第二話 よっちゃんイカとザリガニ
第2話です。
五十を過ぎても、駄菓子屋というものには不思議な魅力がある。
もっとも、最近では昔ながらの駄菓子屋を見かけることも少なくなった。子供の頃には学校の近くに二軒も三軒もあったものだが、今ではスーパーの一角に駄菓子売り場が設けられているくらいだ。
その日、私は仕事帰りに立ち寄ったスーパーで、夕食の買い物を済ませたところだった。
レジへ向かう途中、ふと目に入ったのは、子供向けのお菓子が並ぶ小さな売り場だった。
色とりどりのガムやラムネ、チョコレート菓子。その中に、見覚えのある赤いパッケージがあった。
「おっ、まだ売ってるんだな」
思わず手に取ったのは、よっちゃんイカだった。
子供の頃、何度買ったかわからない。今ではパッケージも値段も昔とは違うが、あの独特の赤い色を見るだけで、何となく嬉しくなる。
私はひとつ買い物かごに入れた。
家に帰り、テレビをつけてから袋を開ける。
途端に、あの独特の甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐった。
「……この匂いは」
口に運ぼうとしていた手が止まった。
酢の刺激と、イカの旨味が混じった何とも言えない匂い。それを嗅いだ瞬間、頭の中に浮かんできたのは、真夏の青空だった。
耳の奥で、蝉が鳴き始めた。
遠くから友達の声が聞こえてくる。
「おーい! 早く来いよー!」
私は目を閉じた。
すると、五十を過ぎた自分の姿は消え、そこには半ズボンにランニングシャツ姿の、真っ黒に日焼けした少年がいた。
昭和五十六年、八月。
「おい、早くしろよ! ザリガニ逃げちまうぞ!」
「ザリガニがどこに逃げるんだよ!」
「知らねえよ! とにかく早く来い!」
夏休みの昼下がり、私は自転車を必死にこいでいた。
前を走るのは同級生のタケシとマサル。二人とも私と同じ小学四年生で、学校が休みの日には、たいていこの三人で遊んでいた。
タケシは三人の中で一番体が大きく、何をするにも自分が一番でなければ気が済まない。マサルは反対に小柄でおとなしいが、虫や魚のことになると急に物知りになる。
そして私はというと、二人に誘われれば、たいてい何も考えずについていくような子供だった。
今日の目的はザリガニ釣りだ。
町外れの河原に沿って、小さな小川が流れていた。
幅は二メートルほど。深いところでも子供の膝くらいしかなく、水草の茂った岸辺には、赤黒いザリガニがたくさん潜んでいた。
私たちにとっては、そこが最高の遊び場だった。
「おい、ちょっと待てよ!」
タケシが急ブレーキをかけた。
三人は顔を見合わせた。
「忘れてた!」
「お前が持ってくるって言ったんだろ!」
「違うよ! マサルだろ!」
「僕は糸と割り箸の係だよ」
結局、誰が餌を用意することになっていたのかわからなくなり、三人でいつもの駄菓子屋へ向かうことになった。
店の名前は『たばこ・菓子 山田商店』。
木枠のガラス戸に、色あせたアイスクリームの広告が貼ってある。店先には赤い郵便ポストが立ち、軒下にはラムネの空き瓶が入ったケースが積まれていた。
店に入ると、蚊取り線香の匂いがした。
「おばちゃーん!」
「あいよー!」
奥から出てきたのは、いつものおばちゃんだった。
年齢はよくわからない。子供の私たちには、五十歳も六十歳も同じくらいのおばあちゃんに見えた。
「何だい、あんたたち。また来たの?」
「よっちゃんイカ三つ!」
「はいはい。今日は何するんだい?」
「ザリガニ釣り!」
「ああ、またあの小川かい」
おばちゃんは棚からよっちゃんイカを取り出しながら、呆れたように笑った。
「そんなに釣ってどうするのさ」
「一番でっかいの釣ったやつが勝ち!」
「それで、釣ったザリガニは?」
「帰りに逃がす!」
「何だい、ザリガニもいい迷惑だねえ」
三人で笑った。
当時のよっちゃんイカは一袋三十円。私たちはそれぞれ十円玉を三枚ずつ握りしめていた。
タケシが袋を受け取るなり、すぐに封を開けた。
「おい、食うなよ!」
「食わねえよ! 匂い嗅いだだけ!」
「嘘つけ! 口動いてるぞ!」
「一個くらいいいだろ!」
「餌なくなるだろ!」
おばちゃんは腹を抱えて笑った。
「まったく、あんたたちは。ザリガニに食べさせる前に、自分たちで全部食べちまうんじゃないよ!」
私たちは笑いながら店を飛び出した。
外は相変わらずの暑さだった。
アスファルトの上には陽炎が揺れ、遠くの田んぼからはカエルの声が聞こえていた。
自転車をこぎながら、私は袋を鼻に近づけた。
