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第五話 祖父の背中

少しストックができたので投稿します。

 丸尾隆は、朝から何度も時計を見ていた。

 遅刻しそうだったわけではない。むしろ、集合時間より三十分も早く現場に着いていた。

 高校を卒業して、まだ半月ほど。十八歳になったばかりの隆にとって、今日は記念すべき初めての現場勤務だった。

 真新しい作業服に、安全靴。ヘルメットには会社の名前が入っている。家を出る前、玄関の鏡に映った自分の姿を見て、少しだけ大人になったような気がした。

 けれど、いざ現場に着いてみると、そんな気分はどこかへ吹き飛んでしまった。

 まだ朝早いというのに、現場にはすでに何台もの車が停まり、作業員たちが慣れた様子で行き来していた。

 資材を積んだトラックがバックする音。鉄の足場が触れ合う乾いた音。遠くから聞こえる誰かの大きな声。

 そのどれもが、隆には新鮮で、同時に少し怖かった。

「おう、新人か?」

 突然声をかけられ、隆は背筋を伸ばした。

「はい! 今日からお世話になります、丸尾隆です!」

 振り返ると、日に焼けた顔の五十代くらいの男性が立っていた。作業服の袖をまくり、片手に缶コーヒーを持っている。

「そんなに緊張しなくていい。俺は佐伯。今日は俺について回ってもらうからな」

「よろしくお願いします!」

「声はでかくていいな。まあ、最初は怪我しないことだけ考えとけ」

 佐伯はそう言って笑ったが、隆はうまく笑い返せなかった。

 高校では建築科に通っていた。図面の読み方も習ったし、測量や製図の実習も経験した。木材の種類や建築構造についても、それなりに勉強してきたつもりだった。

 それでも、実際の現場は学校の実習室とはまるで違っていた。

 目の前には、まだ骨組みが組み上がったばかりの住宅が建っている。

 図面の中では一本の線だった柱が、今は自分よりずっと高くそびえていた。授業で覚えた部材の名前も、職人たちが飛び交わせる言葉の中では、すぐに頭に浮かんでこない。

 朝礼が終わると、隆は佐伯の指示で資材の運搬や片付けを手伝った。

 ただ木材を運ぶだけでも、慣れた職人たちは無駄な動きがなかった。どこを持てば運びやすいのか、どの順番で置けば次の作業がしやすいのか、誰もいちいち考えているようには見えない。

