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第四話 金木犀の帰り道

十月の夕方だった。

 仕事を終えた美咲は、駅前のスーパーで買い物を済ませ、いつもの道を歩いていた。

 日が暮れるのがずいぶん早くなった。ついこの間まで、同じ時間でも空はまだ明るかったのに、今では街灯がぽつぽつと灯り始めている。

 今年で二十四歳。社会人になって二年目の秋だった。

 会社ではまだ覚えることも多く、毎日が慌ただしい。帰宅して夕飯を作り、洗濯をして、気がつけばもう寝る時間。学生の頃は一日があんなに長かったのに、大人になるとどうしてこんなに短いのだろう。

 学生時代の友達とは、今でも時々連絡を取り合っている。ただ、会う約束をしても、誰かの仕事が忙しかったり、予定が合わなかったりで、なかなか実現しない。

 中学生の頃は、明日も明後日も、同じ顔ぶれで会えることが当たり前だった。

 あの頃は、そんな毎日がいつか終わるなんて考えもしなかった。

 そんなことを考えながら住宅街に入ったとき、ふわりと甘い香りが鼻先をかすめた。

 美咲は思わず足を止めた。

 金木犀だ。

 どこかの家の庭に咲いているのだろう。姿は見えないのに、秋の風が懐かしい香りだけを運んでくる。

 美咲はゆっくり息を吸い込んだ。

 花の名前を意識するより先に、胸の奥で何かが動いた気がした。ずっと開けていなかった引き出しが、突然開いたような感覚だった。

 夕日に染まる通学路。肩に食い込む重たい学生鞄。遠くから聞こえる自転車のベル。

 そして、隣を歩いていた男の子の笑い声。

「あ……」

 思わず漏れた声は、夕暮れの住宅街に小さく消えた。

 中学二年生の秋。

 あの頃も、こんな香りがしていた。

     *

 美咲が所属していたのは、中学校の美術部だった。

 運動部のように大会を目指して厳しい練習をするわけでもなく、放課後の美術室で絵を描いたり、文化祭に向けて作品を作ったりする、のんびりした部活だった。

 美術室は校舎の三階の端にあった。

 窓際には描きかけの静物画が並び、棚には使い古した絵の具や筆がぎっしり詰まっていた。流し台には誰が落としたのかわからない絵の具の染みが残り、窓を開けると校庭から運動部の掛け声が聞こえてきた。

 秋の夕方になると、西日が美術室の奥まで差し込んだ。その光の中で絵を描いていると、何となく一日が終わっていくのが惜しいような気持ちになった。

 美咲は絵を描くことが好きだった。特別上手いというわけではなかったが、好きな色を選んで、少しずつ絵が出来上がっていく時間が楽しかった。

 同じ部活の健太は、そんな美咲とは少し違っていた。

 健太は美術部の男子の中でも、特別絵が上手いわけではなかった。本人に言わせると、運動部に入るほど体力に自信がなく、かといって帰宅部もつまらなそうだったから、美術部を選んだらしい。

