第六話 ブラジルコーヒー
古内智代は、メニューの一番上に書かれた「ブレンドコーヒー」の文字を見つめていた。
十月の日曜日。高校時代からの友人である真紀と、久しぶりに駅前のカフェで会うことになった。
三十八歳になった智代にとって、休日に友人とゆっくりお茶を飲む時間は、以前よりもずっと貴重なものになっていた。
工場では勤続年数も長くなり、今では新人の指導を任されることも多い。仕事に慣れた分だけ責任も増え、休日くらいは何も考えずに過ごしたかった。
「智代、決まった? 私はカフェラテにするけど」
向かいの席で真紀がメニューを閉じた。
「うん、いつものブレンドで……」
そう言いかけて、智代の目が止まった。
メニューの下の方に、小さく「本日のストレートコーヒー」と書かれている。
その中に、ブラジルという文字があった。
「……ブラジルコーヒーにしようかな」
「珍しいね。智代って、いつもブレンドじゃない?」
「そうなんだけど。なんとなく、今日はこっちが飲みたい気がして」
自分でも不思議だった。
普段なら、迷わずブレンドを注文する。コーヒーは好きだが、豆の産地に詳しいわけではない。酸味が強いとか、苦味が深いとか、そういう違いもあまり気にせず飲んできた。
それなのに、今日はその名前が妙に気になった。
注文を済ませると、二人は近況を話し始めた。
真紀の子供が来年中学生になること。共通の友人が最近引っ越したこと。昔よく行った店がなくなっていたこと。
そんな話をしているうちに、店員が二つのカップを運んできた。
「お待たせしました。カフェラテと、ブラジルコーヒーです」
智代の前に、白いカップが置かれた。
湯気とともに、ふわりと香りが立ち上る。
香ばしく、少し甘みを感じるような、柔らかな匂い。
智代は思わず動きを止めた。
胸の奥に、何かが小さく触れた気がした。
知っている。
この香りを、私は知っている。
カップに手を伸ばしかけたまま、智代は目を閉じた。
すると、十五年前の工場の風景が、驚くほど鮮やかに蘇ってきた。
*
二十三歳の頃、智代は今と同じ工場で働いていた。
当時はまだ入社して数年で、毎日が仕事を覚えることで精いっぱいだった。
工場では自動車部品の加工と検査を行っており、機械の音が絶えず響いていた。夏は暑く、冬は底冷えがした。油の匂いが染みついた作業服を洗濯しても、なかなか落ちないことがあった。
そんな職場に、ある春の日、新しい派遣社員が数人入ってきた。
その中の一人が、城間ファビオだった。
「シロマ、ファビオです。よろしく、おねがいします!」
朝礼で紹介された彼は、少し緊張した様子で頭を下げた。
年齢は智代と同じくらい。日系ブラジル人で、日本へ来てまだそれほど長くないのだという。
短く整えた黒い髪に、よく日に焼けた顔。目が合うと、ぱっと人懐こい笑顔を見せた。
最初に智代が彼と言葉を交わしたのは、仕事を教えることになった日のことだった。
「ここで部品を取って、この向きで機械にセットしてください。終わったら、こっちの箱に入れます」
智代が実際にやって見せると、ファビオは真剣な顔で手元を見つめていた。
「はい。わかりました」
ところが、いざ自分でやってみると、部品の向きを逆にしてしまった。
「あっ、そっちじゃなくて、反対です」
「ア、すみません!」
ファビオは慌てて直し、それから作業服のポケットから小さなノートを取り出した。
「ちょっと、書いてもいいですか?」
「もちろん」
彼は日本語で何かを書き込み、隣にポルトガル語らしい言葉を添えた。
「忘れないように。日本語、まだむずかしいです」
そう言って、照れくさそうに笑った。
その笑顔につられて、智代も笑った。
「大丈夫ですよ。私だって最初は間違えてばっかりでしたから」
「本当ですか?」
「本当です。機械を止めちゃって、先輩に怒られたこともあります」
「じゃあ、僕も、だいじょうぶですね」
「いや、機械は止めないでくださいね」
二人は顔を見合わせて笑った。
それが、最初だった。
*
ファビオは、とにかく一生懸命だった。
仕事でわからないことがあれば必ず質問し、教えてもらったことはノートに書いた。
休憩時間にも日本語の勉強をしていた。
ある日、智代が休憩室へ行くと、ファビオが自動販売機の前で困った顔をしていた。
「どうしたの?」
「あ、古内さん。これ、何がちがいますか?」
彼が指さしたのは、缶コーヒーの自動販売機だった。
ブラック、微糖、カフェオレ。
日本人なら見慣れた表示も、ファビオには少しわかりにくいらしい。
「ブラックは砂糖もミルクも入ってないコーヒー。微糖は砂糖が少し入ってて、カフェオレはミルクが多いかな」