 一方の隆は、一本運ぶたびに周囲を確認し、置き場所を尋ねなければならなかった。

「丸尾、そっちじゃねえ。こっちに揃えて置いてくれ」

「はい、すみません!」

「謝るのはいいから、次から覚えろ。慌てると怪我するぞ」

 佐伯の声は大きかったが、怒鳴っているわけではなかった。

 それはわかっていても、隆の肩には自然と力が入った。

 午前中が終わる頃には、まだ大した仕事もしていないはずなのに、腕も足も重くなっていた。

 そして何より、自分が何もできないことが悔しかった。

     *

「よし、昼にするぞ」

 佐伯の声を聞いた瞬間、隆は心の中で大きく息を吐いた。

 作業員たちはそれぞれ手を洗い、休憩場所へ向かっていく。隆もその後についていき、現場の隅に設けられた休憩スペースの長椅子に腰を下ろした。

 母親が作ってくれた弁当を鞄から取り出す。

 朝、出かけるときには「初日だからって張り切りすぎないようにね」と言われた。隆は「わかってるよ」と答えたが、どうやら張り切りすぎていたらしい。

 弁当箱を開けると、卵焼きと唐揚げ、ほうれん草のおひたしがきれいに詰められていた。ご飯の真ん中には梅干しが一つ。

 いつもと変わらない母親の弁当だった。

 隆は箸を取り、唐揚げを口に運んだ。

 朝から緊張していたせいか、ようやくまともに味がわかった気がした。

 少し離れた場所では、職人たちが仕事の話をしながら弁当を食べている。誰かが朝の失敗談を話すと、周りから笑い声が上がった。

 隆はまだその輪に入る勇気がなく、黙って弁当を食べ続けた。

 食べ終えて水筒のお茶を飲んでいると、近くの喫煙所から煙が流れてきた。

 紙巻きタバコの匂いだった。

 隆は何気なく顔を上げた。

 最近では、タバコを吸う人を見かける機会も少なくなった。高校ではもちろん吸う人などいなかったし、家でも父親はタバコを吸わない。

 久しぶりに嗅いだその匂いに、隆は不思議な懐かしさを覚えた。

 そして、ふいに一人の顔が浮かんだ。

「……じいちゃん」

 口に出してから、隆は自分でも驚いた。

 二年前に亡くなった祖父の顔が、まるで昨日会ったばかりのようにはっきりと思い出された。

 深く刻まれた額のしわ。日に焼けた大きな手。仕事中はいつも厳しく結ばれていた口元。

 そして、仕事が終わると少しだけ緩む目尻。

 祖父は、町の大工だった。

     *

 隆の祖父、丸尾源三は、町の外れに小さな作業場を持つ大工だった。

 大きな会社を経営していたわけではない。弟子を何人も抱えていたわけでもない。

 近所の家の新築や増改築、雨漏りの修理、古くなった床の張り替えなどを引き受け、長い年月、町の人たちの暮らしを支えてきた。

 源三の作業場は、古い平屋の建物だった。

 引き戸を開けると、まず木の匂いがした。

 切りたての木材の青い匂いと、長年使われてきた道具の匂い。床には鉋屑が薄く積もり、壁には鋸や金槌、差し金などが整然と掛けられていた。

 幼い隆にとって、そこは宝物が詰まった場所だった。

 保育園の帰りや休日になると、母親に頼んで祖父の作業場へ連れていってもらった。

「じいちゃーん!」

 勢いよく引き戸を開けると、源三はたいてい作業台に向かっていた。

 鉋をかけているときもあれば、木材に墨で線を引いていることもあった。

 源三は仕事中、滅多に笑わなかった。

 眉間にしわを寄せ、寸法を確かめ、木材の表面を何度も手で撫でる。その姿は、幼い隆には少し怖く見えた。

 けれど、隆が声をかけると、源三は必ず手を止めた。

「おう、隆か。来たのか」

 それだけ言うと、口元がほんの少し緩んだ。

 母親はいつも「仕事の邪魔しちゃ駄目よ」と念を押したが、源三は「こいつは邪魔なんかしねえよ」と言って、作業場の隅に小さな椅子を用意してくれた。

 隆はそこに座り、祖父の仕事を飽きずに眺めていた。

 鉋が木の表面を滑ると、薄く長い削り屑がくるくると丸まって落ちてくる。

 源三が鋸を引けば、木の粉がさらさらと床に積もった。

 金槌の音は規則正しく、まるで何かの音楽のように聞こえた。

「じいちゃん、何作ってるの?」

 隆が尋ねると、源三は手を動かしながら答えた。

「家に使う木だ」

「おうち?」

「ああ。人が住む家だ」

「じゃあ、じいちゃんがおうち作るの?」

「俺一人じゃ作れねえよ。いろんな人が力を合わせて作るんだ」

 隆には、その意味がよくわからなかった。

 目の前で木を切ったり削ったりしているのは祖父なのだから、祖父が全部作っているのだと思っていた。

 源三はそんな孫の顔を見て、少し笑った。

「まあ、そのうちわかるさ」

 それから、作業を再開した。

 隆は祖父の大きな手を見つめた。

 指は太く、爪の周りにはいつも落ちない汚れがあった。手のひらには硬いところがいくつもあり、触ると少しざらざらしていた。

 それでも、隆はその手が好きだった。

 祖父が頭を撫でてくれると、何だかとても安心した。

     *

 源三は、仕事に関しては厳しい人だった。

 近所の人から頼まれた小さな棚の修理でも、寸法が少しでも合わなければ、何度でもやり直した。

