↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/22

第三話 米屋の自販機

第3話です。

 五十を過ぎると、コンビニエンスストアというものは、ずいぶん便利になったものだと感心することがある。

 弁当やおにぎりはもちろん、日用品から文房具まで、たいていのものが揃っている。夜遅くまで働いて帰ってきても、温かい食べ物が買えるし、淹れたてのコーヒーまで飲める。

 もっとも、最近の私は、コンビニに寄っても決まったものしか買わなくなっていた。

 朝のコーヒー、昼食用のおにぎり、たまに週刊誌。飲み物の棚に並ぶ新商品にも、ほとんど目を向けない。

 その日も、いつものように仕事帰りに立ち寄り、ペットボトルのお茶を買おうとしていた。

 ところが、冷蔵ケースの一角に、見覚えのある黄色い缶を見つけた。

「……おいおい、懐かしいな」

 思わず声が出た。

 メローイエロー。

 鮮やかな黄色に、緑色の文字。

 もう何十年も飲んでいなかった、あの炭酸飲料だった。

 缶には復刻販売を知らせる文字が書かれている。

「まだあったんだなあ」

 私は一本手に取った。

 子供の頃には、もっと丸っこい瓶に入っていた記憶がある。確か、ダルマ瓶と呼んでいたはずだ。

 ずんぐりとした形のガラス瓶。冷蔵庫から出したばかりの瓶には水滴がつき、手に持つとひんやりと重かった。

 あの頃は、自動販売機で瓶入りのジュースを買うことも珍しくなかった。

 私は懐かしさに負けて、黄色い缶を買い物かごに入れた。

 帰宅して夕食を済ませ、居間のテレビを何となく眺めていたが、ふと思い出して冷蔵庫からメローイエローを取り出した。

 プシュッ。

 缶を開けると、小さな炭酸の音がした。

 ひと口飲んだ。

 甘い。

 柑橘系の爽やかな味が舌に広がり、細かな炭酸が喉を刺激する。

 そして、飲み込んだあとに、独特の香りが鼻の奥へ抜けていった。

「……あれ?」

 私は缶を見つめた。

 もうひと口飲む。

 甘さの奥にある、少し青いような、懐かしい香り。

「この香りは……」

 その瞬間、頭の中に一軒の小さな米屋が浮かんだ。

 店先に積まれた米袋。

 夕暮れの路地。

 そして、暗くなった道をぼんやりと照らす、自動販売機の明かり。

 遠くで自転車のベルが鳴った。

 私はいつの間にか、あの頃の町に立っていた。

 昭和五十年代の終わり頃。

「ごちそうさま!」

 夕飯を食べ終えた私は、茶碗を流しへ運ぶと、自分の部屋へ向かおうとした。

「ちょっと、あんた。もう部屋に行くの?」

 台所から母の声がした。

「うん」

「たまには食器くらい拭いてくれたっていいじゃない」

「えー、明日やるよ」

「昨日もそう言ってたでしょう!」

 私は聞こえないふりをして財布を取りに行った。

 中学生になってから、夕食後にはちょっとした楽しみができていた。

 家のすぐそばにある米屋の自動販売機で、ジュースを一本買うことだ。

 米屋は昔からある小さな店で、昼間は店先に米袋が並び、奥では店のおじさんが配達の準備をしていた。

 私の家からは歩いて一分もかからない。

 店が閉まったあとも、自動販売機だけは夜の路地を明るく照らしていた。

 夕食を済ませた私は、小銭を握りしめて家を出た。

 夏ならば、まだ空に夕焼けが残っている時間だった。

 近所の家からはテレビの音が聞こえ、どこかで風呂を沸かしているのか、煙突から細い煙が上がっていた。

 自販機の前に立つ。

 コーラ、ファンタ、スプライト。いろいろな飲み物が並んでいたが、私がよく選ぶのはメローイエローだった。

 小銭を入れてボタンを押す。

 ゴトン。

 取り出し口に落ちてきた瓶を引っ張り出す。

 丸みを帯びたガラス瓶は、手のひらにずっしりと重かった。

 冷たい瓶を頬に当てると、何とも気持ちがいい。

 私はそれを持って家へ戻った。

「またジュース買ってきたの?」

 母が呆れたように言った。

「うん」

「毎日毎日、よく飽きないわねえ」

「別にいいじゃん。自分の小遣いだし」

「そういう問題じゃないでしょう。虫歯になるわよ」

「ちゃんと歯磨くって!」

 母はため息をつきながらも、それ以上は何も言わなかった。

 私は瓶を持って二階の自分の部屋へ上がった。

 六畳ほどの部屋には、勉強机と本棚、それに小さなテレビがあった。

 机の上には教科書やノートが積まれていたが、その隣には漫画の単行本が何冊も並んでいた。

 私は椅子に腰を下ろすと、買ってきたメローイエローの栓を開けた。

 シュポン、と小気味よい音がした。

 ひと口飲む。

 甘く爽やかな香りが鼻へ抜けていく。

「うまい!」

 そして、本棚から漫画を一冊取り出した。

 当時の私は、漫画を読むことが何より好きだった。

