第三話 米屋の自販機
第3話です。
五十を過ぎると、コンビニエンスストアというものは、ずいぶん便利になったものだと感心することがある。
弁当やおにぎりはもちろん、日用品から文房具まで、たいていのものが揃っている。夜遅くまで働いて帰ってきても、温かい食べ物が買えるし、淹れたてのコーヒーまで飲める。
もっとも、最近の私は、コンビニに寄っても決まったものしか買わなくなっていた。
朝のコーヒー、昼食用のおにぎり、たまに週刊誌。飲み物の棚に並ぶ新商品にも、ほとんど目を向けない。
その日も、いつものように仕事帰りに立ち寄り、ペットボトルのお茶を買おうとしていた。
ところが、冷蔵ケースの一角に、見覚えのある黄色い缶を見つけた。
「……おいおい、懐かしいな」
思わず声が出た。
メローイエロー。
鮮やかな黄色に、緑色の文字。
もう何十年も飲んでいなかった、あの炭酸飲料だった。
缶には復刻販売を知らせる文字が書かれている。
「まだあったんだなあ」
私は一本手に取った。
子供の頃には、もっと丸っこい瓶に入っていた記憶がある。確か、ダルマ瓶と呼んでいたはずだ。
ずんぐりとした形のガラス瓶。冷蔵庫から出したばかりの瓶には水滴がつき、手に持つとひんやりと重かった。
あの頃は、自動販売機で瓶入りのジュースを買うことも珍しくなかった。
私は懐かしさに負けて、黄色い缶を買い物かごに入れた。
帰宅して夕食を済ませ、居間のテレビを何となく眺めていたが、ふと思い出して冷蔵庫からメローイエローを取り出した。
プシュッ。
缶を開けると、小さな炭酸の音がした。
ひと口飲んだ。
甘い。
柑橘系の爽やかな味が舌に広がり、細かな炭酸が喉を刺激する。
そして、飲み込んだあとに、独特の香りが鼻の奥へ抜けていった。
「……あれ?」
私は缶を見つめた。
もうひと口飲む。
甘さの奥にある、少し青いような、懐かしい香り。
「この香りは……」
その瞬間、頭の中に一軒の小さな米屋が浮かんだ。
店先に積まれた米袋。
夕暮れの路地。
そして、暗くなった道をぼんやりと照らす、自動販売機の明かり。
遠くで自転車のベルが鳴った。
私はいつの間にか、あの頃の町に立っていた。
昭和五十年代の終わり頃。
「ごちそうさま!」
夕飯を食べ終えた私は、茶碗を流しへ運ぶと、自分の部屋へ向かおうとした。
「ちょっと、あんた。もう部屋に行くの?」
台所から母の声がした。
「うん」
「たまには食器くらい拭いてくれたっていいじゃない」
「えー、明日やるよ」
「昨日もそう言ってたでしょう!」
私は聞こえないふりをして財布を取りに行った。
中学生になってから、夕食後にはちょっとした楽しみができていた。
家のすぐそばにある米屋の自動販売機で、ジュースを一本買うことだ。
米屋は昔からある小さな店で、昼間は店先に米袋が並び、奥では店のおじさんが配達の準備をしていた。
私の家からは歩いて一分もかからない。
店が閉まったあとも、自動販売機だけは夜の路地を明るく照らしていた。
夕食を済ませた私は、小銭を握りしめて家を出た。
夏ならば、まだ空に夕焼けが残っている時間だった。
近所の家からはテレビの音が聞こえ、どこかで風呂を沸かしているのか、煙突から細い煙が上がっていた。
自販機の前に立つ。
コーラ、ファンタ、スプライト。いろいろな飲み物が並んでいたが、私がよく選ぶのはメローイエローだった。
小銭を入れてボタンを押す。
ゴトン。
取り出し口に落ちてきた瓶を引っ張り出す。
丸みを帯びたガラス瓶は、手のひらにずっしりと重かった。
冷たい瓶を頬に当てると、何とも気持ちがいい。
私はそれを持って家へ戻った。
「またジュース買ってきたの?」
母が呆れたように言った。
「うん」
「毎日毎日、よく飽きないわねえ」
「別にいいじゃん。自分の小遣いだし」
「そういう問題じゃないでしょう。虫歯になるわよ」
「ちゃんと歯磨くって!」
母はため息をつきながらも、それ以上は何も言わなかった。
私は瓶を持って二階の自分の部屋へ上がった。
六畳ほどの部屋には、勉強机と本棚、それに小さなテレビがあった。
机の上には教科書やノートが積まれていたが、その隣には漫画の単行本が何冊も並んでいた。
私は椅子に腰を下ろすと、買ってきたメローイエローの栓を開けた。
シュポン、と小気味よい音がした。
ひと口飲む。
甘く爽やかな香りが鼻へ抜けていく。
「うまい!」
そして、本棚から漫画を一冊取り出した。
当時の私は、漫画を読むことが何より好きだった。
学校から帰れば漫画。夕食を済ませても漫画。新刊が出れば小遣いを握って本屋へ走り、買ってきた本を何度も読み返した。
