第十話 先輩の単車
休日の朝、庭先から聞き慣れないエンジン音が響いてきた。最初は低く唸るような音だったが、少し間を置いて、今度は勢いよく吹け上がる。
居間で新聞を読んでいた高木修一は、思わず顔をしかめた。四十歳になった今でもバイクの音が嫌いなわけではないが、朝から近所に響かせていい音ではない。新聞を畳んで窓の外を覗くと、十八歳になる息子の翔太が、昨日届いたばかりのバイクの横で満足そうに笑っていた。
高校を卒業して就職した翔太が、初めての給料から少しずつ貯金して買った中古のバイクだった。納車された昨日など、夕飯の時間になっても庭から戻ってこず、ようやく家に入ったかと思えば、今度はスマートフォンで同じ車種の写真や動画を眺めていた。母親に「もう実物があるんだから、そっちを見ればいいじゃない」と呆れられても、「そういうことじゃないんだよ」と笑っていた。
修一はサンダルを履いて庭へ出た。
「おい、翔太。あんまりふかすなよ。近所迷惑だぞ」
「あ、父さん。ごめん。でもさ、いい音するだろ?」
翔太は悪びれた様子もなく、嬉しそうにタンクを撫でた。修一は苦笑しながら、「いい音だと思ってるのはお前だけかもしれないぞ」と返したが、息子が言いたいことはよくわかった。買ったばかりの単車を眺めているだけで楽しくて、エンジンをかければ、その音を誰かに聞かせたくなる。そんな時期が自分にもあった。
翔太がエンジンを止めると、庭先に静けさが戻った。入れ替わるように風が吹き、マフラーから吐き出された排気ガスが修一の方へ流れてきた。
少し油っぽく、鼻の奥に残る独特の匂いだった。
修一は思わず目を細めた。今では街を歩いていても、昔ほど濃い排気ガスの匂いを感じることはない。けれど、こうして間近で嗅ぐと、体のどこかにしまい込んでいた感覚が、突然目を覚ますようだった。
懐かしい。
そう思った途端、目の前の庭が、遠い昔の景色と重なった。
まだ自分が十八歳だった頃。油に汚れた手と、風に吹かれた髪。夜の道路に伸びるヘッドライトの光。そして、いつも自分の少し前を走っていた、一人の男の背中。
*
修一が十七歳の頃、地元には何人かの先輩たちがいた。学校の先生や親から見れば、あまり褒められた連中ではなかっただろう。髪を明るく染め、制服を着崩し、夜になれば仲間同士で集まっては、くだらない話をして笑っていた。修一もその中に混じり、大人に反抗することが格好いいと本気で思っていた。
そんな修一を弟のようにかわいがってくれたのが、三歳年上の健二だった。
健二は口が悪く、気も短かった。気に入らないことがあればすぐ顔に出るし、喧嘩になれば真っ先に前へ出るような男だったが、不思議と周りには人が集まった。後輩が金に困っていれば飯を食わせ、誰かの単車が故障すれば、自分の用事を後回しにしてでも工具を持って駆けつける。助けられた相手が礼を言うと、「うるせえな、今度ジュースでも奢れ」と笑うような人だった。
初めて会ったのは、友人に連れられて行った河川敷だった。何台もの単車が並ぶ中、健二は黒いバイクにまたがり、缶コーヒーを飲んでいた。
「お前が修一か? 何だ、もっと生意気な奴かと思ってた」
「……別に、普通ですけど」
「そういう返しが生意気なんだよ」
健二はそう言って笑い、修一の肩を軽く叩いた。初対面なのに妙に気さくで、何よりその笑い方が気持ちよかった。修一もつられて笑い、それからは健二の後ろをついて回るようになった。
当時の修一が何より欲しかったのは、自分の単車だった。免許は取ったものの、アルバイト代だけではなかなか手が届かず、仲間のバイクを羨ましそうに眺める日々が続いていた。そんなある日、健二が何気なく言った。
「修一、お前、まだ単車探してんのか?」
「探してますけど、なかなか金が貯まんなくて」
「じゃあ、これ乗るか?」
健二が指さしたのは、いつも乗っている黒い単車だった。タンクには少し色褪せた銀色のラインが入り、マフラーにも細かな傷がついていた。新しいとはとても言えなかったが、修一にはその古ささえ格好よく見えた。
「えっ、これっすか?」
