第九話 怖い香水
その匂いを嗅いだ瞬間、純一は思わず背筋を伸ばした。
駅前の商店街を歩いていたときだった。
夕方の人混みの中、すれ違った女性から、ふわりと香水の匂いが漂ってきた。
甘く、華やかな花の香り。けれど、その奥に少しだけ鼻をくすぐるような、独特の強さがある。
最近の香水とは少し違う、どこか懐かしい匂いだった。
純一は立ち止まり、振り返った。
女性はもう人混みの中へ消えかけていた。
当然、知っている人ではない。
それなのに、純一の胸は妙にざわついていた。
「……うわ、懐かしい」
思わず声に出してしまった。
あの匂い。
間違いない。
子供の頃、何より恐れていた匂いだった。
*
純一が小学生だった頃、親戚に一人、どうにも苦手なおばさんがいた。
母親の従姉にあたる人で、名前は和子といった。
親戚の集まりには必ずと言っていいほど顔を出し、ときどき純一の家にも遊びに来ていた。
和子おばさんは、いつもきちんとした服装をしていた。
髪を整え、背筋を伸ばし、ハンドバッグを膝の上に置いて座る。
そして、決まって同じ香水をつけていた。
甘くて、少し濃い花の香り。
玄関を開けた瞬間にわかるほど、はっきりとした匂いだった。
その匂いがすると、純一はすぐに身構えた。
なぜなら、和子おばさんはとにかく口うるさかったからだ。
「純ちゃん、宿題は終わったの?」
「まだ……」
「まだじゃありません。遊ぶ前に済ませなさい」
テレビを見ていれば、
「そんなに近くで見たら目が悪くなるわよ」
ソファに寝転がっていれば、
「ほら、ちゃんと座りなさい。姿勢が悪いとみっともないわよ」
お菓子を食べていれば、
「食べたら歯を磨くのよ」
返事をしなければ、
「お返事は?」
返事をすれば、
「もっとはっきり言いなさい」
何をしても、何かを言われる。
純一にとって和子おばさんは、まるで歩く生活指導の先生だった。
母親も普段から注意はするが、和子おばさんはその比ではなかった。
ある日、学校から帰ってきた純一は、玄関で靴を脱ごうとして足を止めた。
ふわりと、あの香りがした。
「……げっ」
思わず小さな声が漏れた。
おばさんが来てる。
純一はそっと靴を履き直そうとした。
まだ友達の家に遊びに行くことにすればいい。
そう考えた瞬間、居間から声が飛んできた。
「あら、純ちゃん。帰ってきたの?」
見つかった。
純一は肩を落とし、観念して靴を脱いだ。
「……ただいま」
「ただいま、はもっと元気よく言いなさい」
まだ顔も合わせていないのに、もう注意された。
居間へ入ると、和子おばさんはいつものように背筋を伸ばして座っていた。
テーブルには母親が出したお茶とお菓子が並んでいる。
「純ちゃん、学校はどうだった?」
「普通」
「普通じゃわからないでしょ。今日は何を勉強したの?」
「算数とか……」
「算数は得意なの?」
「まあまあ」
「まあまあじゃ駄目よ。ちゃんと勉強しないと」
純一は心の中でため息をついた。
何を答えても、結局は勉強の話になるのだ。
そのうえ、和子おばさんは純一が座る姿勢まで気にした。
「ほら、背中が丸くなってるわよ」
純一が慌てて背筋を伸ばすと、今度は満足そうにうなずいた。
「そうそう。男の子なんだから、しゃんとしなさい」
純一は、そのままの姿勢で時計を見た。
早く帰らないかな。
けれど、和子おばさんはなかなか帰らなかった。
母親と楽しそうに世間話をし、ときどき思い出したように純一へ注意を飛ばしてくる。
「純ちゃん、お母さんの言うこと、ちゃんと聞いてる?」
「……うん」
「本当かしら?」
「本当だよ」
「お母さんを困らせちゃ駄目よ。お母さんは毎日大変なんだから」
純一は黙ってうなずいた。
そんなことはわかっている。
わかっているけれど、何度も言われると嫌になる。
やがて和子おばさんが帰る時間になると、純一は誰よりも早く玄関へ向かった。
「おばさん、さようなら!」
「あら、今日はずいぶん元気ね」
「うん!」
「宿題、ちゃんとするのよ」
「はーい!」
玄関の扉が閉まった瞬間、純一は大きく息を吐いた。
「……やっと帰った」
その声を聞いた母親が、台所から笑いながら顔を出した。
「そんなこと言わないの。和子おばさんは純一のことを心配してくれてるんだから」
「だって、いつも怒るんだもん」
「怒ってるんじゃなくて、注意してくれてるのよ」
「同じじゃん」
純一が口を尖らせると、母親は困ったように笑った。
純一には、どうして母親が和子おばさんを歓迎するのかわからなかった。
自分だったら、あんなに口うるさい人とはできるだけ会いたくない。
それが正直な気持ちだった。
*
和子おばさんの香水は、純一にとって特別な意味を持つようになった。
学校から帰って玄関を開ける。
甘い花の匂いがする。
その瞬間、頭の中で警報が鳴る。
おばさんがいる!
