第七話 みゃおの匂い
金子一男が仕事から帰ってきたとき、玄関には見慣れない小さな段ボール箱が置かれていた。
箱の側面には、スーパーの名前が印刷されている。中には古いタオルが敷かれていて、その真ん中に、何か小さなものが丸まっていた。
「……何だ、これ?」
一男が靴を脱ぎながら覗き込むと、タオルの塊がもぞもぞと動いた。
「みゃあ」
か細い声が聞こえた。
一男は思わず動きを止めた。
猫だった。
まだ生まれて間もないような、小さな子猫。灰色と白の毛が混じった体を丸め、こちらを見上げている。
「お父さーん!」
奥の部屋から、五歳の息子、悠太が駆けてきた。
その後ろには妻の美穂もいる。
「おかえりなさい!」
悠太は満面の笑みで一男の足にしがみついた。
「お父さん、見て! 猫ちゃん!」
「……見ればわかるけど、どうしたんだ?」
悠太は得意そうに胸を張った。
「ぼくが見つけたの!」
話を聞くと、幼稚園からの帰り道、公園の近くで鳴いている子猫を見つけたのだという。
美穂が周囲を確認したが、親猫の姿は見当たらず、近所の人に尋ねても飼い主はわからなかったらしい。
「そのままにはしておけなくて、とりあえず連れて帰ってきたの。動物病院にも電話して、明日診てもらうことにしたわ」
美穂は少し困ったように笑った。
「でも、飼うかどうかは、あなたと相談してからって悠太には話してあるの」
一男は箱の中をもう一度覗いた。
子猫は小さな鼻をひくひく動かし、何かを探すように顔を上げていた。
「お父さん」
悠太が一男の袖を引いた。
「この子、うちで飼っちゃだめ?」
その目は、期待でいっぱいだった。
一男はすぐには答えられなかった。
猫が嫌いなわけではない。
むしろ、昔は大好きだった。
けれど、もう長いこと猫を飼っていなかった。
いや、正確には、飼わないと決めていた。
それには、理由があった。
*
一男が十歳の頃だった。
学校からの帰り道、道端の草むらから小さな鳴き声が聞こえてきた。
「みゃお、みゃお」
最初は何の音かわからなかった。
立ち止まって耳を澄ませると、また聞こえた。
「みゃお」
草をかき分けて覗くと、そこには小さな子猫がいた。
茶色と白のまだら模様で、耳だけが妙に大きく見えた。
体は汚れ、目の周りには涙の跡がついていた。
一男が手を伸ばすと、子猫は逃げるどころか、よろよろと近づいてきた。
「おまえ、どうしたんだ?」
子猫は答える代わりに、また「みゃお」と鳴いた。
一男は辺りを見回した。
親猫らしい姿はなかった。
しばらく待ってみたが、誰も現れなかった。
どうしよう。
このまま置いていったら、車にひかれるかもしれない。
お腹も空いているだろう。
十歳の一男は、考えに考えた末、ランドセルを背負い直して子猫を抱き上げた。
「よし、うちに来い!」
そう言って、家まで走った。
もちろん、母親は驚いた。
「一男! 何を連れてきたの!」
「猫!」
「見ればわかるわよ!」
「飼っていい?」
「そんな簡単に言われても……」
一男は必死だった。
拾った場所のことも、親猫がいなかったことも、子猫がずっと鳴いていたことも、息を切らしながら説明した。
「ちゃんと世話するから! ご飯もあげるし、トイレも掃除するし!」
母親は困った顔で子猫を見つめた。
子猫はそんな事情など知るはずもなく、一男の腕の中で小さく鳴いた。
「みゃお」
その声を聞いて、母親の表情が少し緩んだ。
「……まずはお父さんに相談してからね。それに、病院にも連れていかないと」
一男は大きくうなずいた。
その日の夕方、帰宅した父親にも同じことを頼み込んだ。
父親は腕を組んで、しばらく一男を見ていた。
「生き物を飼うっていうのはな、かわいいだけじゃ済まないんだぞ」
「わかってる!」
「毎日ご飯をやって、トイレを掃除して、病気になったら世話をする。遊びたいからって放っておくわけにはいかないんだ」
「うん!」
「本当にできるか?」
一男は子猫を抱きしめた。
「できる! 絶対!」
父親は小さく息を吐き、母親と顔を見合わせた。
「……じゃあ、家族みんなで面倒を見るか」
その瞬間、一男は飛び上がって喜んだ。
「やったー!」
父親は笑いながら尋ねた。
「それで、名前はどうするんだ?」
一男は少しも迷わなかった。
「みゃお!」
「……みゃお?」
「うん! この子、みゃおって鳴くんだもん!」
母親が吹き出した。
父親も、こらえきれずに笑った。
「ずいぶん、そのまんまの名前だな」
