第一話 母のカレー
香りは記憶を一瞬で甦らせる魔法みたいと、会話の中で聞きインスピレーションを得たので、書いてみました。
カレーは好きだ。
子供の頃からずっと好きだったし、五十を過ぎた今でも、外食で何を食べようか迷ったときには、たいていカレーを選ぶ。
駅前のカレー専門店、会社近くの喫茶店、出張先で見つけた昔ながらの洋食屋。店によって味は違うが、それぞれにうまいと思う。
ただ、自分で作ることはなかった。
一人暮らしが長いせいもある。カレーを作れば、どうしても何食分かできてしまう。鍋を洗うのも面倒だし、食べたければ店に行けばいい。
そう自分に言い聞かせていたが、本当の理由は別にあったのかもしれない。
母が亡くなって、もう十六年になる。
その間、私は一度もカレーを作っていなかった。
十月のある日、仕事帰りにいつもとは違う道を歩いていた。駅前の大通りが工事中で、一本裏の商店街へ回ったのだ。
古い時計屋、シャッターの下りた洋品店、昔ながらの八百屋。そんな店が並ぶ通りの一角に、小さな惣菜屋があった。
店先にはコロッケやメンチカツが並び、奥の厨房から白い湯気が上がっている。
その前を通り過ぎようとしたときだった。
ふわりと、カレーの香りが漂ってきた。
私は思わず足を止めた。
「……この匂いは」
どこかで嗅いだことがある。
いや、どこかどころではない。何百回も、何千回も嗅いだことのある匂いだ。
玉ねぎの甘い香りと、少し焦げたような香ばしさ。その奥に、まろやかな、何とも言えない優しい匂いが混じっている。
その瞬間、目の前の商店街が遠ざかった。
代わりに聞こえてきたのは、蝉の声だった。
昭和五十六年、夏。
「ただいまー!」
玄関の引き戸を勢いよく開けると、奥の台所から母の声が飛んできた。
「おかえり。ちょっと、あんた! 靴!」
「わかってるよ!」
「わかってるなら揃えなさい!」
私は脱ぎ散らかした運動靴を足で寄せると、ランドセルを背負ったまま台所へ駆け込んだ。
台所には大きなアルミの鍋があり、母が木べらで何かをかき混ぜていた。
「母ちゃん、今日カレー?」
「そうよ」
「やったー!」
「そんなに喜ぶことかねえ。昨日はハンバーグがいいって言ってたくせに」
「カレーの方が好き!」
「はいはい。明日になったらまた違うこと言うんだから」
母は呆れたように笑った。
私は小学四年生だった。
父は会社勤めで帰りが遅く、母は近所のスーパーで午前中だけパートをしていた。姉は中学生になってから部活動で帰宅が遅くなり、夕方の台所は、たいてい母と私の二人きりだった。
私はランドセルを居間に放り出すと、台所へ戻って鍋の中を覗き込んだ。
「まだ?」
「まだよ。今作ってるところでしょう」
「腹減った」
「おやつ食べたじゃない」
「あれはおやつ。晩ご飯とは別!」
「まったく、誰に似たんだか」
母はそう言いながら、鍋の中をひと混ぜした。
大きめに切ったジャガイモ、人参、玉ねぎ、それに豚肉。特別な材料は何も入っていない。
それでも母のカレーは、私にとって世界で一番うまいカレーだった。
「母ちゃんのカレーって、給食のカレーと違うよね」
「そりゃそうよ。給食のおばさんとは作り方が違うもの」
「どうやって作るの?」
「普通に作るのよ」
「普通じゃないよ。母ちゃんの方がうまいもん」
母は少し嬉しそうな顔をした。
「まあ、そう言ってもらえると作りがいがあるわね」
そして、いたずらっぽく目を細めた。
「実はね、ちょっとだけ秘密があるの」
「秘密?」
「そう。お母さんの隠し味」
「何それ! 教えて!」
「だーめ。秘密だから隠し味っていうの」
「ずるい!」
「大人になったら教えてあげるわよ」
「絶対だよ!」
「はいはい、約束ね」
母は笑いながら、私の頭を軽く小突いた。
そのとき、居間のテレビからアニメの主題歌が聞こえてきた。
私は慌てて居間へ駆け出した。
「こら! 手くらい洗いなさい!」
母の声が背中を追いかけてきた。
夕方の西日が磨りガラスの窓を橙色に染め、扇風機が首を振るたびに、台所のカレーの香りが居間まで流れてきた。
あの頃の我が家には、いつもそんな時間があった。
夏休みが終わり、秋が来て、冬が来る。翌年も、そのまた翌年も、同じように母が台所に立ち、私が「今日の晩ご飯は何?」と尋ねる。
そんな日々が、いつまでも続くものだと思っていた。
ある日、私は母の料理を手伝うと言い出したことがあった。
もっとも、手伝いといっても、皮を剥いたジャガイモを水に浸したり、玉ねぎの皮を片付けたりする程度だった。
「母ちゃん、カレーって何入れてるの?」
「お肉と野菜と、カレーのルー」
「それだけ?」
「それだけじゃないけどね」
母はコンロの火を少し弱めると、食器棚の上に置いてあった小さな瓶を手に取った。
茶色い粉の入った瓶だった。
その隣には、小さな白い容器がいくつか並んでいた。
「何それ?」
「ちょっとしたおまじない」
「おまじない?」
「そう。おいしくなあれってね」
母は楽しそうに笑いながら、鍋に何かを加えた。
私はその手元をじっと見ていたはずだった。