「それ、絶対に美術部に入った理由としておかしいよね」

 美咲がそう言うと、健太は悪びれる様子もなく、「でも、入ってみたら結構楽しいじゃん」と笑った。

 絵を描くことが楽しいのかと聞けば、返ってきたのは「いや、みんなとしゃべるのが」という答えだった。

「ちゃんと絵も描きなよ。今日だって、ほとんどしゃべってたじゃない」

「描いてるだろ。ほら、リンゴ」

 得意げに差し出されたスケッチブックを見て、美咲は思わず首をかしげた。

「……これ、トマトじゃないの?」

「ひどくない? ちゃんとリンゴのつもりで描いたんだけど」

「だったら、もうちょっとリンゴらしく描かないと」

 健太は不服そうに絵を眺め、しばらくしてから「まあ、トマトでもいいか」と呟いた。隣で聞いていた由香が吹き出し、美咲もつられて笑った。

 別の日には、校舎を描いた健太の絵に窓が一つしかなく、美咲が指摘すると、「美術は自由なんだ」と堂々と言い切ったこともあった。

 そんな調子で、美術室にはいつも笑い声があった。

 部員は十数人。そのうち帰る方向が同じ五人ほどが、いつも一緒に下校していた。

 校門を出る頃には、話題はたいてい宿題や給食のことになっていた。

 数学の宿題が何ページだったかを誰かが尋ねれば、別の誰かが「また聞いてる」と呆れ、聞き逃した本人は「先生の声が小さかったんだ」と言い訳をする。

 そこへ健太が「俺はちゃんと聞いてたぞ」と得意げに口を挟むのだが、肝心のページ数を聞かれると答えられない。

「聞いてたんじゃないの?」と美咲が笑うと、健太は「聞いてたけど覚えてないだけ」と平然と言った。

 昨日のテレビ番組の話が始まったかと思えば、いつの間にか次の日の給食の献立の話になっている。五人で歩く帰り道は、いつもそんなふうに賑やかだった。

 学校を出て十分ほど歩くと、最初の交差点で一人が別れる。

「じゃあ、また明日ね!」

 手を振る友達を見送って、残った四人はまた歩き出す。さらに五分ほど進むと、もう一人が細い路地へ曲がっていく。

 そして商店街の角でもう一人が別れると、最後に残るのは美咲と健太だった。

 家が近いわけではない。ただ、途中まで帰る道が同じだった。

 最初の頃は、二人になると少しだけ会話が途切れた。

 大勢でいるときは何でも話せるのに、二人きりになると何を話していいのかわからなくなる。

 美咲はそんな沈黙が少し苦手だった。

 別に健太が嫌いなわけではない。むしろ、話していると楽しい相手だった。それなのに、二人だけになると急に足音が気になったり、すれ違う自転車に目を向けたりしてしまう。

 そんなとき、先に話しかけてくるのはいつも健太だった。

 ある日のこと、健太は給食に出た魚の骨が多すぎたと、ずいぶん真剣な顔で訴えてきた。

「美咲は平気だった? 俺、食べ終わるまでに何回も骨が刺さりそうになったんだけど」

「健太が魚食べるの下手なんじゃない?」

「いや、あれは魚の方に問題がある。だから俺、将来は骨のない魚を発明しようと思う」

 あまりにも真面目に言うので、美咲は一瞬考えてから、「それって、ただの切り身じゃない?」と答えた。

 健太は口を開けたまま固まり、やがて二人で声を上げて笑った。

 それからは、不思議と二人だけになっても話が途切れなくなった。

 学校のこと、先生のこと、テレビのこと。健太がくだらない冗談を言い、美咲が呆れながら突っ込む。

 そうして歩いているうちに、気がつけば別れ道まで来てしまう。

 そこには古い木造の家があり、庭の塀から大きな金木犀の枝が道路へ張り出していた。

 秋になると小さな橙色の花がびっしりと咲き、辺り一面が甘い香りに包まれた。

「この匂い、すごいよね」

 美咲が枝を見上げると、健太も立ち止まった。

「金木犀だろ?」

「知ってるんだ。健太って、花の名前とか興味なさそうだから」

 すると健太は、少し大げさに胸を張った。

「失礼だな。俺だって美術部員だぞ」

「リンゴをトマトみたいに描く美術部員ね」

「まだ言うか」

 二人はまた笑い合った。

 そこで二人は別れる。

「じゃあ、また明日」

「うん、また明日」

 美咲は角を曲がり、少し歩いてから何となく振り返った。

 健太はもう反対側の道を歩いていた。

 その後ろ姿を見ながら、美咲はふと思った。

 明日は、何の話をしようかな。

     *

 秋が深まるにつれて、美咲は放課後が待ち遠しくなった。

 もちろん美術部の活動も楽しかった。友達と一緒に帰る時間も好きだった。

 でも、最後に健太と二人きりになるあの道が、いつの間にか一日の中で一番楽しみな時間になっていた。