お気に入りの場面は台詞まで覚えてしまうほどだった。
野球漫画を読めば、自分も甲子園に出られるような気がしたし、冒険漫画を読めば、見たこともない世界へ旅に出た気分になった。
気がつけば、メローイエローの瓶は空になっている。
それでも漫画を読む手は止まらなかった。
「いつまで起きてるの!」
階段の下から母の声が聞こえる。
「もう寝るよ!」
そう返事をしながら、あと一冊だけ、と次の漫画に手を伸ばす。
そんな夜が何度あっただろう。
そして、いつの間にか私は高校生になっていた。
制服は学生服のままだったが、教科書は分厚くなり、帰宅する時間も少し遅くなった。
それでも、夕食後の習慣は変わらなかった。
ご飯を食べ終える。
財布から小銭を取り出す。
米屋の自販機へ向かう。
メローイエローを一本買う。
ただ、それを持って戻る部屋の中は、少しずつ変わっていた。
漫画ばかりだった本棚に、小説が並ぶようになったのだ。
きっかけが何だったのかは、今ではよく覚えていない。
友達に勧められたのか、本屋で何となく手に取ったのか。
ただ、赤川次郎の小説を初めて読んだときの面白さだけは、今でも覚えている。
読みやすい文章に、次々と起こる事件。どこかユーモラスな登場人物たち。
気軽に読み始めたはずなのに、いつの間にか物語の中へ引き込まれていた。
犯人は誰なのか。
あの台詞にはどんな意味があったのか。
次のページをめくれば答えがわかるかもしれない。
そう思うと、途中でやめることができなかった。
ある夏の夜だった。
私はいつものように米屋の自販機でメローイエローを買い、部屋へ戻った。
机の上には、学校帰りに買ってきた赤川次郎の文庫本が置いてあった。
夕食前に少しだけ読んでいたが、ちょうど事件が大きく動き始めたところだった。
「さて、続き続き」
私は瓶の栓を開け、ひと口飲んでから本を開いた。
窓の外では虫が鳴いていた。
扇風機が首を振るたび、机の上のプリントがひらひらと揺れる。
ときどき瓶に手を伸ばしながら、私は夢中でページをめくった。
十ページ、二十ページ。
物語が進むにつれて、ますます先が気になる。
ふと時計を見ると、午後十時を過ぎていた。
「あと一章だけ読もう」
そう思って読み進めた。
ところが、その一章が終わる頃には、また新しい展開が待っていた。
「何だよ、そう来るか!」
思わず声が出た。
もう少し。
ここまで来たら、犯人がわかるところまで。
そんなことを考えていると、階段を上がってくる足音が聞こえた。
「まだ起きてるの?」
母だった。
「うん、もうちょっと」
「明日も学校でしょう。早く寝なさいよ」
「わかってるって!」
「何をそんなに夢中になって読んでるの?」
「小説」
「勉強の本?」
「違うよ」
「だったら、明日読めばいいじゃない」
「今いいところなんだよ!」
母は呆れたように笑った。
「まったく。漫画ばっかり読んでたと思ったら、今度は小説なのね」
「本読むのはいいことだろ?」
「そりゃそうだけど、寝不足になるまで読まなくたっていいでしょう」
母はそう言って、階段を下りていった。
私は本を閉じようとした。
けれど、あと数ページで犯人がわかりそうだった。
「……あとちょっとだけ」
再び本を開いた。
そして、最後のページを読み終えたときには、時計の針は午前一時を回っていた。
「うわっ、やべえ!」
慌てて明かりを消し、布団に潜り込んだ。
それでも、頭の中では小説の登場人物たちが動き回っていた。
あの伏線はそういう意味だったのか。
あそこで気づけばよかった。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠っていた。
翌朝、母に何度も起こされたのは言うまでもない。
「ほら! だから早く寝なさいって言ったでしょう!」
「……あと五分」
「五分じゃない! 遅刻するわよ!」
布団を引っ張られながら、私は心の中で思っていた。
今夜は絶対に早く寝よう。
もっとも、その日の帰り道には、また本屋へ寄って新しい文庫本を探していたのだから、まったく懲りていなかった。
そうして高校三年間が過ぎていった。
米屋の自販機は、いつもそこにあった。
雨の日も、風の強い日も、雪がちらつく冬の夜も。
私は夕食を済ませると、いつものようにジュースを買いに行った。
自販機の明かりを見ながら、明日の学校のことを考えたり、友達との会話を思い出したり、時には何も考えずにぼんやりしていた。