「ビトウ……。ちょっと、甘い?」
「そうそう」
「じゃあ、これにします」
ファビオは微糖のボタンを押した。
缶を取り出して一口飲むと、少し考えるような顔をした。
「どう?」
「おいしい。でも、ブラジルのコーヒーと、ちがいます」
「ブラジルって、コーヒーが有名だよね」
「はい。ブラジル、コーヒーたくさんあります」
彼は嬉しそうにうなずいた。
「僕のお母さん、毎朝コーヒー作ります。家の中、いい匂いです」
智代はその言葉を聞いて、何となく彼の家を想像した。
日本から遠く離れた国の朝。
窓から差し込む光と、家族の声と、コーヒーの香り。
まだ見たこともない景色なのに、少しだけ身近に感じられた。
「ファビオさん、日本にはどうして来たの?」
何気なく尋ねると、彼は少し考えてから答えた。
「仕事、したかったです。日本のことも、知りたかった。おじいさん、日本人ですから」
「そうなんだ」
「でも、来てみたら、むずかしいこと、いっぱいです」
そう言って笑う彼の顔には、不思議と暗さがなかった。
「でも、みんな親切です。古内さんも」
「私は普通に教えてるだけだよ」
「それが、うれしいです」
真っすぐにそう言われて、智代は少し照れくさくなった。
それからというもの、休憩室でファビオを見かけると、自然と声をかけるようになった。
彼も智代を見つけると、いつもの笑顔で手を振った。
仕事中は真剣な顔をしているのに、休憩になるとよく笑う。
日本語を間違えては自分で笑い、周りの人たちもつられて笑った。
いつの間にか、ファビオは職場の人気者になっていた。
そして智代は、彼の姿を目で追うことが増えていた。
朝、彼が出勤していると少し嬉しい。
休憩時間が重なると、何となく得をした気分になる。
帰り際に「お疲れさまでした」と声をかけられるだけで、その日の疲れが軽くなる。
それが恋心なのだと気づくまでに、そう長い時間はかからなかった。
*
ファビオに誘われたのは、夏の初めだった。
仕事が終わり、更衣室から出てきた智代が駐車場へ向かおうとすると、ファビオが少し離れたところで待っていた。
「あ、古内さん」
「お疲れさま。どうしたの?」
彼はいつものように笑ったが、その日は少し落ち着かない様子だった。
「あの……古内さん、コーヒー、好きですか?」
「うん、好きだよ」
「ブラジルのコーヒー、飲んだことありますか?」
「ブラジルの? たぶん、ないと思う」
そう答えると、ファビオの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、今度、ブラジルのコーヒー、飲みに行きませんか?」
智代は一瞬、言葉が出なかった。
彼と休憩室で話すことは何度もあったが、仕事の外で会ったことはなかった。
「……私と?」
「はい。古内さんと」
ファビオは少し照れくさそうに笑った。
「おいしい店、見つけました。僕、行ってみたいです」
智代の胸が、急に騒がしくなった。
それでも、できるだけ平静を装って答えた。
「うん。いいよ」
「本当ですか?」
「うん。私も飲んでみたいし」
「よかった!」
彼は心から嬉しそうに笑った。
その笑顔を見たとき、智代は自分の頬が熱くなるのを感じた。
約束した土曜日までの数日間は、いつもよりずっと長く感じられた。
何を着ていこうか。
どんな話をしようか。
仕事の話ばかりではつまらないだろうか。
そんなことを考えている自分がおかしくて、智代は何度も一人で笑ってしまった。
*
ファビオが連れていってくれたのは、駅から少し離れた場所にある小さな喫茶店だった。
木の扉を開けると、落ち着いた照明の店内に、コーヒーの香りが漂っていた。
窓際の席に座ると、ファビオはメニューを開き、嬉しそうに言った。
「ここ、ブラジルのコーヒーあります」
「本当だ。いろんな種類があるんだね」
「はい。ブラジルも、場所で味がちがいます」
智代はメニューを眺めたが、豆の名前を見ても違いはよくわからなかった。
「どれがおすすめ?」
「僕、これ飲みたいです」
ファビオが指さしたコーヒーを、智代も頼むことにした。
しばらくして、店員が二つのカップを運んできた。
智代はカップを持ち上げようとして、その手を止めた。
「……いい匂い」
思わず口からこぼれた。
いつも飲んでいる缶コーヒーや、家で淹れるインスタントコーヒーとは違う香りだった。
香ばしく、柔らかく、どこか甘さを感じる。
深く息を吸い込むと、胸の奥まで温かくなるような気がした。
「でしょう?」
ファビオは嬉しそうに笑った。
「僕、この匂い、好きです」
「うん。なんだか落ち着くね」