 それに気づいたのは、ある雨の日だった。

 朝から降り続いた雨は、放課後になってもやまなかった。

 部活が終わると、みんな傘を広げて校門を出た。いつもより歩く速度が遅く、道には水たまりがいくつもできていた。

 健太の傘は、黒い骨の一本が妙な方向に曲がっていた。

「その傘、壊れてない?」

 美咲が尋ねると、健太は傘を見上げ、「ちょっとだけ」と答えた。

 どう見てもちょっとではない。右側だけ大きく傾いていて、肩がすっかり濡れている。

「そっちから雨入ってるよ。新しいの買ってもらえば?」

「大丈夫。右肩だけ濡れる仕組みだから」

「何その仕組み。全然便利じゃないじゃん」

 健太は笑い、美咲も笑った。

 けれど、その日は途中から雨が強くなり、いつもの金木犀の角に着く頃には、二人とも早く帰ることばかり考えていた。

 ほとんど立ち止まらず、「じゃあ、また明日!」と声をかけ合って別れた。

 家に帰って濡れた靴下を脱ぎながら、美咲は何となく物足りなさを感じた。

 今日は、あまり話せなかったな。

 そう思った自分に、少し驚いた。

 翌日はきれいに晴れた。

 放課後、部活が終わるのを待ちながら、美咲は窓の外を何度も見た。

 帰り道が楽しみだなんて、少し変だ。

 でも、昨日話せなかった分まで、今日はたくさん話したいと思った。

 そんな気持ちを、友達の由香はとっくに見抜いていたらしい。

 文化祭のポスターを描いていたある日、隣で絵筆を洗っていた由香が、何気ない調子で「美咲って、健太とよくしゃべるよね」と言った。

「そう? だって、健太って変なことばっかり言うんだもん」

 美咲が何でもないように答えると、由香は「ふうん」と意味ありげに笑った。

 その笑い方が気になって問い詰めても、由香は「別にぃ」と言うばかりだった。

「美咲って、わかりやすいなあと思って」

 最後にそう言われて、美咲は返す言葉を失った。

 別に好きとか、そういうことではない。

 ただ、一緒に帰るのが楽しいだけ。

 そう思おうとしたのに、その日の帰り道、健太が隣に並んだだけで妙に意識してしまった。

 いつものように友達が一人ずつ別れていき、最後に二人きりになったところで、健太が不思議そうに顔を覗き込んできた。

「どうした? 今日、静かじゃん。何か怒ってる?」

「怒ってないよ。別に普通だけど」

 美咲がそっぽを向くと、健太は少し考えてから「じゃあ腹減ってる?」と聞いてきた。

「なんでそうなるの」

「俺、腹減ると無口になるから」

「健太はお腹減っててもしゃべるでしょ」

 言われてみればそうだな、と健太が納得したので、結局いつものように笑ってしまった。

 金木犀の角まで来ると、健太がふと立ち止まった。

「そういえばさ、美咲って、甘い匂い好きなの?」

 突然の質問に少し驚いたが、美咲は塀の向こうに咲く花を見上げながら答えた。

「うん。金木犀の匂い、好きだよ」

「そっか。じゃあ、秋が一番好き?」

「どうだろう。でも、この道は好きかな」

 言ってから、美咲は少し後悔した。

 この道が好きだなんて、何だか変な意味に聞こえなかっただろうか。

 健太は一瞬だけ黙ったあと、照れたように笑った。

「俺も、この道好きだよ」

 美咲は顔が熱くなるのを感じた。

 何と答えればいいかわからず、足元に落ちていた小さな橙色の花を見つめた。

 金木犀の花は、思っていたよりずっと小さかった。

 こんなに小さな花なのに、どうしてこんなに遠くまで香るのだろう。

 美咲がしゃがんで花を一つ拾うと、健太も隣から覗き込んできた。

「持って帰るの?」

「ううん。小さすぎて、なくしちゃいそう」

 美咲は花をそっと地面に戻した。

 すると健太は、当たり前のことのように言った。

「じゃあ、来年また見ればいいじゃん」

「そうだね」

 来年も、この道を一緒に帰る。

 そのときの美咲には、それが当たり前のことに思えた。

 別れ際、いつもの「また明日」を交わして歩き出したあとも、美咲の胸には健太の言葉が残っていた。

 俺も、この道好きだよ。

 たったそれだけの言葉なのに、思い出すたびに胸の奥がくすぐったくなった。

     *

 それからしばらくして、健太が転校することになった。

 父親の仕事の都合で、遠くの町へ引っ越すのだという。

 その話を聞いたとき、美咲は最初、冗談だと思った。

 部活の終わりに健太が何気なく話し始めたので、誰かが「また冗談だろ」と笑った。けれど、健太はいつもの調子で「いや、今度は本当」と答えた。

「え、いつ?」

 美咲が思わず聞くと、健太は「来月の頭」と言った。