 ある日、隆が作業場へ行くと、源三は作りかけの木枠をじっと見つめていた。

 いつもより機嫌が悪そうだった。

「じいちゃん、どうしたの?」

「ちょっと気に入らねえところがあってな」

 隆には、どこが悪いのかわからなかった。

 きれいに組み上がっているように見えたし、木の表面もつるつるしていた。

「これじゃ駄目なの?」

「駄目ってほどじゃねえ。でも、俺が納得できねえ」

 源三はそう言うと、組み上げたばかりの木枠を外し始めた。

 隆はもったいないと思った。

「せっかく作ったのに」

「そうだな。でも、これを使う人は、俺が手を抜いたかどうかなんて知らねえだろ」

「うん」

「だからこそ、ちゃんと作らなきゃならねえんだ」

 そのときの隆には、祖父の言葉が少し難しかった。

 けれど、源三が真剣な顔で木材を見つめていたことだけは、よく覚えていた。

 作業が終わると、源三は決まって作業場の外に出た。

 ポケットから紙巻きタバコを一本取り出し、火をつける。

 小さな隆が近づくと、源三は「煙いから、そっちにいろ」と言って少し離れた場所へ移動した。

 祖父がタバコを吸う姿は、隆にとって仕事が終わった合図だった。

 作業場に響いていた鋸や金槌の音がやみ、夕方の静けさが戻ってくる。

 源三は作業場の戸口に腰を下ろし、ゆっくり煙を吐いた。

 その横顔は、仕事中とは違って穏やかだった。

 隆は少し離れた椅子に座り、祖父が休憩を終えるのを待った。

 夕日が作業場の床を赤く染め、鉋屑が光を受けてきらきらしていた。

 その光景を眺めているうちに、隆はいつも眠くなった。

 幼い子供にとって、作業場で過ごす午後は楽しくても、少し疲れる時間だった。

 気がつけば椅子の上でうとうとし、やがて目を閉じてしまう。

 そして次に目を覚ますと、たいてい祖父の背中にいた。

     *

 源三の背中は、大きかった。

 仕事で鍛えられた肩は広く、背中は少し丸かった。

 眠ってしまった隆を、源三はいつもおんぶして家まで送ってくれた。

 母親が迎えに来ている日でも、源三は「寝てるなら、このまま連れてく」と言って、隆を背負った。

 作業場から隆の家までは、歩いて十五分ほどだった。

 幼い隆は、途中で何度か目を覚ました。

 目の前には祖父の首筋があり、その向こうには夕焼け空が広がっていた。

 歩くたびに背中がゆっくり揺れる。

 遠くから犬の鳴き声が聞こえたり、どこかの家から夕飯の匂いが漂ってきたりした。

「じいちゃん……」

 寝ぼけた声で呼ぶと、源三は少しだけ顔を横に向けた。

「おう、起きたか」

「うん……」

「もうすぐ家だ。寝てていいぞ」

 隆は小さくうなずき、また祖父の肩に頬を寄せた。

 作業服には、木の匂いが染みついていた。

 汗の匂いもした。

 そして、その奥にほんの少し、タバコの匂いがあった。

 決して甘い匂いではなかった。

 けれど、隆にとっては不思議と安心する匂いだった。

 祖父の背中に顔を埋めていると、何も心配することがなかった。

 転ぶことも、迷子になることもない。

 目を閉じていれば、必ず家に着く。

 そんな当たり前の安心感が、あの背中にはあった。

 家の近くまで来ると、母親が玄関先で待っていることもあった。

「あら、また寝ちゃったの?」

「今日はよく遊んだからな」

「お父さん、いつもすみません」

「いいんだよ。孫を背負えるうちが花だ」

 源三はそう言って笑った。

 その声を聞きながら、隆は眠ったふりをしていた。

 本当は、もう少しだけ背負っていてほしかったのだ。

     *

 小学校に入ると、隆は祖父の仕事を少しずつ理解するようになった。

 夏休みには、母親に頼んで作業場へ行くことも増えた。

 源三は危ない道具には触らせなかったが、木材の端切れを使って遊ぶことは許してくれた。

 小さな木片を並べて家の形を作ったり、釘を使わずに積み上げて塔を作ったりした。

 ある日、隆は自分で作った小さな家を祖父に見せた。

 屋根は少し傾き、壁にも隙間があったが、隆にとっては立派な作品だった。

「じいちゃん、見て! 家ができた!」

 源三は手を止め、しばらくその家を眺めていた。

「ほう、なかなかいいじゃねえか」

 褒められた隆は嬉しくなった。

「俺も大きくなったら、じいちゃんみたいな大工さんになる!」

 源三はすぐには答えなかった。

 代わりに、隆が作った小さな家を手に取り、傾いた屋根を指でそっと押さえた。

「大工になりてえのか」

「うん! だって、じいちゃんすごいもん!」

 すると源三は、少し照れくさそうに鼻を鳴らした。

「大工がすごいんじゃねえ。人が安心して暮らせる家を建てるのが、すごい仕事なんだ」

 隆は首をかしげた。

「安心して暮らせる家?」

「ああ。雨が降っても濡れねえ。風が吹いても倒れねえ。寒い日には家族で暖かくして寝られる。そういう場所を作るんだ」

 源三は作業場の外に目を向けた。

「家ってのはな、建てて終わりじゃねえ。そこに住む人が何十年も暮らすんだ。子供が大きくなったり、家族が増えたり、いろんなことがある。その間ずっと、家はそこに立ってなきゃならねえ」