「俺、次の単車を買おうと思ってんだ。こいつ、お前に譲ってやるよ」
「マジっすか?」
「嘘ついてどうすんだよ。まあ、タダってわけにはいかねえけど、安くしといてやる」
修一はその場で何度も頭を下げた。健二は「まだやるって決まっただけだろ」と呆れていたが、その顔は嬉しそうだった。
それから修一はアルバイトを増やし、欲しかった服も我慢して金を貯めた。約束した金額を封筒に入れて持っていった日、健二は中身を確かめると、単車のタンクをぽんと叩いた。
「古いけど、ちゃんと手入れしてるからな。大事に乗れよ。調子が悪くなったら無理して走らねえで、俺んとこ持ってこい」
「はい!」
修一は大きな声で返事をした。嬉しくて仕方がなかった。健二から譲り受けたというだけで、その単車が特別なものに思えた。
帰り道、信号待ちのたびにタンクへ目を落とし、ミラーに映る自分の姿を見ては笑った。いつもの道なのに、まるで違う場所を走っているようだった。
*
それからというもの、修一は週末が来るのを指折り数えるようになった。学校が休みの日には朝早くから庭に出て、まだ眠そうな目をこすりながら単車を磨いた。黒いタンクを布で拭き、ミラーに映る自分の顔を眺め、少し離れたところから車体全体を見渡しては一人で満足する。大して汚れているわけでもないのに、気づけば一時間近く磨いていることもあった。
母親はそんな息子を見て、いつも呆れていた。
「そんなに一生懸命、自分の部屋も掃除してくれたらいいのに」
「部屋と単車は違うんだよ」
「何が違うのよ」
修一が返事に困っていると、母親は「まったく、都合のいいことばっかり」と笑いながら家に戻っていった。修一はその背中を見送ると、また嬉しそうにタンクを磨き始めるのだった。
健二も新しい単車を手に入れ、二人は週末になるとよく走りに出かけた。山へ行くこともあれば、海を見に行くこともあった。目的地を決めず、ただ気の向くままに走り、腹が減れば途中の店に寄る。今のようにスマートフォンで道を調べられるわけでもなく、地図を広げては道を間違え、ときには思いがけない場所へ出てしまうこともあった。
ある日など、健二が近道だと言って入った山道が途中で行き止まりになり、二人で狭い道を引き返したことがあった。
「先輩、近道じゃなかったんすか?」
「おかしいな。前は通れたんだけどな」
「絶対、初めて来たでしょ」
「うるせえ。細かいこと気にすんな」
健二はそう言って笑い、修一もつられて笑った。結局、その日は予定より二時間も遅く帰ることになったが、修一にはそれさえ楽しい思い出だった。
走り疲れると、二人はよくコンビニの駐車場の隅に腰を下ろし、缶コーヒーを飲んだ。健二は甘い缶コーヒーが好きで、修一がブラックを買うと「お前、格好つけてんじゃねえぞ」とからかった。
「先輩こそ、そんな甘いのばっかり飲んでたら太りますよ」
「働いてりゃ太らねえんだよ」
「本当っすか?」
「……たぶんな」
そんなくだらない会話をしながら、二人は夕暮れの道路を眺めた。
健二は町工場で働いていた。油に汚れた作業着のまま現れることもあり、仕事が面倒だと愚痴をこぼすくせに、機械の話になると妙に楽しそうだった。
「修一、お前、卒業したらどうすんだ?」
「まだ決めてないっす」
「そろそろ考えろよ。いつまでも遊んでらんねえぞ」
「先輩だって、そんな真面目に考えてなかったでしょ」
「馬鹿野郎。俺はちゃんと考えてたよ」
「本当っすか?」
「……少しはな」
二人は顔を見合わせて笑った。健二は飲み終えた缶を握りつぶすと、少し真面目な顔になった。
「まあ、働くのは面倒だけどな、自分で稼いだ金で好きなもん買えるのはいいぞ。単車だってそうだろ」
「じゃあ、俺も早く働きたいっすね」
「お前、単車のことしか考えてねえな」
健二は呆れたように笑ったが、修一は本気だった。早く一人前になって、健二のように自分の金で好きな単車を買い、好きなところへ走りに行きたかった。