 あまりに急な話だった。どうしてもっと早く教えてくれなかったのかと聞きたかったが、健太自身もつい最近聞かされたのだという。

「まあ、引っ越したって日本国内だしな」

 健太はそう言って笑った。

 いつもの冗談の続きみたいな笑い方だった。

 けれど、美咲は笑えなかった。

 今なら連絡先を交換して、いつでもメッセージを送ればいいと思うだろう。

 けれど、あの頃の二人にとって、遠くへ引っ越すというのは、簡単には会えなくなるということだった。

 転校が決まってからも、健太はいつもと変わらなかった。

 美術室では相変わらず冗談を言い、帰り道では友達と笑っていた。

 美咲も、なるべく普段どおりにしていた。

 けれど、カレンダーを見るたびに、残された日が少なくなっていくのがわかった。

 あと一週間。

 あと五日。

 あと三日。

 そんなふうに数えてしまう自分が嫌だった。

 ある日の帰り道、健太は引っ越した先においしいラーメン屋があるといいな、と言い出した。

 美咲は呆れた。

「知らない町に行くのに、最初に気になるのが食べ物なの?」

「だって、うまい店があったら嬉しいだろ。美咲は何が気になる?」

 美咲は少し考えた。

 本当は、向こうで新しい友達ができるのか、いつか自分のことを忘れてしまうのか、そんなことが気になっていた。

 でも、口に出せなかった。

「……新しい学校でも、ちゃんと絵を描くのかなって」

 すると健太は、意外そうな顔をした。

「何だよ、それ。俺が絵を描くのやめたら寂しいの?」

「だって、せっかく同じ美術部だったんだから。絵を描くの嫌いになったら、ちょっと寂しいじゃん」

 健太はしばらく黙っていたが、やがて笑った。

「じゃあ、たまには描くよ。リンゴとか」

「またトマトになるんでしょ」

「今度こそリンゴに見えるように描く」

 美咲は笑った。

 でも、家に帰ってから、その会話を思い出して少し泣いた。

 美咲は健太に何か言いたかった。

 寂しいとか、行かないでほしいとか、もっと一緒に帰りたかったとか。

 でも、どれも口に出せなかった。

 転校前、最後の部活動の日。

 いつもの五人で校門を出た。

 みんな健太に「元気でね」とか「手紙書けよ」とか、そんな言葉をかけていた。

 健太はそのたびに「わかった、わかった」と笑っていた。

 最初の交差点で一人が別れ、次の路地でもう一人が別れた。

 商店街の角では、由香が美咲の顔をちらりと見た。

「じゃあね、健太。元気で」

「おう。由香もな」

 由香は美咲に向かって、いつもより少し優しい声で「また明日ね」と言った。

 美咲がうなずくと、由香はそれ以上何も言わず、角を曲がっていった。

 二人きりになった。

 いつもの帰り道だった。

 いつもと同じ道を歩いているのに、今日は妙に短く感じた。

 美咲は歩く速度を少し落とした。

 健太も、それに合わせるようにゆっくり歩いた。

 道端には枯れ葉が落ち始めていた。遠くから小学生の笑い声が聞こえてくる。

 いつもと同じ町の音が、今日はなぜか胸にしみた。

「……明日から、寂しくなるね」

 美咲がようやく言うと、健太は少し驚いたような顔をした。

「美咲でも、そういうこと言うんだ。いつも俺のことバカにしてるのに」

「バカにしてないよ」

「リンゴをトマトって言ったくせに」

「まだ覚えてるの?」

「覚えてるよ」

 健太は笑った。

 美咲も笑った。

 けれど、笑い声はすぐに途切れた。

 やがて、金木犀のある角に着いた。

 花はもう盛りを過ぎていたけれど、塀の向こうからはまだ甘い香りが漂っていた。

 いつもなら「また明日」と言って別れる場所。

 でも、今日はもう、その言葉が使えない。

 健太はしばらく金木犀を見上げていた。

 美咲も隣で、同じ木を見上げた。

 枝の間から見える空は、夕焼けで淡い橙色に染まっていた。

 何か話さなければと思うのに、言葉が出てこない。

 このまま別れてしまったら、きっと後悔する。

 そう思いながらも、美咲は自分から何かを言い出すことができなかった。

 すると、健太が何かを決心したように美咲の方を向いた。

「なあ、美咲。もしよかったらさ……」

 そこで一度、言葉が途切れた。

 健太がこんなふうに言いよどむのは珍しかった。

「十年後、ここで会わない?」

 美咲は驚いて健太を見た。

「……十年後?」

「うん。十年後の、今日」

 なぜ十年後なのかと尋ねると、健太は少し困ったように笑った。

「何となく。大人になってるだろ、俺たち。そのとき、またここで会えたら面白いかなって」