「いいじゃん! みゃお!」
子猫は一男の腕の中で、ちょうどよく「みゃお」と鳴いた。
「ほら! 自分の名前わかってる!」
家族はまた笑った。
こうして、みゃおは金子家の一員になった。
*
みゃおは、なかなか自由気ままな猫だった。
最初の頃こそ小さくて頼りなかったが、元気になるにつれて家中を走り回るようになった。
カーテンによじ登り、棚の上のものを落とし、畳の上で突然何かを追いかけ始める。
一男が宿題をしていると、決まって机の上に乗ってきた。
「みゃお、邪魔!」
そう言って下ろしても、すぐにまた戻ってくる。
鉛筆を動かすと、その先を前足で押さえようとする。消しゴムを置けば、床へ転がして遊び始める。
「おまえのせいで宿題終わらないだろ!」
文句を言っても、みゃおは知らん顔だった。
それどころか、ノートの真ん中にどっかりと座り込み、気持ちよさそうに目を閉じてしまう。
一男は仕方なく、みゃおの体を避けながら宿題を続けた。
母親はその様子を見るたびに笑った。
「みゃおも一緒に勉強したいんじゃない?」
「絶対違うよ。こいつ、寝てるだけだもん」
けれど、本気で追い払うことはできなかった。
柔らかな毛並みを撫でると、みゃおは喉を鳴らした。
その音が聞こえると、何となく許してしまうのだった。
夜になると、みゃおは一男の布団に潜り込んできた。
冬は特にそうだった。
布団の端が少し持ち上がったかと思うと、温かい塊がもぞもぞと入り込んでくる。
みゃおは一男の足元で丸くなり、ときどき寝返りを打つ一男に迷惑そうな声を上げた。
「おまえが勝手に入ってきたんだろ」
小声で文句を言いながらも、一男はみゃおを起こさないように足を動かした。
そして、眠る前には決まってみゃおの背中に顔を近づけた。
ふわふわした毛に鼻を埋め、深く息を吸う。
お日さまに干した布団のような、少し香ばしくて温かな匂いがした。
猫の匂い。
それが一男は大好きだった。
当時は「猫吸い」なんて言葉を知らなかった。
ただ、みゃおを抱くと、自然とそうしていた。
みゃおは最初こそ大人しくしていたが、しつこくすると前足で一男の顔を押し返した。
「はいはい、わかったよ」
一男が笑って顔を離すと、みゃおは何事もなかったように毛づくろいを始めた。
*
中学生になると、一男は部活動で帰りが遅くなった。
高校生になると、友達と出かけることも増えた。
みゃおと遊ぶ時間は、少しずつ減っていった。
それでも、みゃおは変わらず家にいた。
帰宅して玄関を開けると、廊下の奥からのそのそと歩いてくる。
「みゃお、ただいま」
声をかけると、短く鳴いた。
まるで「遅かったな」とでも言っているようだった。
ある日、高校生の一男は、学校で友達と喧嘩をして帰ってきた。
些細なことだった。
今になって思えば、何であんなに腹を立てたのかわからない。
けれど、その日はどうしても気持ちが収まらず、自分の部屋に入るなり鞄を放り投げた。
ベッドに腰を下ろし、ため息をついていると、開けっぱなしのドアからみゃおが入ってきた。
「……何だよ」
みゃおは返事をせず、ベッドに飛び乗った。
そして一男の膝に乗り、くるりと向きを変えて丸くなった。
「重いって」
そう言いながら、一男はみゃおの背中を撫でた。
柔らかな毛並み。
喉を鳴らす低い音。
いつもの匂い。
しばらくそうしていると、不思議と腹立たしさが薄れていった。
「おまえはいいよな。学校も行かなくていいし」
みゃおは目を閉じたまま、尻尾の先だけを動かした。
「……まあ、聞いてないよな」
一男は苦笑した。
みゃおは何も言わなかった。
けれど、何も言わずにそばにいてくれることが、その日はありがたかった。
大学へは進まず、地元で就職した一男が社会人になってからも、みゃおは変わらず家族の一員だった。
仕事で疲れて帰ってくると、玄関に座っている。
夕飯を食べていると、足元にやってくる。
休日に昼寝をしていると、いつの間にか隣で眠っている。
気づけば、みゃおはすっかり年を取っていた。
昔のようにカーテンへ飛びつくこともなくなり、階段を上る足取りもゆっくりになった。
それでも、一男が呼ぶと顔を上げた。
「みゃお」
「みゃあ」
十歳の頃につけた単純な名前。
大人になった今でも、その名前を呼ぶことに何の違和感もなかった。
*
みゃおが亡くなったのは、一男が二十五歳のときだった。
十五歳になったみゃおは、少しずつ食が細くなり、寝ている時間が長くなっていた。