智代が一口飲むと、ほどよい苦味が舌に広がった。
そのあとから、ほのかな甘みが残る。
「おいしい」
「よかった」
ファビオはまるで自分が淹れたコーヒーを褒められたかのように喜んだ。
それから二人は、ゆっくり話をした。
ファビオはブラジルで暮らしていた頃のことを教えてくれた。
家族のこと。友人たちのこと。日曜日には親戚が集まって賑やかに食事をすること。
智代が知らない街の名前がいくつも出てきた。
「ブラジルって、ずっと暑いの?」
智代が尋ねると、ファビオは笑った。
「場所によります。ブラジル、とても大きいですから」
「そうなんだ。私、あんまり知らないな」
「僕も日本、知らないこといっぱいです」
ファビオは少し考えてから続けた。
「日本の人、時間、ちゃんと守りますね」
「ブラジルでは違うの?」
「人によります。でも、日本の工場、五分前でも遅いみたいな顔されます」
その言い方がおかしくて、智代は吹き出した。
「それはちょっとわかるかも」
「あと、日本の夏、暑いです」
「ブラジルの方が暑そうなのに?」
「外は暑いです。でも、日本、湿気がすごい。空気が重いです」
ファビオは両手で何かを押し下げるようなしぐさをした。
智代は笑いながら、彼の話に耳を傾けた。
普段の職場では聞けない話ばかりだった。
日本語を探しながら、一生懸命に話すファビオ。
ときどき言葉が見つからなくなると、身ぶり手ぶりを交えて説明する。
そのたびに二人で笑った。
気がつけば、窓の外は夕方になっていた。
「もうこんな時間なんだね」
智代が時計を見ると、ファビオも驚いた顔をした。
「本当ですね。時間、早いです」
「楽しかったからかな」
何気なくそう言ってから、智代は少し恥ずかしくなった。
けれどファビオは、いつもの人懐こい笑顔で答えた。
「僕も、楽しかったです」
帰り道、駅へ向かって並んで歩きながら、智代はもう一度コーヒーの香りを思い出していた。
その日から、ブラジルコーヒーは智代にとって特別なものになった。
*
それから二人は、以前よりも親しくなった。
休憩時間が重なれば一緒に話し、仕事帰りに駐車場まで歩くこともあった。
ファビオは日本語がずいぶん上達していたが、ときどき言葉を間違えた。
「古内さん、昨日、雨がいっぱい降りましたね」
「うん、すごかったね」
「僕、洗濯物、全部おぼれました」
「おぼれた?」
「……ちがいますか?」
「濡れちゃった、かな」
「ああ、そうです! 洗濯物、全部濡れました!」
そんなやり取りが、智代は好きだった。
彼が笑うと、自分も笑顔になれた。
何でもない一日が、少しだけ特別になる。
もしかしたら、彼も自分に好意を持ってくれているのではないか。
そんな期待が、智代の心に少しずつ膨らんでいった。
もう一度、二人でコーヒーを飲みに行けたら。
今度は自分から誘ってみようか。
そう考えていた頃だった。
ある日の昼休み、智代は同じ職場で働く日系ブラジル人の女性、ルシアと休憩室で話していた。
ルシアは智代より少し年上で、日本語も上手だった。
話題がファビオのことになったのは、ほんの偶然だった。
「ファビオ、日本語うまくなったよね」
智代がそう言うと、ルシアは笑ってうなずいた。
「うん。あの人、よく勉強してるからね」
「仕事も一生懸命だし、すごいよね」
「そうだね。ブラジルに帰ったら、彼女も喜ぶんじゃない?」
智代は、手にしていたお茶のペットボトルを見つめた。
「……彼女?」
「うん。ブラジルに彼女がいるって聞いたけど」
ルシアは何気なく答えた。
智代の胸が、静かに冷えていく。
「そうなんだ……」
「私も本人から詳しく聞いたわけじゃないけどね。誰かがそんなこと言ってたよ」
ルシアはそれ以上、その話を続けなかった。
別の同僚がやってきて、話題はすぐに変わった。
智代も普通に笑っていた。
けれど、何を話したのか、あとからほとんど思い出せなかった。
ブラジルに、彼女がいる。
その言葉だけが、頭の中に残っていた。
*
午後の仕事中、智代は何度もファビオの姿を見た。
彼はいつもと変わらなかった。
真剣な顔で部品を確認し、先輩に何かを教わると、うなずきながらノートを取っていた。
休憩時間には、いつものように智代へ声をかけてきた。
「古内さん、お疲れさまです」
「うん、お疲れさま」
「今日、暑いですね」
「そうだね」
それだけ答えると、智代は水筒を手に取った。
ファビオは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに別の同僚に呼ばれ、そちらへ歩いていった。
智代は、その背中を見送った。
聞けばいい。
ブラジルに彼女がいるの?