甘酸っぱい匂いがした。
あの頃の私には、それが夏休みの冒険の始まりを告げる匂いだった。
小川に着くと、私たちは自転車を土手に放り出した。
草むらをかき分けて水辺に降りると、ひんやりとした空気が足元を流れていた。
「いたぞ!」
タケシが早くも叫んだ。
「どこ?」
「あそこ! 石の下!」
覗き込むと、確かに赤黒いハサミが二本、水の中から突き出していた。
「でっけえ!」
「まだわかんないよ。ハサミだけ大きいかもしれないし」
マサルが冷静に言った。
「うるせえ! 絶対でっけえよ!」
タケシは割り箸に結びつけた糸の先へ、よっちゃんイカをくくりつけた。
それをそっと水の中へ垂らす。
三人は息を潜めた。
ザリガニが少しずつ近づいてくる。
「来た、来た!」
「静かにしろよ!」
「お前が一番うるさいんだよ!」
ザリガニがハサミで餌をつかんだ。
「今だ!」
タケシが勢いよく糸を引き上げた。
ところが、ザリガニは水面から出る寸前に餌を離し、石の陰へ逃げ込んでしまった。
「あーっ!」
「下手くそ!」
「うるせえ!」
私は腹を抱えて笑った。
「お前やってみろよ!」
「見てろよ!」
今度は私の番だった。
マサルに教わった通り、餌をゆっくり沈める。ザリガニがハサミでつかんでも慌てず、少しずつ持ち上げる。
水面に近づいたところで、もう片方の手に持っていた網を差し出した。
「よし!」
網の中にザリガニが落ちた。
「釣れたー!」
「ずるいぞ! 網使った!」
「マサルだって使ってるじゃん!」
「俺は使わねえ!」
タケシは意地になって、糸だけで釣ろうとした。
その間にも、私とマサルは次々にザリガニを釣り上げていった。
バケツの中では、大小さまざまなザリガニがハサミを振り上げている。
「おい、見ろよ!」
マサルが一匹のザリガニを持ち上げた。
「こいつ、片方のハサミが小さい!」
「喧嘩で負けたんじゃねえの?」
「ザリガニはハサミが取れても、脱皮するとまた生えてくるんだよ」
「へえー!」
タケシが感心したように覗き込んだ。
「じゃあ俺も、指取れても生えてくるかな?」
「生えてくるわけねえだろ!」
三人で大笑いした。
その直後だった。
「いってえええ!」
タケシが突然叫んだ。
見ると、ようやく釣り上げた大きなザリガニに、右手の人差し指を挟まれていた。
「取れねえ! 取れねえよ!」
「水に戻せよ!」
「離してくれねえんだよ!」
「引っ張るなって!」
タケシは半泣きになりながら、その場で飛び跳ねていた。
マサルが慌ててザリガニを水の中へ戻すと、ようやくハサミが外れた。
タケシは赤くなった指をさすりながら、私たちを睨んだ。
「……笑うなよ」
私は必死に笑いをこらえた。
「笑ってねえよ」
「笑ってんじゃねえか!」
「だって、お前、ザリガニに負けたんだもん!」
「負けてねえ!」
「泣いてたじゃん!」
「泣いてねえよ!」
とうとう我慢できず、私は草むらに転がって笑った。
マサルまで笑い始めた。
最初は怒っていたタケシも、やがてつられて笑い出した。
真夏の河原に、三人の笑い声が響いた。
ひとしきり遊んだあと、私たちは土手に腰を下ろした。
バケツには十匹ほどのザリガニが入っていたが、結局誰が一番大きなものを釣ったのか、よくわからなくなっていた。
「腹減ったな」
タケシが言った。
「お前、さっきからそればっかりだな」
「だって腹減ったんだもん」
私はポケットから、残っていたよっちゃんイカの袋を取り出した。
「食う?」
「おっ、残ってたのか!」
三人で少しずつ分け合った。
汗をかいた手でつまんだイカは、いつもより酸っぱく感じた。
「なあ、明日も来る?」
私が尋ねると、タケシは当然のように答えた。
「当たり前だろ!」
「僕、明日は午前中だけならいいよ」
マサルが言った。
「何で?」
「宿題やらないと」
「えーっ! まだ夏休み始まったばっかじゃん!」
「今やっとかないと、最後に困るよ」
「そんなの八月三十一日にやればいいんだよ!」
タケシは胸を張った。
私は笑った。
「お前、去年もそう言って泣いてたじゃん」
「泣いてねえよ!」
また三人で笑った。
空には大きな入道雲が浮かんでいた。
遠くで雷が鳴ったような気がしたが、私たちは気にも留めなかった。
あの頃、夏休みは永遠に続くような気がしていた。
明日も明後日も、そのまた次の日も、同じ仲間と同じ場所で遊べる。
それが当たり前だった。
やがて日が傾き始めると、私たちはバケツのザリガニを小川へ戻した。
「じゃあなー!」
タケシが水の中へ手を振った。