動物病院にも通った。
薬を飲ませ、食べやすいご飯を用意し、家族で交代しながら様子を見た。
それでも、年を取るということには逆らえなかった。
ある冬の朝、みゃおは静かに息を引き取った。
一男は、しばらく信じられなかった。
十五年間、当たり前のように家にいた。
小学校から帰った日も、高校の卒業式の日も、初めて給料をもらった日も。
みゃおはずっと、そこにいた。
それが突然、いなくなった。
仕事から帰って玄関を開けても、もう迎えに来ない。
机に向かっても、ノートの上に座ることはない。
布団に入っても、足元に温かな重みはなかった。
ある夜、一男はいつもの癖で布団の端を少し持ち上げた。
みゃおが入りやすいように。
けれど、何も入ってこなかった。
そのとき初めて、一男は声を出して泣いた。
大人になってから、あんなに泣いたことはなかった。
母親も泣いていた。
父親はあまり何も言わなかったが、みゃおがよく座っていた窓際を、何度も見ていた。
十五年という時間は、長かった。
長かったはずなのに、終わってしまえば、あっという間だったようにも思えた。
それから一男は、猫を飼わなくなった。
友達の家で猫を見ると、かわいいと思った。
テレビで子猫の映像が流れれば、つい見入ってしまった。
けれど、もう一度飼いたいとは思えなかった。
また、あんな別れを経験するのが怖かった。
みゃおのいない暮らしに慣れるまで、随分と時間がかかったのだ。
*
それから年月が流れた。
一男は三十代半ばで美穂と結婚し、翌年には悠太が生まれた。
今では四十代になり、家族三人で賑やかに暮らしている。
休日には息子と公園へ行き、仕事から帰れば一緒に風呂に入る。
かつて自分が子供だった頃、父親がしてくれたことを、今は自分が息子にしている。
そんな日々の中で、みゃおのことを思い出す機会は少しずつ減っていた。
忘れたわけではない。
ただ、思い出さなくても毎日が過ぎていくようになった。
それなのに、今。
目の前には、小さな子猫がいる。
「お父さん、だめ?」
悠太がもう一度尋ねた。
一男は返事をする前に、段ボール箱の前へしゃがみ込んだ。
子猫は小さな体を起こし、こちらを見つめていた。
「……ちょっと抱いてもいいか?」
美穂がうなずいた。
「うん。そっとね」
一男は両手を差し入れ、子猫をゆっくり抱き上げた。
軽かった。
こんなに小さかっただろうか。
みゃおを初めて抱いたときも、きっと同じくらい軽かったはずなのに、今ではその感覚を思い出せない。
子猫は一男の腕の中で小さく身じろぎした。
柔らかな毛並みが、手のひらに触れた。
「……ああ」
思わず声が漏れた。
懐かしい感触だった。
小さな体の温かさ。
指の間をすり抜けるような柔らかな毛。
そして、腕の中でかすかに動く命の重み。
一男は子猫を胸元へ引き寄せた。
すると、昔の癖が自然と出た。
子猫の背中にそっと顔を近づけ、鼻先を毛に埋める。
そして、静かに息を吸った。
ふわりと、匂いがした。
温かく、柔らかく、少しだけ香ばしいような匂い。
一男は目を閉じた。
その瞬間、時間が巻き戻った。
十歳の自分。
草むらから聞こえた小さな鳴き声。
母親に必死で頼み込んだ日のこと。
宿題のノートの上に座るみゃお。
冬の布団に潜り込んでくる温かな体。
学校で嫌なことがあった日に、黙って膝に乗ってきたこと。
玄関で待っていてくれた姿。
十五年間の記憶が、次々と蘇ってきた。
ああ。
みゃおだ。
この匂い。
忘れていたと思っていたのに。
こんなにはっきり、覚えていたんだ。
一男は子猫の背中に顔を寄せたまま、しばらく動けなかった。
「お父さん?」
悠太の声が聞こえた。
「……ん?」
「何してるの?」
一男は顔を上げた。
「猫吸い」
「ねこすい?」
「そう。猫の匂いを嗅ぐんだよ」
悠太は不思議そうな顔をした。
「おいしいの?」
一男は思わず笑った。
「食べるわけじゃないぞ」
「じゃあ、何で吸うの?」
「……何でだろうな」
自分でも、うまく説明できなかった。
ただ、好きだったのだ。
みゃおの匂いが。
その温かさが。
そばにいてくれることが。
「お父さん、泣いてる?」
悠太が首をかしげた。
一男は慌てて目元を拭った。
「……ちょっとだけな」
「どうして?」
一男は子猫を見つめた。
「昔な、お父さんも猫を飼ってたんだよ」
「ほんと?」
「ああ。お父さんが十歳のときに拾ってきたんだ」
「ぼくと同じだ!」
「そうだな。おまえと同じだ」
