第八話 歯医者の匂い
最初は、ほんの小さな違和感だった。
昼休み、コンビニで買ったおにぎりを食べていたとき、右の奥歯に何かが触れたような気がした。
小野理沙は箸を止め、頬の内側を舌で探ってみた。特に変わったところはない。痛いというほどでもなく、少し気になる程度だった。
「どうしたの?」
向かいで昼食を食べていた同僚の美奈が尋ねた。
「ううん、何でもない。ちょっと歯が変な感じ」
「虫歯じゃない?」
「まさか。私、虫歯になったことないもん」
理沙は笑って答えた。
二十三年間、一度も虫歯になったことがない。
それは理沙の、ちょっとした自慢だった。
子供の頃から歯並びがよく、学校の歯科検診でも毎年のように褒められていた。歯磨きもきちんとしているし、寝る前に甘いものを食べる習慣もない。
歯医者に行く必要など、これまで一度もなかった。
「でもさ、虫歯って急に痛くなるっていうじゃない?」
「大丈夫だって。たぶん、何か挟まっただけだよ」
そう言って笑ったものの、午後になると違和感は少しずつ痛みに変わっていった。
夕方には、冷たいお茶を飲むたびに奥歯がじんとした。
そして翌朝。
「……痛っ!」
朝食のトーストを噛んだ瞬間、理沙は思わず声を上げた。
向かいに座っていた母親が顔を上げた。
「どうしたの?」
「歯が……痛い」
「あら、虫歯?」
「違うと思うけど……」
理沙は頬を押さえた。
母親はあっさりと言った。
「歯医者に行きなさい」
「ええ……」
「ええ、じゃないでしょ。痛いんだったら診てもらわないと」
その言葉はもっともだった。
けれど、理沙は気が進まなかった。
歯医者。
その響きには、何となく怖い印象があった。
実際に治療を受けたことはないのに、なぜか昔から苦手だった。
その理由を、理沙はすぐには思い出せなかった。
*
結局、痛みは我慢できるものではなかった。
仕事中も気になって集中できず、昼食も左側の歯だけで噛む始末だった。
同僚の美奈には「だから言ったじゃん」と笑われた。
理沙はスマートフォンで近くの歯科医院を探し、その日の夕方に診てもらえるところへ電話をかけた。
予約が取れたときは少し安心したが、同時に逃げ道がなくなったような気もした。
仕事を終え、指定された時間に歯科医院へ向かう。
ガラスの扉を開けると、受付の女性が明るく挨拶をした。
「こんばんは。ご予約の小野様ですね」
「はい。よろしくお願いします」
問診票を渡され、待合室の椅子に腰を下ろす。
白い壁。観葉植物。雑誌の並んだ棚。
思っていたよりも明るく、落ち着いた雰囲気だった。
最近の歯医者さんって、こんなにきれいなんだ。
そんなことを考えながら問診票を書き終えたとき、ふと鼻先に匂いが届いた。
消毒液のような、薬品のような。
清潔な匂いなのに、どこか独特で、ほかの場所ではあまり嗅がない匂い。
理沙は顔を上げた。
ああ、この匂い。
知っている。
初めて来た歯医者のはずなのに、どうしてこんなに懐かしいのだろう。
そう思った瞬間、ずっと昔の記憶が蘇ってきた。
*
理沙がまだ小学校一年生だった頃。
ある土曜日の午後、母親に連れられて歯医者へ行ったことがあった。
もちろん、治療を受けるのは理沙ではない。
母親の付き添いだった。
その日は父親が仕事で、家には母親と理沙の二人しかいなかった。
「理沙、お母さん歯医者さんに行くけど、一緒に来る?」
母親にそう聞かれ、理沙は喜んでうなずいた。
「行く!」
歯医者がどんなところなのか、よく知らなかった。
病院というからにはお医者さんがいるのだろうが、母親が一緒なら怖いことなど何もないと思っていた。
当時の母親は、理沙にとって何でもできる人だった。
重い買い物袋を両手に持ち、熱い鍋も平気で扱い、虫が出れば迷わず退治してくれた。
転んで膝を擦りむいた理沙が泣いていると、「このくらい大丈夫!」と言いながら手当てをしてくれた。
注射だって怖くないらしい。
理沙が予防接種を嫌がると、母親はいつも「ちくっとするだけよ」と笑っていた。
そんな母親が歯医者へ行くのだから、きっと大したことはないのだろう。
理沙はそう思っていた。
歯科医院に着くと、母親は受付を済ませ、理沙を待合室の椅子に座らせた。
「ここで絵本を読んで待っててね。すぐ終わるから」
「うん!」
理沙は本棚から動物の絵本を取り出した。
母親が診察室へ入っていくのを見送り、ページをめくり始めた。
ところが、しばらくすると奥の方から妙な音が聞こえてきた。
キュイーーーン。
理沙は顔を上げた。
何の音だろう。
掃除機より高く、笛よりも鋭い音だった。
しばらく静かになったかと思うと、また聞こえる。
キュイーーーン。
そして、その音に混じって、
「……いたっ!」
という声がした。
理沙は絵本を持ったまま固まった。
今の声。
お母さん?