 学校から帰れば漫画。夕食を済ませても漫画。新刊が出れば小遣いを握って本屋へ走り、買ってきた本を何度も読み返した。

 お気に入りの場面は台詞まで覚えてしまうほどだった。

 野球漫画を読めば、自分も甲子園に出られるような気がしたし、冒険漫画を読めば、見たこともない世界へ旅に出た気分になった。

 気がつけば、メローイエローの瓶は空になっている。

 それでも漫画を読む手は止まらなかった。

「いつまで起きてるの!」

 階段の下から母の声が聞こえる。

「もう寝るよ!」

 そう返事をしながら、あと一冊だけ、と次の漫画に手を伸ばす。

 そんな夜が何度あっただろう。

 そして、いつの間にか私は高校生になっていた。

 制服は学生服のままだったが、教科書は分厚くなり、帰宅する時間も少し遅くなった。

 それでも、夕食後の習慣は変わらなかった。

 ご飯を食べ終える。

 財布から小銭を取り出す。

 米屋の自販機へ向かう。

 メローイエローを一本買う。

 ただ、それを持って戻る部屋の中は、少しずつ変わっていた。

 漫画ばかりだった本棚に、小説が並ぶようになったのだ。

 きっかけが何だったのかは、今ではよく覚えていない。

 友達に勧められたのか、本屋で何となく手に取ったのか。

 ただ、赤川次郎の小説を初めて読んだときの面白さだけは、今でも覚えている。

 読みやすい文章に、次々と起こる事件。どこかユーモラスな登場人物たち。

 気軽に読み始めたはずなのに、いつの間にか物語の中へ引き込まれていた。

 犯人は誰なのか。

 あの台詞にはどんな意味があったのか。

 次のページをめくれば答えがわかるかもしれない。

 そう思うと、途中でやめることができなかった。

 ある夏の夜だった。

 私はいつものように米屋の自販機でメローイエローを買い、部屋へ戻った。

 机の上には、学校帰りに買ってきた赤川次郎の文庫本が置いてあった。

 夕食前に少しだけ読んでいたが、ちょうど事件が大きく動き始めたところだった。

「さて、続き続き」

 私は瓶の栓を開け、ひと口飲んでから本を開いた。

 窓の外では虫が鳴いていた。

 扇風機が首を振るたび、机の上のプリントがひらひらと揺れる。

 ときどき瓶に手を伸ばしながら、私は夢中でページをめくった。

 十ページ、二十ページ。

 物語が進むにつれて、ますます先が気になる。

 ふと時計を見ると、午後十時を過ぎていた。

「あと一章だけ読もう」

 そう思って読み進めた。

 ところが、その一章が終わる頃には、また新しい展開が待っていた。

「何だよ、そう来るか!」

 思わず声が出た。

 もう少し。

 ここまで来たら、犯人がわかるところまで。

 そんなことを考えていると、階段を上がってくる足音が聞こえた。

「まだ起きてるの?」

 母だった。

「うん、もうちょっと」

「明日も学校でしょう。早く寝なさいよ」

「わかってるって!」

「何をそんなに夢中になって読んでるの?」

「小説」

「勉強の本?」

「違うよ」

「だったら、明日読めばいいじゃない」

「今いいところなんだよ!」

 母は呆れたように笑った。

「まったく。漫画ばっかり読んでたと思ったら、今度は小説なのね」

「本読むのはいいことだろ?」

「そりゃそうだけど、寝不足になるまで読まなくたっていいでしょう」

 母はそう言って、階段を下りていった。

 私は本を閉じようとした。

 けれど、あと数ページで犯人がわかりそうだった。

「……あとちょっとだけ」

 再び本を開いた。

 そして、最後のページを読み終えたときには、時計の針は午前一時を回っていた。

「うわっ、やべえ!」

 慌てて明かりを消し、布団に潜り込んだ。

 それでも、頭の中では小説の登場人物たちが動き回っていた。

 あの伏線はそういう意味だったのか。

 あそこで気づけばよかった。

 そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠っていた。

 翌朝、母に何度も起こされたのは言うまでもない。

「ほら! だから早く寝なさいって言ったでしょう!」

「……あと五分」

「五分じゃない! 遅刻するわよ!」

 布団を引っ張られながら、私は心の中で思っていた。

 今夜は絶対に早く寝よう。

 もっとも、その日の帰り道には、また本屋へ寄って新しい文庫本を探していたのだから、まったく懲りていなかった。

 そうして高校三年間が過ぎていった。

 米屋の自販機は、いつもそこにあった。

 雨の日も、風の強い日も、雪がちらつく冬の夜も。

 私は夕食を済ませると、いつものようにジュースを買いに行った。

 自販機の明かりを見ながら、明日の学校のことを考えたり、友達との会話を思い出したり、時には何も考えずにぼんやりしていた。

 あの頃の私にとって、それは特別な時間ではなかった。