 いつもの冗談みたいに聞こえたけれど、健太の声は少しだけ震えていた。

 美咲は胸がいっぱいになった。

 本当は、すぐに「うん」と言いたかった。

 十年後でも、二十年後でも、会いたいと思った。

 けれど、中学二年生の美咲には、そんな素直な返事ができなかった。

「……覚えてたらね」

 わざとそっけなく言った。

 健太は少しだけ笑った。

「そっか。じゃあ、覚えててよ」

「健太こそ忘れないでよ」

「俺は覚えてる」

 その言葉が、妙にはっきりと聞こえた。

 しばらく二人とも黙っていた。

 風が吹き、金木犀の小さな花が二人の足元に落ちた。

 美咲は、あのとき拾った小さな花のことを思い出した。

 来年また見ればいい。

 健太はそう言った。

 けれど、来年の秋、この道に健太はいない。

 そのことが、ようやく本当のこととして胸に迫ってきた。

「じゃあ……元気でね」

 美咲が言うと、健太はうなずいた。

「美咲もな」

 そして、いつものように手を振った。

 美咲も手を振り返した。

 角を曲がるまで、泣かないと決めていた。

 けれど、曲がって数歩歩いたところで、涙がこぼれた。

 振り返れば、まだ健太がいるかもしれない。

 そう思ったけれど、美咲は振り返らなかった。

 金木犀の香りだけが、いつまでも後ろから追いかけてきた。

     *

 それから十年が過ぎた。

 高校へ進み、大学へ行き、就職した。

 新しい友達ができ、恋もした。うまくいったこともあれば、そうでなかったこともある。

 高校時代には、部活帰りに友達と寄り道をしたこともあった。大学では一人暮らしを始め、初めて自分で夕飯を作った夜には、母親のありがたさをしみじみ感じた。

 就職してからは、慣れない仕事に戸惑う日も多かった。

 忙しい毎日の中で、中学時代の記憶は少しずつ遠くなっていった。

 健太のことを忘れたわけではない。

 ただ、思い出す機会がなくなっていた。

 あの帰り道も、金木犀の木も、十年後の約束も。

 すべてが、懐かしい思い出の奥にしまわれていた。

 そして今。

 住宅街を歩いていた美咲は、金木犀の香りの中で立ち尽くしていた。

「……十年後の、今日」

 小さく呟いた。

 慌ててスマートフォンのカレンダーを開く。

 日付を確認して、美咲は目を見開いた。

「えっ……明日?」

 健太と最後に帰った日。

 あの約束から、ちょうど十年になるのが明日だった。

 偶然にしては、出来すぎている。

 美咲はしばらくスマートフォンを見つめていた。

 十年前、健太は確かに言った。

『俺は覚えてる』

 でも、十年も前の約束だ。

 中学生の頃の、ほんの思いつきだったのかもしれない。

 きっと健太だって忘れている。

 そもそも今、どこで何をしているのかも知らない。

「……覚えてるわけないよね」

 美咲は自分に言い聞かせるように呟いた。

 家に帰ってからも、落ち着かなかった。

 夕飯を作りながら、ふと健太のことを考えた。

 あの頃、健太は何でも笑いに変えてしまう男の子だった。

 今も、そうなのだろうか。

 社会人になっているのだろうか。それとも、まだ学生なのだろうか。

 恋人がいるかもしれない。

 結婚している可能性だって、ないとは言えない。

 そこまで考えて、美咲は自分がおかしくなった。

「何考えてるんだろ、私」

 十年も会っていない相手なのに。

 夕飯を食べ終えても、テレビの内容はほとんど頭に入らなかった。スマートフォンを手に取っては置き、何かを調べようとして、何を調べるつもりだったのかもわからなくなる。

 十年という時間は長い。

 十四歳の自分と今の自分では、考え方も生活もずいぶん違う。あの頃は、二十四歳なんて立派な大人だと思っていた。

 けれど実際に二十四歳になってみると、わからないことばかりだった。

 中学生の頃より少しだけ上手に笑えるようになったし、言いたいことを我慢することも覚えた。

 それでも、十年前の男の子に会いに行くかどうかで、こんなに悩んでいる。

 そのことが、少し可笑しかった。

 布団に入って目を閉じると、夕日に染まった帰り道が浮かんでくる。

 健太の笑い声。

 リンゴをトマトと言ってからかったこと。

 骨のない魚を発明すると言っていたこと。

 そして、あの金木犀の前で交わした約束。

 十年後の健太は、どんな大人になっているのだろう。

 背は伸びただろうか。

 相変わらず、くだらない冗談を言っているのだろうか。

 美咲は寝返りを打った。

「……ちょっと見に行くだけなら、いいよね」

 誰に言うでもなく呟いた。

     *