あるときなど、玄関で匂いを感じた純一は、反射的にくるりと向きを変えた。
ところが、ちょうど買い物から戻ってきた母親と鉢合わせしてしまった。
「あら、純一。どこ行くの?」
「えっ……ちょっと、外に」
「帰ってきたばかりじゃない。宿題は?」
「……これから」
「じゃあ、先に宿題しなさい」
純一はしぶしぶ家に入った。
ところが、居間に和子おばさんの姿はなかった。
「あれ? おばさんは?」
「和子さん? 今日は来てないわよ」
「えっ?」
「さっき、いただいた香水を少しつけてみたの。いい匂いでしょ?」
母親が笑顔で言った。
純一は目を丸くした。
「お母さん! その香水つけないでよ!」
「どうして?」
「おばさんが来たと思うじゃん!」
母親は大笑いした。
「そんなに怖いの?」
「怖いよ!」
純一は真剣だった。
その日以来、母親はその香水をあまり使わなくなった。
もっとも、純一が中学生になる頃には、和子おばさんが家に来る回数も少しずつ減っていった。
純一自身も部活動や友達との付き合いで忙しくなり、親戚の集まりに顔を出すことが減った。
高校生になると、和子おばさんに会うのは正月くらいになった。
それでも、会えば相変わらずだった。
「純ちゃん、勉強はちゃんとしてる?」
「してるよ」
「進路はもう考えてるの?」
「まあ、一応」
「一応じゃ駄目よ。将来のことはちゃんと考えないと」
純一は苦笑いしながら、適当に返事をした。
大人になっても、この人は変わらないんだろうな。
そう思っていた。
*
大学を卒業して就職すると、純一は実家を離れ、一人暮らしを始めた。
仕事に追われる毎日だった。
朝早く家を出て、夜遅く帰る。
休日は洗濯や掃除をして、たまに友人と食事に出かける。
気づけば三十歳を過ぎていた。
実家には年に数回帰る程度で、親戚の集まりにもほとんど顔を出さなくなっていた。
和子おばさんのことなど、いつの間にか思い出すこともなくなっていた。
それなのに、今日。
駅前の商店街ですれ違った女性の香水が、何十年も前の記憶を一瞬で呼び戻した。
純一は歩きながら、思わず笑ってしまった。
あの匂いを嗅いだだけで背筋が伸びるなんて、どれだけ怖かったんだろう。
けれど、しばらく歩いているうちに、ふと気になることがあった。
そういえば、最近おばさんの話を聞かないな。
正月に実家へ帰ったときも、名前が出なかった気がする。
以前なら母親が「和子さんがね」と何かしら話していたのに。
純一はスマートフォンを取り出した。
母親へ電話をかける。
数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声がした。
「もしもし、純一? どうしたの、こんな時間に」
「いや、別に大した用じゃないんだけどさ」
「何よ、珍しいわね」
「和子おばさんって、元気にしてる?」
電話の向こうが、一瞬静かになった。
「……和子さん?」
「うん。そういえば最近、話を聞かないなと思って」
母親は少し間を置いてから答えた。
「実はね、和子さん、今入院してるのよ」
「えっ?」
「重い病気が見つかってね。しばらく前から治療を受けてるの」
純一は足を止めた。
「そんなに悪いの?」
「……あまりよくないみたい。治療は続けてるけど、体もずいぶん弱ってしまって」
純一は何も言えなかった。
和子おばさんが病気。
あの、いつも背筋を伸ばして、はっきりした声で話していたおばさんが。
「何で教えてくれなかったんだよ」
「あなたも仕事が忙しそうだったし……。それに、和子さんもあまり人に心配をかけたくないって」