間違いない。
いつも聞いている母親の声だった。
けれど、いつもの母親とは違っていた。
何かを我慢しているような、少し苦しそうな声だった。
理沙は診察室の扉を見つめた。
お母さんが痛いって言った。
あのお母さんが。
転んでも、ぶつけても、料理中に熱いものに触っても、滅多に弱音を吐かない母親が。
キュイーーーン。
また音がした。
理沙は思わず肩をすくめた。
歯医者って、何をするところなんだろう。
歯を治すところだとは聞いていた。
でも、あんな音がするなんて。
もしかして、すごく痛いことをするのだろうか。
理沙は絵本を閉じ、膝の上でぎゅっと抱えた。
診察室の扉が開くたびに、母親が出てくるのではないかと顔を上げた。
けれど、なかなか出てこなかった。
子供にとっての三十分は、とても長い。
理沙には、一時間も二時間も待っているように感じられた。
ようやく母親が出てきたとき、理沙は椅子から飛び降りた。
「お母さん!」
「あら、理沙。ちゃんと待ってた?」
「うん!」
駆け寄って顔を見上げた理沙は、そこで驚いた。
母親の目が、少し赤かった。
目尻には、うっすら涙が浮かんでいる。
「お母さん……泣いたの?」
母親は慌てたように笑った。
「泣いてないわよ」
「でも、お目々が赤いよ」
「ちょっと痛かっただけ」
「痛かったの?」
「まあね。でも、もう大丈夫よ」
母親はそう言って理沙の頭を撫でた。
けれど、理沙には衝撃だった。
お母さんでも、痛くて涙が出るんだ。
それも、歯医者さんで。
帰り道、理沙は母親の手を握りながら、何度も診察室から聞こえた音を思い出していた。
キュイーーーン。
あの音を聞くだけで、背中がぞくぞくした。
「お母さん、歯医者さんって怖い?」
理沙が尋ねると、母親は少し考えてから答えた。
「怖いっていうより、あんまり楽しいところじゃないわね」
「痛いんでしょ?」
「痛いときもあるけど、ちゃんと治してもらわないと困るからね」
理沙は黙って歩いた。
そして、しばらくしてから真剣な顔で言った。
「私、歯医者さん行かない」
「え?」
「絶対行かない!」
母親は笑った。
「虫歯になったら行かなきゃ駄目よ」
「じゃあ、虫歯にならない!」
「それなら、ちゃんと歯磨きしないとね」
「する! いっぱいする!」
理沙は力強くうなずいた。
その日から、歯磨きは理沙にとって特別なものになった。
朝も夜も、丁寧に磨いた。
母親に「もういいんじゃない?」と言われても、鏡を見ながら奥歯までしっかり磨いた。
学校の歯科検診で「虫歯なし」と言われるたびに、心の中で小さく喜んだ。
これで歯医者さんに行かなくて済む。
そう思うと、少し得意な気分になった。
やがて中学生になり、高校生になり、社会人になった。
歯磨きの習慣は変わらなかった。
そして二十三歳になるまで、理沙は一度も虫歯の治療を受けずに過ごしてきた。
その理由の一つが、母親の涙目だったことなど、いつの間にか忘れていた。
*
「小野理沙さーん」
名前を呼ばれ、理沙は我に返った。
待合室の椅子に座ったまま、遠い昔のことを思い出していたらしい。
「あ、はい!」
慌てて立ち上がり、診察室へ向かう。
中には何台もの診察台が並んでいた。
白いライト。金属製の器具。小さな水道のようなもの。
そして、奥から聞こえるあの音。
キュイーーーン。
理沙の足が、一瞬止まった。
十数年前、待合室で聞いた音と同じだった。
あのときは母親が座っていた場所に、今度は自分が座るのだ。
「こちらへどうぞ」
歯科衛生士に案内され、理沙は診察台に腰を下ろした。
背もたれがゆっくり倒れていく。
天井のライトが眩しかった。
しばらくして、白衣を着た男性の歯科医がやってきた。
「小野さんですね。今日は右の奥歯が痛むということですが」
「はい。昨日から急に痛くなって……」
「わかりました。まず診てみましょうね」