一男は笑った。
「名前は、みゃおっていったんだ」
「みゃお?」
「そう。鳴き声がみゃおって聞こえたから、そうつけた」
悠太は声を上げて笑った。
「変な名前!」
「おいおい。お父さんが考えたんだぞ」
「だって、みゃおって!」
悠太は何度も名前を口にして笑っていた。
その姿を見ていると、一男までおかしくなってきた。
そういえば、あの日も父親と母親に笑われた。
名前をつけた本人だけが、大真面目だった。
今なら、あのときの両親の気持ちが少しわかる気がした。
*
「それで、どうする?」
美穂が静かに尋ねた。
一男は子猫を抱いたまま、妻を見た。
「……正直、また猫を飼うのは怖いと思ってた」
美穂は黙って聞いていた。
「昔飼ってた猫が死んだとき、本当に悲しくてさ。もう二度と、あんな思いはしたくないって思ったんだ」
「うん」
「でも……」
一男は腕の中の子猫に目を落とした。
小さな命は、安心したように目を細めていた。
「今思い出すのは、悲しかったことだけじゃないんだよな」
十五年間、みゃおと過ごした日々。
宿題の邪魔をされたことも、夜中に布団を取られたことも、玄関で待っていてくれたことも。
どれも、今では大切な思い出だった。
別れが悲しかったのは、それだけ幸せな時間があったからなのだろう。
一男はゆっくり息を吐いた。
そして、悠太を見た。
「悠太」
「なあに?」
「この子、ちゃんと面倒見られるか?」
悠太の目が大きくなった。
「うん!」
「ご飯もあげるし、トイレも掃除するんだぞ。遊びたいときだけかわいがるんじゃ駄目だからな」
「うん! ちゃんとする!」
「病気になったら、みんなで世話するんだぞ」
「うん!」
一男は美穂と顔を見合わせた。
美穂は優しく笑っていた。
「じゃあ……家族みんなで面倒を見るか」
その瞬間、悠太は飛び上がった。
「やったー!」
一男は思わず笑った。
遠い昔、自分も同じように飛び上がって喜んだことを思い出した。
父親は、こんな気持ちで自分を見ていたのだろうか。
「それで、名前はどうするんだ?」
一男が尋ねると、悠太は真剣な顔になった。
子猫をじっと見つめる。
子猫も悠太を見つめ返した。
「みゃあ」
小さな声が聞こえた。
悠太はぱっと顔を上げた。
「決めた!」
「お、何にする?」
「にゃお!」
一男は一瞬、言葉を失った。
「……にゃお?」
「うん! この子、にゃおって鳴くんだもん!」
その言葉を聞いた途端、一男は吹き出した。
美穂も笑い始めた。
「あなた、どうしたの?」
「いや……何でもない。何でもないけど……」
一男は笑いながら、目元を押さえた。
何十年も前、自分が父親に言った言葉と、ほとんど同じだった。
みゃお。
そして、にゃお。
たった一文字違いの名前。
けれど、その偶然が、一男にはたまらなく嬉しかった。
「いい名前だな」
一男がそう言うと、悠太は得意そうに胸を張った。
「でしょ!」
子猫はそんな会話など知らない顔で、小さくあくびをした。
一男はそっと子猫を悠太の膝に乗せた。
「優しく抱いてやれよ」
「うん!」
悠太は両手で子猫を包み込むように抱いた。
その姿は、十歳の頃の自分によく似ていた。
一男は隣に腰を下ろし、息子と子猫を眺めた。
もう、みゃおに会うことはできない。
あの十五年間を、もう一度やり直すこともできない。
けれど、みゃおと暮らした日々があったからこそ、今こうして新しい命を迎えようと思えた。
にゃおは、みゃおの代わりではない。
これから金子家で、まったく新しい時間を一緒に過ごしていくのだ。
「お父さん、見て!」
悠太が嬉しそうに声を上げた。
「にゃお、寝ちゃった!」
子猫は息子の膝の上で、小さく丸まっていた。
一男はその背中をそっと撫でた。
柔らかな毛並みから、懐かしい匂いがふわりと漂った。
いつか悠太も、大人になってこの匂いを思い出す日が来るのだろうか。
そのとき、今日のことを覚えていてくれたら嬉しい。
一男は眠っている子猫を見つめながら、心の中でそっとつぶやいた。
みゃお。
うちに、また猫が来たよ。
今度は、悠太が拾ってきたんだ。
名前は、にゃおだってさ。
おかしいだろ。
そう思ったら、また少し笑えてきた。
居間には、悠太の楽しそうな声と、美穂の笑い声が響いていた。
その真ん中で、にゃおは安心しきったように眠っている。
かつて一男が大好きだった猫の匂いが、今度は新しい家族の時間を包み始めていた。
(第七話 完)