純一はしばらく黙っていた。
頭の中に、子供の頃の和子おばさんの姿が浮かんだ。
きちんと整えた髪。
背筋を伸ばした座り方。
そして、あの香水の匂い。
「……お見舞い、行ってもいいかな」
自分でも意外な言葉だった。
母親は少し驚いたようだったが、すぐに優しい声で答えた。
「もちろん。きっと喜ぶと思うわよ」
*
次の休日、純一は病院へ向かった。
受付で面会の手続きを済ませ、教えられた病室へ向かう。
廊下には消毒液の匂いが漂っていた。
白い壁。静かな足音。遠くで聞こえる医療機器の電子音。
純一は病室の前で立ち止まった。
なぜだか緊張していた。
子供の頃、和子おばさんのいる居間へ入るときと、少し似た気持ちだった。
けれど、あの頃とは理由が違う。
どんな顔をして会えばいいのか、わからなかった。
純一は小さく息を吸い、扉をノックした。
「……はい」
中から、か細い声が聞こえた。
純一はそっと扉を開けた。
「おばさん……?」
窓際のベッドに、一人の女性が横になっていた。
白髪の混じった髪。
細くなった頬。
布団の上に置かれた手も、驚くほど小さく見えた。
純一は一瞬、その人が和子おばさんだとわからなかった。
あんなに大きく感じていた人が、こんなに小さくなっている。
いつも背筋を伸ばしていた人が、今はベッドの上で静かに横になっている。
「……純ちゃん?」
和子おばさんが目を見開いた。
そして、ゆっくりと笑顔になった。
「まあ……純ちゃんじゃないの」
「うん。久しぶり」
純一はベッドのそばへ歩み寄った。
「お見舞いに来たよ」
和子おばさんは、信じられないというように何度もまばたきをした。
「わざわざ……来てくれたの?」
「うん。お母さんから聞いてさ」
「そう……」
和子おばさんは嬉しそうに笑った。
その笑顔は、純一が子供の頃に見たことのないほど柔らかかった。
「大きくなったねえ」
「いや、もう三十過ぎてるんだから、そりゃ大きくなるよ」
純一が笑うと、和子おばさんも小さく笑った。
「そうよねえ。いつまでも子供じゃないものね」
純一は椅子を引き寄せ、ベッドの横に座った。
何を話せばいいのかわからず、しばらく世間話をした。
仕事のこと。
一人暮らしのこと。
母親が相変わらず元気なこと。
和子おばさんは、一つ一つの話を嬉しそうに聞いていた。
「ちゃんとご飯は食べてるの?」
「食べてるよ」
「野菜も?」
「食べてるって」
「一人暮らしだと、つい適当になるでしょう」
純一は思わず笑った。
「おばさん、相変わらずだなあ」
「あら、何が?」
「いや、昔からそうやって、何でも心配してくれたなと思って」
和子おばさんは少し照れたように笑った。
「そうだったかしら」
「そうだよ。勉強しなさい、姿勢を正しなさい、お母さんの言うこと聞きなさいって」
「あらまあ……」
和子おばさんは口元に手を当てた。
「そんなに言ってた?」
「毎回言ってたよ」
純一が答えると、二人は声を上げて笑った。
笑いながら、純一は不思議な気持ちになった。
昔なら、同じことを言われただけでうんざりしていた。
けれど今は、その口うるさささえ懐かしかった。
和子おばさんは、しばらく純一の顔を見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「……本当に、立派になったねえ」
純一は少し照れくさくなった。
「そんなことないよ。普通に働いてるだけだし」
「それが立派なのよ」
和子おばさんは静かに続けた。