 翌日の夕方、美咲は久しぶりに中学校の近くを歩いていた。

 仕事は休みだった。

 朝から何度も行くのをやめようと思った。

 十年も前の約束を真に受けて、一人で待っていたらどうするのだろう。

 誰も来なかったら、きっと恥ずかしい。

 でも、行かなかったら、もっと後悔する気がした。

 服を選ぶのにも、いつもより時間がかかった。

 別に誰かに会うと決まったわけではないのに、鏡の前で何度も上着を替えた。

 結局、いつも着ている淡い色のニットに、落ち着いた色のスカートを合わせた。

 化粧も少しだけ丁寧にした。

 そんな自分が、何だか中学生に戻ったみたいで可笑しかった。

 久しぶりの通学路は、記憶と少し違っていた。

 昔あった文房具屋はなくなり、空き地には新しい家が建っていた。商店街の店も、いくつかはシャッターを下ろしている。

 けれど、道の形は変わっていなかった。

 あの交差点。

 友達が一人ずつ別れていった路地。

 由香が最後に手を振った商店街の角。

 美咲はゆっくり歩いた。

 中学生の頃は、毎日この道を歩いていた。

 友達と笑いながら歩いた日もあれば、テストの点数が悪くて落ち込んだ日もあった。

 雨の日には傘を差し、夏には暑い暑いと言いながら歩いた。

 あの頃は、ただの帰り道だった。

 それなのに、十年経った今では、道の一つ一つに思い出が詰まっているように感じられた。

 商店街の角を過ぎると、周囲は急に静かになった。

 昔もそうだった。

 ここから先は、いつも二人だけだった。

 美咲は思わず歩幅を緩めた。

 今にも隣から「どうした? 今日、静かじゃん」と声をかけられそうな気がした。

 そして、懐かしい香りが漂ってきた。

 金木犀だ。

 あの家は、まだあった。

 古い木造の家は少し手入れされていたけれど、塀の向こうには大きな金木犀の木が立っていた。

 橙色の小さな花が、十年前と同じように咲いている。

「……変わってない」

 美咲は思わず微笑んだ。

 この木だけは、十年前のままそこに立っていた。

 毎年、同じ季節に花を咲かせ、同じ香りを町に漂わせていたのだろう。

 自分が忘れていた十年間も、ずっと。

 美咲は少しだけ胸が熱くなった。

 そして、角の向こうに目を向けた。

 そこに、一人の男性が立っていた。

 背が高く、落ち着いた雰囲気の青年だった。

 紺色のジャケットに、白いシャツ。片手をポケットに入れ、時折、金木犀の木を見上げている。

 美咲は足を止めた。

 見覚えがあるような、ないような。

 十年という時間は、中学生の男の子をすっかり大人に変えてしまう。

 でも。

 あの横顔。

 少しだけ首を傾けて木を見上げる仕草。

 そして、何かを思い出しているような表情。

「……健太?」

 声にはならなかった。

 どうしよう。

 本当に健太なのだろうか。

 もし違う人だったら。

 もし健太でも、もう自分のことを覚えていなかったら。

 美咲は少し離れた場所で立ち尽くしていた。

 心臓の音が、妙にはっきりと聞こえた。

 中学生の頃、健太と二人きりになると、こんなふうに緊張したことがあった。

 あれから十年も経ったのに、何も変わっていないような気がした。

 そのとき、男性がこちらを向いた。

 一瞬、目が合った。

 彼は驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと笑った。

 その笑顔を見た瞬間、美咲にはわかった。

 健太だ。

 十年前と同じ笑顔だった。

 健太は少し照れたように笑いながら、美咲の方へ歩いてきた。

「美咲?」

 名前を呼ばれた瞬間、十年という時間が一気に縮まったような気がした。

 美咲は小さくうなずいた。

「……うん」

 思っていたよりも、ずっと小さな声だった。

 健太は嬉しそうに笑った。

「来てくれたんだね。覚えててくれて、ありがとう」

 美咲は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 十年前の約束。

 忘れてしまっていた自分。

 それでも、こうして目の前に立っている健太。

 何を言えばいいのかわからなかった。

 嬉しいとも、懐かしいとも、会いたかったとも言えず、美咲はただ、あの頃と同じように少しだけ照れた。

 そして、金木犀の香りが漂う中で、笑いながら答えた。

「……昨日、金木犀が思い出させてくれたの」

(第四話 完)

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