たったそれだけのことだった。
もし本当なら、それで諦めればいい。
もし違うなら、また前のように笑って話せばいい。
頭ではそう思っていた。
けれど、どうしても聞けなかった。
ファビオが「いる」と答えたら。
あの喫茶店で過ごした時間は、彼にとって何だったのだろう。
自分だけが特別な意味を感じていたのだとしたら。
そう考えると、怖くなった。
それから智代は、少しずつファビオを避けるようになった。
休憩時間をずらし、仕事帰りには早めに駐車場へ向かった。
ファビオに声をかけられても、以前のように長く話すことはなくなった。
彼が何か悪いことをしたわけではない。
むしろ、彼は何も変わっていなかった。
変わってしまったのは、智代の方だった。
ある日の帰り際、ファビオが声をかけてきた。
「古内さん、最近、忙しいですか?」
智代は足を止めた。
「え? どうして?」
「前は、よく話しました。でも最近、あまり話さないから」
ファビオは少し困ったように笑った。
「僕、何かしましたか?」
智代の胸が痛んだ。
違う。
あなたは何も悪くない。
そう言いたかった。
けれど、口から出たのは別の言葉だった。
「ううん。ちょっと仕事が忙しくて、疲れてるだけ」
「そうですか」
ファビオはほっとしたような顔をした。
「無理しないでくださいね」
「ありがとう」
彼はいつものように笑った。
智代も笑顔を返した。
けれど、その笑顔がうまくできていたのか、自分ではわからなかった。
*
秋になる頃、ファビオの派遣契約が終了することになった。
次は別の工場へ行くのだという。
その話を聞いたとき、智代は驚くほど静かな気持ちだった。
いつか、こういう日が来るかもしれない。
派遣社員なのだから、同じ職場でずっと働くとは限らない。
頭ではわかっていた。
それでも、実際にその日が近づいてくると、胸の奥に小さな穴が開いたような気がした。
最後の出勤日。
ファビオは朝礼で挨拶をした。
「みなさん、今まで、ありがとうございました。いろいろ教えてもらって、うれしかったです。次の仕事も、がんばります」
少しぎこちない日本語だったが、入ってきた頃とは比べものにならないほど上手になっていた。
周りから拍手が起こった。
智代も拍手をした。
ファビオは照れくさそうに笑っていた。
仕事が終わると、彼はお世話になった人たちに一人ずつ挨拶をして回った。
智代のところへ来たのは、最後の方だった。
「古内さん」
「お疲れさま。今日で最後だね」
「はい。ちょっと、さびしいです」
「次のところでも頑張ってね」
「ありがとうございます」
ファビオは一度言葉を切った。
それから、少しだけ真剣な顔になった。
「古内さん、最初に仕事教えてくれましたね」
「うん。そうだったね」
「僕、日本語も仕事も、ぜんぜんわからなかった。でも、古内さん、いつも優しかったです」
智代は何も言えなかった。
「一緒にコーヒー飲んだのも、楽しかったです」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
あの日の香りが、ふいに蘇った。
窓際の席。
笑いながら話したブラジルのこと。
夕方まで気づかなかった時間の流れ。
智代は、精いっぱい笑った。
「私も、楽しかったよ」
ファビオは嬉しそうにうなずいた。
「古内さん、ありがとう」
「こちらこそ。ありがとう」
聞こうと思えば、聞けたのかもしれない。
ブラジルに彼女がいるのか。
あの日、自分を誘ってくれたのはどうしてだったのか。
けれど、智代は何も聞かなかった。
ファビオも、それ以上は何も言わなかった。
「じゃあ、元気で」
「はい。古内さんも、元気で」
最後まで、彼はいつもの人懐こい笑顔だった。
智代はその背中が見えなくなるまで、駐車場に立っていた。
その日、帰り道に車のラジオから流れていた曲も、夕焼けの色も、今では覚えていない。