「小さかった純ちゃんが、ちゃんと大人になって、自分で働いて、こうしてお見舞いにまで来てくれるなんて……」
そこで言葉が途切れた。
和子おばさんの目に、涙が浮かんでいた。
「いい子に育ってくれて……本当に嬉しいよ」
純一は胸の奥が熱くなるのを感じた。
子供の頃、あんなに怖かった人。
会えば叱られ、何をしても注意され、できることなら顔を合わせたくなかった人。
その人が今、自分の成長を喜んで泣いている。
純一は、昔のことを思い出した。
宿題をしなさい。
姿勢を正しなさい。
お母さんの言うことを聞きなさい。
あの頃は、ただうるさいとしか思わなかった。
けれど、今なら少しわかる気がした。
おばさんは、いつも自分のことを気にかけてくれていたのだ。
もちろん、子供の頃に怖かったことまで消えるわけではない。
あの説教が嫌だったのも本当だ。
けれど、そこには純一が思っていた以上の気持ちが込められていたのかもしれない。
「……ありがとう、おばさん」
純一がそう言うと、和子おばさんは少し驚いた顔をした。
「何が?」
「いや……いろいろ」
純一は照れくさくて、それ以上うまく言えなかった。
和子おばさんは何も聞かず、ただ嬉しそうに笑っていた。
*
面会時間が終わりに近づいた頃、純一は椅子から立ち上がった。
「そろそろ帰るね」
「そう……」
和子おばさんは少し寂しそうな顔をした。
けれど、すぐに笑顔を作った。
「今日はありがとうね。顔を見られて、本当に嬉しかったわ」
「うん」
純一は鞄を手に取った。
そのとき、ふと気づいた。
病室には、あの香水の匂いがなかった。
当然だった。
病院で香水をつけるわけにはいかない。
それでも、純一には何だか不思議だった。
和子おばさんといえば、あの甘くて強い花の香り。
子供の頃は、姿を見る前からわかった。
それほど当たり前だった匂いが、今はどこにもない。
代わりに漂っているのは、病院特有の消毒液の匂いだけだった。
純一は、ベッドに横たわる和子おばさんを見た。
あんなに怖かった人が、今はこんなにも弱々しく見える。
何だか、胸が締めつけられた。
「純ちゃん」
和子おばさんが呼んだ。
「また……顔を見せてくれるかい?」
純一は迷わず答えた。
「うん。また来るよ」
「そう……ありがとう」
和子おばさんは、心から安心したように微笑んだ。
純一は手を振り、病室を出た。
扉を閉める直前、もう一度振り返った。
和子おばさんは、まだこちらを見ていた。
小さく手を振っている。
純一も、もう一度手を振った。
*
病院を出ると、外は夕方になっていた。
少し冷たい風が頬を撫でた。
純一は駅へ向かって歩き始めた。
今日、商店街ですれ違った女性の香水。
あの匂いを嗅がなければ、和子おばさんのことを思い出さなかったかもしれない。
母親に電話することも、病気を知ることも、今日こうして見舞いに来ることもなかったかもしれない。
純一は立ち止まり、夕暮れの空を見上げた。
子供の頃、玄関であの香りがすると、何とかして逃げようとした。
居間からおばさんの声が聞こえると、早く帰ってくれないかと願った。
それなのに、今は。
もう一度、あの匂いを嗅ぎたいと思っている。
あの甘くて、少しきつい花の香り。
おばさんが元気だった頃の、あの匂いを。
純一は小さく笑った。
人の気持ちというのは、不思議なものだ。
昔は嫌いだったものが、こんなにも懐かしくなるなんて。
駅へ向かう人たちの間を歩きながら、純一は心の中でそっとつぶやいた。
おばさん、元気になったら、またあの香水をつけてうちに来てよ。
今度は逃げたりしないからさ。
(第九話 完)