 隆は黙って聞いていた。

 全部を理解できたわけではない。

 けれど、祖父がいつになく長く話してくれたことが嬉しかった。

「じゃあ、じいちゃんは、みんなが安心できる家を作ってるんだね」

 源三は孫の頭を大きな手で撫でた。

「まあ、そういうことだ」

 その日から、隆にとって家は少し違って見えるようになった。

 自分が住んでいる家も、学校の近くに建つ新しい家も、誰かが考え、誰かが作ったものなのだ。

 そう思うと、町を歩くのが楽しくなった。

 やがて中学生になると、隆は建物の形や間取りに興味を持ち始めた。

 祖父の作業場で見せてもらった図面を真似して、ノートに自分なりの家を描くようになった。

 源三はそれを見ても、大げさには褒めなかった。

 ただ、ときどき「ここに窓があったら風が通るな」とか、「この部屋は日当たりがよさそうだ」とか、そんなことを教えてくれた。

 隆が建築科のある高校へ進みたいと言い出したときも、源三は反対しなかった。

「そうか。自分で決めたんなら、しっかり勉強しろ」

 それだけだった。

 けれど、合格を報告しに行った日、源三はいつもより少し機嫌がよさそうだった。

 母親があとで教えてくれた。

 隆が帰ったあと、祖父は近所の人に「うちの孫が建築を勉強するんだ」と、何度も話していたらしい。

 隆はそれを聞いて、照れくさくなった。

     *

 祖父が亡くなったのは、隆が高校一年生の冬だった。

 入学した頃はまだ元気だったが、秋を過ぎたあたりから体調を崩し、作業場に立つことも少なくなっていた。

 病室で会った祖父は、昔よりずっと小さく見えた。

 あんなに大きかった背中も、太かった腕も、少し細くなっていた。

 それでも、隆が学校の話をすると、源三は嬉しそうに聞いてくれた。

 製図の授業で初めて描いた図面を見せたときには、老眼鏡をかけてじっくり眺めていた。

「まだ線が甘えな」

 そう言われて、隆は思わず笑った。

「病院でも厳しいんだね」

「当たり前だ。図面は人に見せるもんだろ」

 源三はそう言ったあと、少しだけ笑った。

「でも、まあ……頑張ってるな」

 その言葉が、隆には何より嬉しかった。

 祖父が亡くなったあと、作業場はしばらくそのまま残された。

 壁に掛かった道具も、作業台も、使いかけの鉛筆も、最後に祖父が置いたときのままだった。

 隆は何度かそこへ足を運んだ。

 引き戸を開けると、まだ木の匂いがした。

 けれど、鉋の音も金槌の音も聞こえなかった。

 いつも祖父が座っていた椅子には、誰もいなかった。

 隆は作業台に手を置き、しばらく動けなかった。

 高校を卒業したら、祖父に自分の作業服姿を見せたかった。

 初めて現場に出ることも、報告したかった。

 そんなことを考えたが、もう叶わない。

 それでも隆は、建築の道を進むことを迷わなかった。

 祖父に言われたからではない。

 あの作業場で過ごした時間が、いつの間にか自分の進む道を決めていたのだ。

     *

「丸尾、どうした?」

 突然声をかけられ、隆は顔を上げた。

 目の前には佐伯が立っていた。

 昼休みの休憩スペースだった。

 水筒のお茶は、すっかりぬるくなっていた。

「いえ、ちょっと……昔のことを思い出してました」

 隆がそう答えると、佐伯は隣に腰を下ろした。

「初日だから疲れたか?」

「はい。思ってたより、ずっと大変です」

 正直に答えると、佐伯は声を上げて笑った。

「そりゃそうだ。学校で習ったことが、いきなり全部できるわけねえよ」

 隆は少し安心した。

 佐伯は缶コーヒーを一口飲んでから、隆の方を見た。

「でも、建築科を出たんだろ。何でこの仕事を選んだんだ?」

 隆は少し考えた。