「また明日釣ってやるからな!」
マサルが笑った。
「ザリガニは嫌だろうね」
私も笑った。
自転車にまたがり、三人で土手を走った。
夕焼けに染まった道を、誰が一番早く帰れるか競争しながら。
「……あいつ、泣いてたよなあ」
私は思わず声に出して笑っていた。
目の前にはテレビがついている。
手には、開けたばかりのよっちゃんイカ。
あれから四十五年。
タケシとは中学を卒業してから別々の高校へ進み、マサルも大学進学を機に町を離れた。
何度か同窓会で顔を合わせたことはあるが、ここ十年ほどは会っていない。
それでも、不思議なものだ。
あの夏の日のことは、昨日の出来事のように思い出せる。
私はスマートフォンを手に取った。
連絡先を探してみる。
タケシの名前があった。
最後に連絡したのは、五年ほど前の同窓会のときだった。
少し迷ったが、電話をかけてみた。
呼び出し音が三回鳴った。
「もしもし?」
「おう、俺だけど」
「……誰だ?」
「誰だって、お前、俺の番号登録してねえのかよ!」
「ああ! お前か! 何だよ、急に!」
懐かしい声だった。
少し低くなってはいるが、あの頃のタケシの声と変わらない。
「いや、ちょっと思い出してさ」
「何を?」
「ザリガニ釣り」
一瞬、沈黙があった。
そして、電話の向こうで大きな笑い声がした。
「何だよ、それ! 懐かしいな!」
「覚えてるか? お前、ザリガニに指挟まれて泣いてたろ」
「泣いてねえよ!」
私は吹き出した。
「お前、四十五年経っても同じこと言うんだな!」
「だって泣いてねえもん!」
「いや、絶対泣いてた!」
「お前こそ、俺が釣ったザリガニ逃がしただろ!」
「そんなことあったっけ?」
「あったよ! でっけえやつ!」
そこから話は止まらなくなった。
誰が一番たくさん釣ったとか、あの小川で長靴を流されたとか、マサルが持ってきた網が破れていたとか。
忘れていたはずの出来事が、次から次へと蘇ってきた。
「そういや、マサルはどうしてる?」
私が尋ねると、タケシは少し声を弾ませた。
「あいつ、今こっちに戻ってきてるぞ」
「えっ、そうなのか?」
「ああ。去年から親父さんの家に住んでる。たまに会うよ」
「へえ、そうか」
「今度三人で飲むか?」
「いいなあ」
私は少し考えてから言った。
「なあ、あの小川って、まだあるのか?」
「ああ、あるぞ。護岸工事されて、昔とはだいぶ変わったけどな」
「ザリガニ、いるかな?」
「さあなあ。最近は見てねえな」
少しの沈黙のあと、タケシが笑った。
「おい、まさか釣りに行こうってんじゃねえだろうな?」
「いや、ちょっと思っただけ」
「いいじゃねえか。行こうぜ!」
「お前、本気かよ!」
「本気だよ! マサルも誘ってさ!」
私は笑った。
「五十過ぎたおっさん三人でザリガニ釣りかよ」
「何だよ、楽しそうじゃねえか!」
確かに、楽しそうだった。
「じゃあ、今度の日曜はどうだ?」
「おう、いいぞ! マサルにも聞いとく!」
電話を切ったあと、私はしばらくスマートフォンを眺めていた。
そして、手元に残っていたよっちゃんイカをひとつ口に入れた。
甘酸っぱい味が広がった。
日曜日。
私は久しぶりに、あの町へ帰ることになった。
翌日、仕事帰りに百円ショップへ寄った。
割り箸と糸、小さなバケツを買うためだ。
レジに並びながら、我ながら何をやっているのだろうと笑ってしまった。
五十を過ぎた男が、ザリガニ釣りの道具を揃えている。
けれど、こんなに日曜日が待ち遠しいのは久しぶりだった。
その夜、タケシからメッセージが届いた。
『マサルも来るってよ。餌はお前が用意しろよ!』
私はすぐに返信した。
『わかった。よっちゃんイカ買ってく』
すると、間もなく返事が来た。
『お前、また途中で全部食うなよ!』
思わず声を出して笑った。
まったく、四十五年経っても変わらない。
私はスマートフォンを置き、窓の外を眺めた。
秋の夜空には、月が浮かんでいた。
あの夏の日とは、季節も景色も違う。
けれど、日曜日にはきっと、あの頃と同じ笑い声が聞けるだろう。
私は机の上に置いたよっちゃんイカの袋を手に取った。
まだ少しだけ残っている。
封を開けると、甘酸っぱい匂いがふわりと漂った。
その向こうに、真夏の小川と、二人の少年の笑顔が見えた気がした。
私は小さく呟いた。
「……今度は泣くなよ、タケシ」
誰もいない部屋で、また笑ってしまった。
日曜日が待ち遠しかった。
(第二話 完)
商品名を出した方がいいのか考えましたが、具体的になると思い、商品名をそのまま使いました。