 毎日繰り返される、ごく普通の習慣だった。

 けれど、今思えば、あの自販機の前に立っていた数分間も、私の青春の一部だったのだ。

「……そうだったなあ」

 私は小さく呟いた。

 目の前には、飲みかけのメローイエローの缶があった。

 いつの間にか、テレビでは別の番組が始まっている。

 私はもう一度、缶に口をつけた。

 甘い柑橘の香りが鼻へ抜けていった。

 懐かしい味だった。

 あの米屋は、もうない。

 何年か前に帰省したとき、店が閉まっているのを見かけた。店先の自販機も撤去され、米袋が積まれていた場所には、別の建物が建っていた。

 町は少しずつ姿を変えていく。

 自分自身も同じだ。

 学生服を着ていた少年は、いつの間にか五十を過ぎ、毎朝ネクタイを締めて会社へ通うようになった。

 あの頃は、五十歳なんてずいぶん遠い未来のことだと思っていた。

 それが今では、昔の自分を思い出して笑っている。

 私は空になった缶をテーブルに置いた。

「そういや、あの本、まだあったかな」

 ふと思い立ち、書斎代わりに使っている部屋へ向かった。

 壁際には大きな本棚が並んでいる。

 漫画、小説、雑誌、文庫本。昔から本を捨てられない性分で、気づけば部屋のあちこちに本が積み上がっていた。

 最近では買ったまま読んでいない本も増えている。

 私は本棚の前にしゃがみ込んだ。

「確か、この辺だったよな……」

 古い文庫本が並ぶ一角を探す。

 背表紙は日に焼け、ところどころ色が薄くなっていた。

 その中に、懐かしい名前を見つけた。

 赤川次郎。

「あった、あった!」

 私は一冊の文庫本を取り出した。

 表紙には少し傷があり、ページの端も茶色く変色している。

 いつ買ったものだっただろう。

 高校生の頃だったか、それとも卒業してからだったか。

 表紙を開くと、古い紙の匂いがした。

 何とも懐かしい匂いだった。

 私は本を持って居間へ戻った。

 時計を見ると、午後九時半。

 まだ寝るには少し早い。

「ちょっとだけ読んでみるか」

 ソファに腰を下ろし、最初のページを開いた。

 懐かしい登場人物の名前。

 見覚えのある書き出し。

 何十年も前に読んだはずなのに、細かな内容はすっかり忘れていた。

「へえ、こんな始まりだったっけ」

 私はページをめくった。

 文章を追っていくうちに、次第に物語の世界へ引き込まれていった。

 そうそう、この人物が出てくるんだった。

 あれ、この人はどうなるんだっけ。

 犯人は確か……いや、違ったかな。

 記憶が曖昧なおかげで、昔読んだ小説なのに、まるで初めて読むような面白さがあった。

 私は夢中で読み進めた。

 途中でお茶を淹れようと思ったが、ちょうど話が面白くなってきたので、そのまま読み続けた。

 時計を見る。

 午後十一時。

「おっと、もうこんな時間か」

 そろそろ寝なければ。

 明日も仕事がある。

 そう思いながら、もう一ページめくった。

 事件は思いがけない方向へ進んでいた。

「……あと一章だけ」

 口に出してから、私は思わず笑った。

 どこかで聞いたことのある台詞だった。

 そうだ。

 高校生の頃も、いつもこう言っていた。

 私はもう一度時計を見た。

 まだ大丈夫。

 あと少しなら。

 そして再び、本の世界へ戻っていった。

 どれくらい時間が経ったのだろう。

 最後のページを読み終え、パタンと本を閉じた。

「いやあ、面白かった!」

 久しぶりに、夢中で小説を読んだ気がした。

 私は満足しながら大きく伸びをした。

 そして、何気なく壁の時計を見上げた。

 午前二時十五分。

「……えっ?」

 思わず時計を二度見した。

「うわっ! もうこんな時間かよ!」

 慌てて立ち上がり、テーブルの上を片付けた。

 明日は朝から会議がある。

 寝坊するわけにはいかない。

 私は本を持って寝室へ向かいながら、ひとりで笑ってしまった。

「まったく、何やってんだか」

 高校生の頃と、ちっとも変わっていない。

 あの頃は、階段の下から母が「早く寝なさい!」と声をかけてきた。

 今はもう、誰も叱ってくれない。

 その代わり、明日の朝は目覚まし時計が容赦なく鳴るだろう。

 私は布団に潜り込み、枕元に文庫本を置いた。

 久しぶりに飲んだメローイエロー。

 久しぶりに読んだ赤川次郎。

 何十年も忘れていた、あの頃の夜が戻ってきたようだった。

 そして、ひとつだけ確かなことがある。

 高校生の頃と違うのは、翌朝待っているのが学校ではなく会社だということだけだった。

(第三話 完)

今回も商品名を、そのまま使った方がわかりやすいと思い、使いました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。