 面接でも同じような質問をされたことがある。そのときは、建築に興味があったことや、学校で学んだ知識を生かしたかったことを答えた。

 けれど、今はもっと簡単に答えられる気がした。

「祖父が、大工だったんです」

「へえ、そうか」

「町の小さな大工で。子供の頃、よく作業場に遊びに行ってました」

 佐伯は黙って聞いていた。

「仕事してるときは怖い顔してるんですけど、僕にはすごく優しくて。鉋をかけたり、木を切ったりするのを見るのが好きだったんです」

 話しながら、隆は少し笑った。

「小さい頃は、夕方になるといつも寝ちゃって。帰るとき、じいちゃんがおんぶしてくれたんです」

 佐伯は穏やかな顔でうなずいた。

「いいじいさんだったんだな」

「はい」

 隆は迷わず答えた。

「二年前に亡くなったんですけど……今日、タバコの匂いを嗅いだら、急に思い出して」

 佐伯は喫煙所の方へ目を向けた。

「ああ、なるほどな」

 それから少し考えるようにして、隆に尋ねた。

「じいさんも吸ってたのか?」

「はい。仕事が終わると、いつも外で吸ってました」

「そうか。匂いってのは、不思議なもんだな」

 佐伯はそれ以上、祖父のことを聞かなかった。

 代わりに立ち上がり、空になった缶コーヒーを片付けながら言った。

「まあ、最初から一人前の奴なんかいねえ。今日はできなかったことを、明日一つ覚えりゃいいんだ」

 隆は顔を上げた。

「はい!」

「それに、じいさんが大工だったんなら、仕事の厳しさも少しは知ってるだろ」

「……はい。祖父は、仕事にはすごく厳しい人でした」

「なら、わかるな。現場じゃ、いい加減なことはできねえんだ」

 その言葉を聞いたとき、隆の胸に祖父の声が蘇った。

 大工がすごいんじゃねえ。

 あのときは、ただ祖父が格好よく見えていた。

 大きな手で木材を削り、何もないところから家を作っていく姿に憧れていた。

 けれど、今日初めて現場に立って、少しだけわかった気がした。

 ここで働く人たちは、ただ柱を立てたり、壁を作ったりしているわけではない。

 まだ顔も知らない誰かが、これから何十年も暮らしていく場所を作っている。

 だからこそ、祖父は小さな仕事にも手を抜かなかったのだろう。

 隆はゆっくり立ち上がった。

 初めての現場で、まだ何もできない。

 先輩に教えてもらわなければ、資材一つ満足に運べない。

 それでも、ここから始めればいい。

 いつか祖父のように、誰かが安心して暮らせる家を作れる人間になりたい。

 昼休みの終わりを告げる声が響いた。

 隆はヘルメットをかぶり直し、佐伯のあとについて現場へ戻った。

「丸尾、午後はあっちの資材を運ぶぞ。さっき教えた場所、覚えてるか?」

「はい。今度は間違えません!」

「よし、頼むぞ」

 隆は木材の束に近づき、一本を両手で持ち上げた。

 乾いた木の香りが、ふわりと鼻先をかすめた。

 その瞬間、幼い頃の作業場が目に浮かんだ。

 夕日に照らされた鉋屑。

 使い込まれた道具。

 そして、仕事を終えた祖父の大きな背中。

 あの頃、隆は何も考えずに、その背中に身を預けていた。

 どんなに眠くても、祖父が必ず家まで連れて帰ってくれた。

 今はもう、背負ってもらうことはできない。

 けれど、祖父の背中を追いかけることはできる。

 隆は木材を抱え直し、しっかりと前を向いた。

 初めての現場の午後が始まる。

 かつて祖父の背中で眠っていた少年は、今、自分の足で歩き始めていた。

 休憩所の方から、またかすかに紙巻きタバコの匂いが漂ってきた。

 隆はほんの少しだけ笑った。

 それは、幼い頃に何度も嗅いだ、祖父の背中の匂いだった。

(第五話 完)

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