走っているときは、いつも健二が前だった。修一が遅れれば速度を落として待ち、道を間違えれば先の交差点で止まっていた。休憩のたびに「無理してついてこようとすんなよ」と注意されたが、修一は決まって「大丈夫っすよ」と笑っていた。
そんなある日、山道の途中で休憩していると、健二が珍しく真面目な声で言った。
「修一、単車はな、速く走るためだけのもんじゃねえぞ」
「何すか、急に」
「無事に帰ってきてこそ、楽しいんだ。自分のペースで走れ。格好つけて無理すんなよ」
修一は思わず笑った。
「先輩がそんな真面目なこと言うなんて、明日は雨っすね」
「うるせえよ。俺だってたまにはいいこと言うんだ」
健二は笑いながら修一の頭を小突いた。
そのときの修一は、その言葉を深く考えもしなかった。健二のいつもの小言の一つだと思っていたし、これから先もずっと、二人でこうして走り続けるものだと信じていた。
*
事故が起きたのは、修一が十八歳になった年の秋だった。
その日は朝からよく晴れていた。久しぶりに少し遠くまで走ろうと健二から電話があり、二人は昼前に待ち合わせた。山あいの道を抜け、景色のいい場所まで走り、道の駅で昼飯を食べた。紅葉にはまだ少し早かったが、山の空気は気持ちよく、修一は何度も「今日、来てよかったっすね」と言った。
健二はいつものように甘い缶コーヒーを飲みながら、修一の卒業後の進路を気にしていた。
「お前、最近ちゃんと仕事探してんのか?」
「探してますよ」
「本当か?」
「本当っすって。先輩、会うたびにそれ言いますね」
「お前の本当は信用ならねえからな」
修一が笑うと、健二も笑った。二人は缶を飲み干してから、そろそろ帰るかと立ち上がった。
帰り道、夕方の光が山の斜面を斜めに照らしていた。少し冷たくなった風を受けながら、修一は健二の後ろを走っていた。何度も一緒に通った道で、先を走る健二のテールランプも、いつもと変わらず見えていた。
緩やかなカーブに差しかかったときだった。
対向車線から来た車が、カーブで大きく膨らんだ。
次の瞬間、健二の単車が急に傾いた。甲高いブレーキ音が響き、車体が路面を滑るように倒れたかと思うと、何かがぶつかる鈍い音がした。
修一は必死でブレーキをかけた。どうやって路肩に停めたのか、今でも覚えていない。ただ、気づいたときには単車から飛び降り、健二のところへ走っていた。
「先輩! 健二さん!」
健二は道路脇に倒れていた。少し離れた場所には単車が横たわり、壊れた部品が路面に散らばっていた。修一は何度も名前を呼んだが、返事はなかった。
通りかかった人が救急車を呼んでくれた。誰かが修一に事故の状況を尋ねていたが、何を答えたのか覚えていない。周囲には何人もの人が集まり、遠くからサイレンの音が近づいてきた。それなのに修一には、自分の声だけが妙にはっきり聞こえていた。
「先輩、しっかりしてくださいよ。先輩!」
健二が救急車で運ばれたあと、修一も病院へ向かった。待合室の椅子に座っても落ち着かず、何度も立ち上がっては廊下を歩いた。時計を見るたびに、針がほとんど進んでいないように感じられた。
ほんの少し前まで、一緒に笑っていた。道の駅で缶コーヒーを飲み、いつものようにくだらない話をしていた。だから、きっと大丈夫だ。健二なら、何事もなかったような顔で戻ってくる。
『何だよ修一、そんな顔して』
いつもの声でそう言って、頭を小突いてくるに違いない。
修一は何度もそう考えた。そう考えていなければ、どうにかなってしまいそうだった。
けれど、健二は戻ってこなかった。
医師から告げられた言葉を、修一は今でも忘れられない。説明のすべてを理解できたわけではなかった。ただ、健二がもう帰ってこないということだけは、嫌というほど伝わってきた。
*
葬儀の日、修一はほとんど泣かなかった。悲しくなかったわけではない。むしろ、悲しいという言葉では足りないほど胸の中がいっぱいだったのに、涙だけが出てこなかった。
棺の中に横たわる健二を見ても、どうしても現実だと思えなかった。今にも起き上がって、「お前、何しけた顔してんだよ」と笑いそうな気がした。
けれど、健二は動かなかった。