けれど、何を入れたのかまでは覚えていない。
ただ、母が私の方を振り向いて、人差し指を唇に当てたことだけは覚えていた。
「お父さんには内緒よ」
「なんで?」
「秘密があった方が、おいしそうでしょう?」
私は意味もわからず、母と一緒に笑った。
「……お客さん?」
声をかけられ、私は我に返った。
目の前には惣菜屋の女性が立っていた。
「大丈夫ですか? ずいぶん長いこと、そこに立ってらしたから」
「ああ、すみません。いい匂いがしたもので」
「今日はカレーもあるんですよ。うちのは家庭の味ですけどね」
女性は奥の鍋を指さした。
私はもう一度、その香りを吸い込んだ。
ああ、そうだ。
あの匂いだ。
母が作っていたカレーと、よく似ている。
いや、香りそのものが同じというわけではないのだろう。
それでも、私の頭の中には、あの台所がはっきりと浮かんでいた。
磨りガラスの窓。古いガスコンロ。花柄のエプロン。
そして、木べらを持って笑っている母。
私はその姿を思い浮かべながら、ふと気づいた。
母の手元。
茶色い粉の入った瓶。
小さな白い容器。
「……あっ」
思わず声が出た。
あれは、インスタントコーヒーだ。
父が毎朝飲んでいた、あの瓶。
そして白い容器は、コーヒーに入れるミルクのポーションだった。
母はあれをカレーに入れていたのだ。
そうか。
あれが隠し味だったのか。
私は思わず笑ってしまった。
何十年も忘れていたことが、たった一度の香りで、こんなにはっきりと思い出せるものなのか。
「どうかしました?」
惣菜屋の女性が不思議そうに尋ねた。
「いえ、ちょっと昔のことを思い出しまして」
「そうですか。カレー、いかがです?」
私は少し迷ってから首を振った。
「今日はやめておきます」
「あら、残念」
「でも、ありがとうございました」
女性は不思議そうな顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「また寄ってくださいね」
私は軽く頭を下げ、商店街を歩き始めた。
途中、スーパーの明かりが目に入った。
普段なら、そのまま通り過ぎるところだった。
けれど、その日は自然と足が向いていた。
ジャガイモ、人参、玉ねぎ、豚肉。そして、カレールー。
買い物かごに材料を入れながら、私はふと立ち止まった。
そうだ、忘れてはいけない。
インスタントコーヒーと、ミルクのポーション。
売り場で小さな瓶を手に取ると、思わず口元が緩んだ。
「大人になったら教えてあげる、か……」
母はとうとう、教えてくれなかった。
いや、違う。
あの日、ちゃんと見せてくれていたのだ。
私が忘れていただけだった。
帰宅すると、久しぶりに台所に立った。
包丁の使い方はおぼつかず、ジャガイモの大きさも揃わない。玉ねぎを切れば目が痛くなり、人参は妙に分厚くなってしまった。
それでも、何だか楽しかった。
鍋で肉と野菜を炒め、水を加えて煮込む。ルーを溶かすと、台所いっぱいにカレーの香りが広がった。
そして、いよいよ隠し味だ。
インスタントコーヒーを少し。
ミルクのポーションをひとつ。
母がどのくらい入れていたのかは、さすがに思い出せない。
「まあ、こんなもんかな」
私は木べらで鍋をかき混ぜた。
その仕草が、ふと母に似ているような気がした。
出来上がったカレーを皿によそい、食卓に運ぶ。
ひと口食べてみた。
「……うん」
悪くない。
けれど、母のカレーとは少し違った。
コーヒーを入れすぎたのかもしれない。あるいはルーが違うのか。ジャガイモも少し煮崩れている。
それでも私は、もうひと口食べた。
そして、またひと口。
食べ進めるうちに、何だかおかしくなって笑ってしまった。
「母ちゃん、難しいなあ」
誰もいない部屋で、声に出してみた。
もちろん返事はない。
けれど、もし母がここにいたら、きっとこう言うだろう。
「何言ってるの。何回も作って覚えるものなのよ」
私は箸を置き、しばらく天井を見上げた。
母が亡くなって十六年。
声も、笑顔も、少しずつ記憶の奥へ遠ざかっていた。
なのに今日、あのカレーの香りが、全部連れて帰ってきてくれた。
私は再びスプーンを手に取った。
明日はもう少しコーヒーを減らしてみよう。
ミルクは、ひとつでよかったのだろうか。
今度は玉ねぎをもう少しじっくり炒めてみようか。
そんなことを考えているうちに、気づけば皿は空になっていた。
食器を流しへ運び、鍋に残ったカレーを覗き込む。
まだ、たっぷり残っている。
私は小さく笑った。
「明日もカレーか」
子供の頃なら、きっと大喜びしただろう。
ふと、台所の窓に映った自分の顔が目に入った。
五十を過ぎた、すっかりおじさんになった顔。
けれど、その顔は少しだけ、あの頃の少年に戻っているような気がした。
私は鍋に蓋をしながら、ぽつりと言った。
「母ちゃん、今度はもうちょっとうまく作るよ」
台所には、まだカレーの香りが漂っていた。
それは十六年ぶりに帰ってきた、母のいる台所の匂いだった。
(第一話 完)
ノスタルジックな気分になって頂けたら幸いです。




