閑話 研究者の孤高
産まれながらに独りだった。
賢者の末裔として生を受けた男は親の存在も知らず、ただ大賢者の『王家の人間を信じるな』との言だけを礎に賢者として務めを果たしている。
屋敷の敷地は疎か研究室と化した私室からも出ることなく、ひたすら研究のみを己の存在意義としているのは、ひとえに男が賢者であるからに他ならない。
賢者とはそういう生物なのだ。
産まれながらに独りだった彼は、そんな価値観しか抱けなかったのである。
「ふぇりくすさま、しょくじ」
「…………」
「ここに、おいておく……」
賢者が研究という役割を与えられた生物ならば、屋敷を行き交う魔物たちにもまた与えられた役割がある。フェリクスの生命維持と屋敷の管理のためにテイムされたそれらもまた、役割を果たすこと以外に興味を向けられることはなかった。
ただ部屋を去る魔物たちは、少し寂しそうに瞳を俯かせるばかりに。
フェリクスが役割を受けて20の年が過ぎ去ったとき、それは現れた。
何者かが結界を越えた気配を察したフェリクスが妖精の案内に導かれた先で目にしたのは、赤いドレスに身を包んだ赤い髪の生物。身形からして相応の立場を持つ人間であると知ったフェリクスは王家の人間との関わりを――『外との関わり』を嫌って河辺で意識を失っている彼女を燃やそうとするが、不思議とその手に火球が灯りはしなかった。
フェリクスは思う、早く脅威を退けねばと。
フェリクスは思う、どうして魔力が動かないのかと。
それはもしかしたら、親という身近な人間のことすら知れなかった彼にとって必然だったのかもしれない。それは彼にとって『普通の人間』との初めての遭遇だった。彼は無意識に己以外の人間に興味を抱いていたのである。
ずっと知りたかった。自分以外の人間はどんな役割を与えられているのだろうかと。自分はどうやって生きればいいのかと。
彼女という存在を知れば、なにかわかるのだろうか。
フェリクスは未だに意識を失っている彼女へ向けて魔力を放った。存在を消し去る炎ではなく、触れる者を癒やす生命の光を。
まるで灰色の世界に差し込む、救いの光であるかのように。
「なあ、どう思う?」
フェリクスの呟きともわからない問い掛けが闇に溶けていく。
目を覚ましたレティシアに興味以上の警戒心を抱きながらも観察のために急造の客室へとやってきたのだが、魔物たちですら寝静まった夜間にも関わらず声が漏れ聞こえる扉を前に彼は立ち尽くす。
それは寝言と呼ぶには悲しすぎる啜り泣きであったが、他人の感情に接したことのないフェリクスは理解ができない難題へと溜め息をつく……どころか、忙しなく廊下を右往左往していた。
「どうして彼女は泣いているんだ。こんな夜更けに独りで。腹でも壊したのか。何か待遇に不満でもあるのか。どうして。どうした。どうすればいい」
「少しは落ち着かれよフェリクス様」
そんなフェリクスの焦りを受けたのは小さな純白の鳩。窓枠に留まる鳩は小鼻に掛かった眼鏡を羽先でクイッと調整する。
「この人間の監視は吾が輩に任されたのではなかったですかな? 心配されずともニアもおりますし、どうぞ私室に戻って研究に没頭していただいて構いませんぞ」
「なにを言ってるんだレノン、人間を観察するのも大切な研究の一環さ。……それに、なんというか、このような人間を前にして放置してしまうと他のことに手がつきそうにない」
「だからと言って、年端もいかぬ乙女の寝室に聞き耳を立て続けるのもどうかと思いますがな」
「そうなのか?」
乙女のなんとやらも知らないフェリクスは純粋な眼に困惑を宿す。そもそもプライバシーについても危ういかもしれないとレノンは頭を痛めた。
「人間というもの、特に年若い乙女の心というものは非常に繊細なのです。幾重にもヒビが重なったガラス玉の如く、触れるだけでも崩れてしまいそうなそれは、しかして覗き込もうにも決して内を見通すことはかなわず――って、勝手に扉を押し開けようとしない!」
「いた……っ! いきなり手を啄むなんて酷いじゃないか」
「乙女の寝室に入るにはフェリクス様はまだ『乙女』という存在を知らなすぎるのです」
研究のみに生きてきたフェリクスのことだ、枕を濡らしている彼女を目にした途端に「どうして泣いているんだ?」「今の気持ちは?」などと質問責めにしてしまうのだろう。彼が産まれた頃から屋敷に仕えているレノンには容易に想像できてしまった。
なんとしても主人の性癖が疑われてはならないと奮闘しているレノンだが、そんなものに気づくはずもないフェリクスはあらぬ方へとアプローチを切り替える。
「ふむ、たしかに私は『知らない』な……」
「フェリクス様……?」
「これは彼女の構成物を知る必要がある。何を以てその心が形成されているのか…………生い立ちから調べ上げるか」
「フェリクス様……!?」
「よし、彼女の出生地に調査隊を派遣しよう。せっかく初めて人間に出会ったのだ、こうなれば彼女の全てを知り尽くしてくれよう!」
「フェリクス様が全力でとんでもない性癖に目覚めようとしている!?」
『未知』に惹かれるは賢者ゆえか……。だとしてもそんな指向性に走ることはないだろうにと、弱々しい羽ばたきをするレノンは私室に戻る主人の嬉々とした背中を追うのであった。