理沙は口を開けた。
小さな鏡で奥歯を確認した歯科医は、少し考えるような顔をした。
「なるほど。奥歯に虫歯がありますね」
「……えっ」
理沙は思わず声を漏らした。
二十三年間守ってきた記録が、あっさりと終わった。
「今まで虫歯になったこと、ないんです」
「そうなんですね。きれいに磨けていますよ。ただ、奥歯の溝はどうしても磨き残しができやすいですから」
歯科医は穏やかに説明した。
理沙は少しがっかりした。
けれど、それ以上に気になったことがあった。
「あの……治療って、痛いですか?」
歯科医は優しく笑った。
「必要なところは麻酔を使いますから、できるだけ痛くないようにしますよ。もし痛かったら左手を上げてくださいね」
「左手ですね」
「はい。無理しないで教えてください」
理沙は大きくうなずいた。
いよいよ治療が始まった。
歯科衛生士が器具を準備し、歯科医がライトの位置を調整する。
そのとき、隣の診察台から音が響いた。
キュイーーーン。
理沙の左手が、反射的に上がった。
「……小野さん?」
歯科医が不思議そうに顔を覗き込んだ。
「どうしました?」
「あっ……すみません!」
理沙は慌てて手を下ろした。
「音がしたから、つい……」
歯科医は少し笑った。
「まだ何もしてませんよ」
「ですよね……」
恥ずかしくて、顔が熱くなった。
自分でもおかしかった。
二十三歳にもなって、音を聞いただけで手を上げるなんて。
けれど、笑っていられたのはそこまでだった。
麻酔の処置が始まると、理沙の体は一気に緊張した。
歯科医は何度も声をかけてくれたし、痛みもできるだけ抑えてくれた。
それでも、口の中に器具が入る感覚は初めてだった。
頬を引っ張られ、口を大きく開けたまま、じっとしていなければならない。
そして、いよいよあの音が響いた。
キュイーーーン。
理沙は目をぎゅっと閉じた。
痛みは麻酔のおかげで強くなかったが、歯に伝わる振動と音が恐ろしかった。
今、何をされているのだろう。
あとどのくらい続くのだろう。
そんなことばかり考えてしまう。
途中で少し痛みを感じ、理沙は左手を上げた。
歯科医はすぐに器具を止め、様子を確認してくれた。
「大丈夫ですか? 少し麻酔を追加しましょうね」
理沙は小さくうなずいた。
そのとき、ふと思った。
お母さんも、こんな気持ちだったのかな。
あの頃は、ただ驚いていた。
強い母親が涙目になっていることが、不思議で仕方なかった。
けれど、今ならわかる。
怖いものは、怖い。
痛いものは、痛い。
大人だからといって、平気なわけではないのだ。
治療が終わる頃には、理沙の目尻にもうっすら涙が浮かんでいた。
「はい、今日はここまでです。お疲れさまでした」
歯科医の声が、何よりありがたく聞こえた。
診察台がゆっくり起き上がる。
理沙は深く息を吐いた。
鏡で顔を見ると、少し疲れた表情をしていた。
目元も、ほんのり赤い。
その顔を見て、理沙は思わず苦笑した。
あの日のお母さんと、同じだ。
*
家に帰ると、台所から夕飯の匂いが漂っていた。
「ただいまー」
理沙が声をかけると、母親が顔を出した。
「おかえり。歯医者、どうだった?」
「……疲れた」
「あら、大変だったのね」
「うん。もう、すっごく怖かった」
理沙は鞄を置き、居間の椅子に腰を下ろした。
母親は笑いながらお茶を出してくれた。
「初めてだから、余計に緊張したんじゃない?」
「そうかもしれないけど……あの音、嫌だね」
「ああ、削る音?」
「そう! キュイーンってやつ!」
理沙が大げさに顔をしかめると、母親は声を上げて笑った。
「誰だって好きじゃないわよ」
理沙はお茶を一口飲み、ふと母親の顔を見た。
そして、少し笑った。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「昔、私がお母さんの歯医者についていったこと、覚えてる?」