葬儀を終えて家に帰った修一は、庭に停めてある自分の単車を見つめた。黒いタンクに銀色のライン。健二から譲り受けた、大切な一台だった。あの日も、この単車で健二の後ろを走っていた。
修一はゆっくり近づき、ハンドルに触れた。
『古いけど、ちゃんと手入れしてるからな。大事に乗れよ』
初めて譲ってもらった日の健二の声が、突然耳の奥に蘇った。
その瞬間、それまで出なかった涙が一気にあふれた。修一は単車の横にしゃがみ込み、顔を伏せた。声を押し殺そうとしても、どうにもならなかった。
もう一度、一緒に走りたかった。
くだらない話をして笑いたかった。
いつものように「無理すんなよ」と叱ってほしかった。
あの日、もう少し休憩してから帰っていれば。別の道を通っていれば。もっと早く異変に気づいていたら。そんなことを何度考えても、答えなど出なかった。事故の原因が自分にないことは、頭ではわかっていた。それでも、何か一つ違っていれば健二は今も生きていたのではないかと思わずにはいられなかった。
翌週も、その次の週も、修一は単車に乗らなかった。エンジンをかけようとしても、あのときの光景が蘇ってしまう。ブレーキ音、路面を滑る車体、動かなくなった健二。楽しかったはずの排気音が、いつしか怖いものに変わっていた。
やがて修一は単車を物置へ移した。古いシートを被せ、一番奥へしまい込んだ。売ってしまおうかと考えたこともあったが、どうしても手放せなかった。
健二が自分に譲ってくれた単車だった。初めて自分のものになったときの嬉しさも、一緒に走った週末も、途中のコンビニで飲んだ缶コーヒーの味も、すべてがその一台に詰まっているように思えた。
それを誰かに渡してしまえば、健二との思い出まで遠くへ行ってしまう気がした。
修一は、それ以来単車に乗らなくなった。
*
「父さん?」
翔太の声に、修一は我に返った。
目の前には、買ったばかりのバイクが停まっている。息子は不思議そうな顔で修一を見ていた。
「どうしたの? さっきからぼーっとして」
「……いや、ちょっと昔のことを思い出してた」
「昔のこと?」
「ああ。懐かしい匂いがしたからな」
修一がマフラーの方へ目を向けると、翔太は意外そうな顔をした。
「父さんも昔、バイク乗ってたの?」
「お前くらいの頃にな。先輩から譲ってもらった古いやつだけど」
「へえ、知らなかった! どんなバイク?」
「黒いタンクに銀色のラインが入っててな。結構古かったけど、気に入ってたよ」
「写真とかないの?」
「探せばあるかもしれないな」
翔太は目を輝かせた。自分の父親にもバイクに夢中だった時代があるということが、よほど意外だったらしい。
「じゃあさ、父さんもまた乗ればいいじゃん。今度一緒に走ろうよ」
修一は息子の顔を見た。買ったばかりの単車が嬉しくて仕方がない、その表情が昔の自分と重なった。
修一は、息子の気持ちを否定したくなかった。自分だって、あの頃は心から楽しかったのだ。風を切って走る気持ちよさも、知らない道の先へ行くわくわくした気持ちも、今でもよく覚えている。
「……そうだな。いつか、な」
「約束だぞ!」
翔太は嬉しそうに笑った。修一も笑い返したが、その胸の奥には、まだ言葉にできないものが残っていた。
しばらくして、翔太は出かける準備を始めた。ヘルメットをかぶり、グローブをはめ、顎ひもを確かめる。その仕草を見ていると、昔の自分がそこにいるようだった。
翔太がバイクにまたがり、エンジンをかけた。低い音が庭先に響き、再び排気ガスの匂いが漂ってくる。
「おい、翔太」
「何?」
ヘルメット越しに振り返った息子へ、修一は少しだけ言葉を探した。健二のことを話そうかと思った。事故のことも、あの日から単車に乗れなくなったことも、いつかは話さなければならないのだろう。
けれど、今はまだ、そのすべてを話す気にはなれなかった。
「……くれぐれも運転には気をつけろ。無茶はするなよ」
翔太は笑った。
「わかってるって!」
その返事を聞いた瞬間、修一の胸が小さく痛んだ。昔、自分も健二に同じことを言った。何度注意されても、そのたびに「わかってますって」と笑っていた。あの頃は、本当にわかっているつもりだった。