あの頃の私にとって、それは特別な時間ではなかった。
毎日繰り返される、ごく普通の習慣だった。
けれど、今思えば、あの自販機の前に立っていた数分間も、私の青春の一部だったのだ。
「……そうだったなあ」
私は小さく呟いた。
目の前には、飲みかけのメローイエローの缶があった。
いつの間にか、テレビでは別の番組が始まっている。
私はもう一度、缶に口をつけた。
甘い柑橘の香りが鼻へ抜けていった。
懐かしい味だった。
あの米屋は、もうない。
何年か前に帰省したとき、店が閉まっているのを見かけた。店先の自販機も撤去され、米袋が積まれていた場所には、別の建物が建っていた。
町は少しずつ姿を変えていく。
自分自身も同じだ。
学生服を着ていた少年は、いつの間にか五十を過ぎ、毎朝ネクタイを締めて会社へ通うようになった。
あの頃は、五十歳なんてずいぶん遠い未来のことだと思っていた。
それが今では、昔の自分を思い出して笑っている。
私は空になった缶をテーブルに置いた。
「そういや、あの本、まだあったかな」
ふと思い立ち、書斎代わりに使っている部屋へ向かった。
壁際には大きな本棚が並んでいる。
漫画、小説、雑誌、文庫本。昔から本を捨てられない性分で、気づけば部屋のあちこちに本が積み上がっていた。
最近では買ったまま読んでいない本も増えている。
私は本棚の前にしゃがみ込んだ。
「確か、この辺だったよな……」
古い文庫本が並ぶ一角を探す。
背表紙は日に焼け、ところどころ色が薄くなっていた。
その中に、懐かしい名前を見つけた。
赤川次郎。
「あった、あった!」
私は一冊の文庫本を取り出した。
表紙には少し傷があり、ページの端も茶色く変色している。
いつ買ったものだっただろう。
高校生の頃だったか、それとも卒業してからだったか。
表紙を開くと、古い紙の匂いがした。
何とも懐かしい匂いだった。
私は本を持って居間へ戻った。
時計を見ると、午後九時半。
まだ寝るには少し早い。
「ちょっとだけ読んでみるか」
ソファに腰を下ろし、最初のページを開いた。
懐かしい登場人物の名前。
見覚えのある書き出し。
何十年も前に読んだはずなのに、細かな内容はすっかり忘れていた。
「へえ、こんな始まりだったっけ」
私はページをめくった。
文章を追っていくうちに、次第に物語の世界へ引き込まれていった。
そうそう、この人物が出てくるんだった。
あれ、この人はどうなるんだっけ。
犯人は確か……いや、違ったかな。
記憶が曖昧なおかげで、昔読んだ小説なのに、まるで初めて読むような面白さがあった。
私は夢中で読み進めた。
途中でお茶を淹れようと思ったが、ちょうど話が面白くなってきたので、そのまま読み続けた。
時計を見る。
午後十一時。
「おっと、もうこんな時間か」
そろそろ寝なければ。
明日も仕事がある。
そう思いながら、もう一ページめくった。
事件は思いがけない方向へ進んでいた。
「……あと一章だけ」
口に出してから、私は思わず笑った。
どこかで聞いたことのある台詞だった。
そうだ。
高校生の頃も、いつもこう言っていた。
私はもう一度時計を見た。
まだ大丈夫。
あと少しなら。
そして再び、本の世界へ戻っていった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
最後のページを読み終え、パタンと本を閉じた。
「いやあ、面白かった!」
久しぶりに、夢中で小説を読んだ気がした。
私は満足しながら大きく伸びをした。
そして、何気なく壁の時計を見上げた。
午前二時十五分。
「……えっ?」
思わず時計を二度見した。
「うわっ! もうこんな時間かよ!」
慌てて立ち上がり、テーブルの上を片付けた。
明日は朝から会議がある。
寝坊するわけにはいかない。
私は本を持って寝室へ向かいながら、ひとりで笑ってしまった。
「まったく、何やってんだか」
高校生の頃と、ちっとも変わっていない。
あの頃は、階段の下から母が「早く寝なさい!」と声をかけてきた。
今はもう、誰も叱ってくれない。
その代わり、明日の朝は目覚まし時計が容赦なく鳴るだろう。
私は布団に潜り込み、枕元に文庫本を置いた。
久しぶりに飲んだメローイエロー。
久しぶりに読んだ赤川次郎。
何十年も忘れていた、あの頃の夜が戻ってきたようだった。
そして、ひとつだけ確かなことがある。
高校生の頃と違うのは、翌朝待っているのが学校ではなく会社だということだけだった。
(第三話 完)
今回も商品名を、そのまま使った方がわかりやすいと思い、使いました。