ただ、彼が最後に見せた笑顔だけは、なぜかずっと忘れられなかった。
*
「……智代?」
真紀の声で、智代は我に返った。
目の前には、白いカップがあった。
窓の外を、買い物帰りの人たちが歩いている。
十五年という時間が、一瞬で戻ってきた。
「どうしたの? 急に黙っちゃって」
「あ、ごめん。ちょっと昔のこと思い出してた」
「昔のこと?」
「うん。若い頃のね」
真紀は興味深そうに笑った。
「何それ。もしかして恋の話?」
「……どうだろうね」
智代が曖昧に笑うと、真紀は「怪しいなあ」と言いながらカフェラテを飲んだ。
智代も、目の前のコーヒーに口をつけた。
ほろ苦い味が広がった。
十五年前に飲んだものと、まったく同じ味なのかはわからない。
豆の種類も、焙煎の仕方も、淹れる人も違うだろう。
それでも、香りのどこかに、あの日と同じものがあった。
智代はカップを両手で包んだ。
あれから十五年。
ファビオがどこで何をしているのか、智代は知らない。
次の職場で元気に働いていたのだろうか。
日本語はもっと上手になっただろうか。
それとも、ブラジルへ帰ったのだろうか。
そして、あのとき聞いた話は、本当だったのだろうか。
考え始めれば、いくらでも疑問は浮かんでくる。
けれど、答えを知る方法はもうなかった。
今なら、あの頃よりもう少し上手に話せるかもしれない。
誰かの噂を聞いただけで、相手を避けたりはしないかもしれない。
それでも、二十三歳の自分にはできなかったのだ。
好きだったからこそ、怖かった。
大切にしたい時間があったからこそ、それを壊すような答えを聞きたくなかった。
智代は小さく息を吐いた。
十五年も経ったのに、あのときの自分を思い出すと、少しだけ胸が痛む。
けれど、不思議と後悔ばかりではなかった。
ファビオと笑い合った休憩室。
自動販売機の前で教えた「微糖」という言葉。
慣れない日本語を一生懸命覚えようとしていた横顔。
そして、二人で飲んだブラジルコーヒー。
あの時間が楽しかったことまで、消えるわけではない。
「ねえ、智代。そのコーヒー、どう?」
真紀が尋ねた。
「え?」
「ブラジルコーヒー。おいしい?」
智代はもう一度カップに口をつけた。
温かいコーヒーが、ゆっくり喉を通っていく。
「うん。おいしいよ」
「へえ。私も今度頼んでみようかな」
真紀はメニューをちらりと見た。
「ブレンドと、そんなに違う?」
「そうだね……」
智代は少し考えた。
コーヒーの味を言葉で説明するのは、相変わらず得意ではない。
苦味がどうとか、酸味がどうとか、そんなことを言おうとしたけれど、どれもしっくりこなかった。
代わりに、自然と笑みがこぼれた。
「……ちょっと、懐かしい味がする」
真紀は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
また別の話題が始まり、二人の会話はいつもの調子に戻っていった。
智代はときどき笑いながら、カップを口元へ運んだ。
十五年前、彼に恋人がいたのかどうか。
自分のことを、どう思っていたのか。
その答えは、今もわからない。
そして、きっとこれからもわからないままだろう。
でも、ひとつだけ確かなことがある。
あの頃の自分は、城間ファビオが好きだった。
人懐こい笑顔も、一生懸命な姿も、少しおかしな日本語も。
全部、好きだった。
智代は最後の一口をゆっくり飲み干した。
カップの底に、ほんの少しだけコーヒーの温もりが残っていた。
あの日、言えなかった言葉も、聞けなかった答えも、今となっては十五年前の風景の中にある。
けれど、コーヒーの香りだけは、時間を越えてここまで届いた。
智代は空になったカップを見つめ、心の中でそっとつぶやいた。
ファビオ、元気にしてるかな。
窓の外では、秋の日差しが街路樹の葉を照らしていた。
もう会うことはないかもしれない。
それでも、あの日のコーヒーは、今も変わらずいい香りがした。
(第六話 完)




