわずかに目を細めた。
「普通、か」
「大事だろ。剣も体術も弓も魔術も、できることは全部やる。暴食に頼るのは……本当に必要になった時だけにしたい」
それが今の正直な気持ちだった。
もし命が懸かる場面で、誰かを守るために必要なら、その時は迷っていられないのかもしれない。けれど、自分が楽に強くなるためだけに使いたいとは思えなかった。
「それでいいわ」
母さんが柔らかく微笑む。
「エイトらしいもの」
「らしいかな」
「らしいよ」
リリアも頷いた。
「お兄ちゃん、変に近道しようとしないもん」
「褒めてるのか、それ」
「たぶん褒めてる」
その答えに、思わず少し笑ってしまった。
さっきまで重かった空気が、ようやく少しだけほどけていく。
けれど、その奥にある現実は消えない。
俺は大罪スキル“暴食”の持ち主だ。
その本質はハートイーター。心臓を食べることで相手のスキルを奪い、さらに身体能力や魔力まで一部を取り込むことができる。
こんな力、できるなら一生使わずに済ませたい。
でも、そうもいかない日が来るかもしれない。
だからこそ――今は、別の強さを積み上げるしかない。
その夜、自室のベッドに横になっても、すぐには眠れなかった。
窓の外では夜風が木の枝を揺らし、遠くで虫の鳴く声が聞こえる。昼間の応接室での会話が、何度も頭の中によみがえった。
大罪スキル。魔王の残滓。最強の魔王。ハートイーター。
どれも重い言葉ばかりだ。
前世の俺なら、たぶんこういう特別な力に少しは浮かれていたかもしれない。漫画や物語みたいだと、そんなふうに思ったかもしれない。
けれど、実際に自分の身に降りかかると違う。
これは格好いい力なんかじゃない。
人を喰って奪う力だ。
「……嫌だな」
天井に向かって、小さく呟く。
使いたくない。本当にそう思う。
でも、だからといって目を背けていいわけでもない。この世界で生きていくなら、自分の持つものから逃げ続けることはできないだろう。
なら、せめて。
「スキルがなくても強くなれるようになろう」
そう決めた。
体術をやる。剣術も。弓術も。魔術も覚える。
火、水、氷、風、土、雷、回復。
適性があるものは全部伸ばしていく。
遠回りに見えても、そっちの方がきっと間違いない。
暴食に頼らなくても戦えるようになれば、この力を使う場面は減らせるはずだ。
「ちゃんと積み上げよう」
その言葉は、自分に向けた約束だった。
前の人生では、何もかもが遅かった。気づいた時には終わっていた。
でも今は違う。
まだ始まったばかりだ。
怖い力を持ってしまったとしても、それで生き方まで決まるわけじゃない。
どう使うか。あるいは、どう使わないか。
それを選ぶのは、俺自身だ。
ゆっくりと目を閉じる。
明日から忙しくなるだろう。
まずは基礎から。地道に、一つずつ。
そうしていつか、本当に必要な時が来たとしても、力に飲まれずに済むように。
そんなことを考えながら、俺の意識は少しずつ眠りへと沈んでいった。