修一はもう一度、息子を見た。
「本当に気をつけろよ」
翔太は父親の表情に何かを感じたのか、今度は真面目な顔でうなずいた。
「うん。ちゃんと気をつけるよ」
やがてバイクはゆっくりと走り出した。修一は庭先に立ったまま、その後ろ姿を見送った。息子が角を曲がり、エンジン音が遠ざかって聞こえなくなるまで、ずっと目で追っていた。
*
翔太が出かけたあとも、修一はしばらく庭に立っていた。風が吹くたびに排気ガスの匂いが薄れていき、やがていつもの静かな休日の朝が戻ってきた。
ふと庭の隅へ目を向けると、古い物置があった。使わなくなった工具や家具などが入っている、ごく普通の小さな物置だったが、その一番奥には、今もあの単車が眠っていた。
修一はゆっくりと物置へ歩いていった。
扉を開けると、古い木材や油の匂いが漂ってきた。棚の下には工具箱が置かれ、壁には脚立が立てかけられている。その奥に、古いシートを被せられた一台の単車があった。
二十年以上、ここにある。
修一は近づき、そっとシートに手をかけた。ゆっくりとめくると、懐かしい黒いタンクが現れた。少し色褪せた銀色のラインも、細かな傷のついたマフラーも、あの頃のままだった。
時々、埃を払ったり車体を拭いたりはしていた。けれど、エンジンをかけたことはない。長い年月の間に、もう簡単には走らせられない状態になっているだろう。それでも修一は、手放そうとは思わなかった。
ハンドルに触れると、ひんやりとした金属の感触が手のひらに伝わってきた。
修一は目を閉じた。
健二と初めて会った河川敷。単車を譲ってもらった日の嬉しさ。二人で道を間違えて笑ったこと。コンビニの駐車場で飲んだ缶コーヒー。夕暮れの山道を走る、健二の背中。
楽しかった思い出は、今もこんなにはっきり残っている。
そして、健二の声も。
『修一、無理してついてこようとすんなよ。自分のペースで走れ』
『単車はな、速く走るためだけのもんじゃねえ。無事に帰ってきてこそ、楽しいんだ』
修一は小さく笑った。
「……先輩」
久しぶりに声に出して呼んでみると、胸の奥が少し熱くなった。
「俺、もう四十になりましたよ」
もちろん、返事はない。それでも修一は、健二がすぐそばにいるような気がしていた。
「息子がね、単車買ったんです。昔の俺みたいに、嬉しそうにしてますよ」
修一はタンクをそっと撫でた。
健二なら、何と言うだろう。きっとあの頃と同じように笑って、少し偉そうな顔で言うに違いない。
『だったら、ちゃんと教えてやれよ。無茶すんなってな』
修一はうなずいた。
「……わかってますって」
昔と同じ返事が、自然と口から出た。
健二が亡くなってから、長い年月が過ぎた。自分は大人になり、結婚し、父親になった。あの頃の仲間たちも、それぞれの人生を歩んでいる。町の景色も変わり、二人でよく立ち寄ったコンビニも、今では別の店になっていた。
それでも、この単車に触れると、いつでも十八歳の自分に戻れる気がした。健二の後ろを追いかけて走った、あの週末に。
修一はもう一度車体を眺めてから、静かにシートを被せた。単車は再び、物置の隅で眠りについた。
いつか翔太にも、この単車を見せようと思った。
そして、健二の話をしよう。口は悪かったけれど、面倒見のいい先輩だったこと。何度も一緒に走り、くだらない話をして笑い合ったこと。自分がこの単車をどれだけ大切にしていたかということも。
もちろん、あの日の事故のことも。
修一は物置の扉を閉めた。
庭には、もう排気ガスの匂いは残っていなかった。それでも胸の奥には、懐かしいエンジン音が響いていた。遠い昔、いつも自分の少し前を走っていた、先輩の単車の音が。
秋の空は、あの日と同じように高く澄んでいた。
翔太が帰ってきたら、どこまで走ってきたのか聞いてみよう。きっと、嬉しそうに話してくれるだろう。あの頃の自分が、健二にそうしていたように。
修一は家へ戻りながら、心の中でそっと願った。
どうか、無事に帰ってこいよ。
(第十話 完)