母親は首をかしげた。
「歯医者? そんなことあったかしら」
「ほら、私が小学校一年生くらいのとき。土曜日に一緒に行ったじゃない」
「うーん……」
母親は少し考えたが、思い出せないようだった。
「ごめん、覚えてないわ」
「ええっ! 私、あんなに衝撃だったのに!」
「何が?」
理沙は笑いながら話し始めた。
待合室で絵本を読んでいたこと。
診察室からキュイーンという音が聞こえてきたこと。
そのあと、母親の「いたっ!」という声が聞こえたこと。
そして、治療を終えた母親が涙目だったこと。
話を聞いているうちに、母親は少しずつ思い出してきたらしい。
「ああ……そういえば、そんなことあったかもしれないわね」
「お母さん、泣いてたんだよ!」
「泣いてないわよ。ちょっと涙が出ただけ」
「それを泣いたって言うんじゃないの?」
「違うわよ。反射的に出ただけ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
理沙はしばらく笑っていたが、やがて少し真面目な顔になった。
「でもね、あの日から私、絶対に虫歯にならないって決めたんだよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。お母さんがあんなに痛そうにしてるのを見て、歯医者って怖いところなんだって思ったの」
母親は驚いた顔をした。
「それで、あんなに一生懸命歯磨きしてたの?」
「そうだよ。お母さんみたいになりたくなかったから」
「まあ、失礼ね!」
母親は笑いながら理沙の肩を軽く叩いた。
「でも、結局虫歯になっちゃったんだね」
「そうなの。二十三年間頑張ったのに」
「まあ、これからもちゃんと磨きなさい」
「はいはい」
理沙はお茶を飲みながら、母親を見た。
昔と変わらない、いつもの母親だった。
料理をして、洗濯をして、仕事の愚痴を聞いてくれる。
子供の頃は、何でもできる人だと思っていた。
けれど、大人になってみれば、母親だって普通の人間なのだ。
怖いものもあるし、痛ければ涙も出る。
それでも、幼い娘の前では平気な顔をしようとしていたのかもしれない。
「ねえ、お母さん」
「今度は何?」
理沙はにやりと笑った。
「今日、歯医者に行ってわかったよ」
「何が?」
「あんなに怖かったら、涙目になるのも仕方ないね」
母親は一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。
「今さらわかったの?」
「うん。二十三歳にして、やっと」
「だから歯は大事にしなさいって、いつも言ってたでしょ」
「……身をもって教えてくれたんだね」
「そんなつもりじゃなかったわよ!」
母親の笑い声が台所に響いた。
理沙もつられて笑った。
あの日、歯医者の待合室で感じた怖さは、十数年経って、ようやく少しだけ笑える思い出になった。
そして理沙は、もう一つ気づいたことがあった。
自分が大人になったと思っていても、まだ知らないことはたくさんある。
母親の気持ちだって、こうして同じ経験をして初めてわかることがあるのだ。
夕飯の支度を再開した母親の背中を見ながら、理沙は小さく笑った。
あのときのお母さん、きっと本当に痛かったんだろうな。
そう思うと、少しだけ優しい気持ちになった。
「理沙、ご飯できたわよ」
「はーい」
理沙は立ち上がり、食卓へ向かった。
ただし、今日は右の奥歯を使わないように、そっと左側で噛むことにした。
母親はそれを見て、また笑った。
「ほら、だから歯は大事にしなさいって言ったでしょ」
「……もう、十分わかったってば!」
理沙も笑い返した。
明日の朝は、いつもより少し丁寧に歯を磨こう。
そう心に決めながら。
(第八話 完)




