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第十一話 新車の香り

 日曜日の朝、居間でのんびりコーヒーを飲んでいた村上浩一は、玄関から聞こえてきた娘の声に顔を上げた。

「お父さん、今日暇?」

 二十四歳になる娘の美咲が、車の鍵を指先でくるくる回しながら立っていた。昨日、待ちに待った新車が納車されたばかりで、朝からずいぶん機嫌がいい。

「暇だけど、どうした?」

「ちょっと買い物に付き合ってよ。私が運転するからさ」

「何だ、運転したくて仕方ないんだろ」

「まあ、それもあるけどね」

 美咲は笑った。浩一もつられて笑い、飲みかけのコーヒーを片づけて立ち上がった。

 庭先には、まだピカピカの新車が停まっていた。昨日も美咲は何度となく車を眺めに出て、夜にはわざわざ玄関の明かりをつけてまで眺めていた。そんな姿を見ていると、浩一にも覚えがあった。初めて自分の車を買ったときは、まさにこんな気持ちだった。

「どう? 格好いいでしょ」

「昨日も三回くらい聞いたぞ、それ」

「だって嬉しいんだもん」

 美咲はそう言って運転席に乗り込み、浩一も助手席のドアを開けた。

 腰を下ろした瞬間、ふわりと独特の匂いが鼻をくすぐった。新しいシートや内装材が混ざり合った、まだ誰の生活の匂いも染みついていない車内の香りだった。

「おお……新車の匂いだなあ」

 浩一は思わず声を漏らした。

「でしょ? 私、この匂い好きなんだよね」

「わかるなあ。何とも言えないんだよな、この匂い」

 浩一はシートに深く腰を下ろし、もう一度ゆっくり息を吸い込んだ。

 その瞬間、遠い昔の出来事が鮮やかに蘇ってきた。

 今から三十年ほど前。浩一がまだ二十三歳だった頃のことだった。

     *

 当時の浩一は、社会人になって三年目だった。実家で暮らしながら働き、毎月の給料から少しずつ金を貯めていた。

 目標は、初めての新車を買うことだった。

 それまでは中古車に乗っていた。学生時代に安く譲ってもらった車で、年式も古く、あちこちに傷があった。エアコンの効きが悪い日もあれば、雨の日には窓が曇りやすく、友人を乗せると「お前の車、何か変な音しないか?」とからかわれることもあった。

 それでも大切に乗っていたが、社会人になってからというもの、いつか自分の金で新車を買いたいという気持ちが強くなっていた。

 休みの日にはディーラーへ足を運び、カタログをもらって帰った。車の雑誌を買い、気になる車種のページを何度も眺めた。夜、寝る前にカタログを広げては、色は何にしようか、どんな装備をつけようかと考える時間が楽しかった。

 父親の正雄は、そんな息子を見てよく笑っていた。

「お前、毎晩同じカタログ見て飽きないのか?」

「飽きないよ。買う前が一番楽しいんだって」

「買ってからも楽しいだろうが」

「そりゃそうだけどさ」

 正雄は車好きだった。若い頃から運転することが好きで、休日になると用事もないのに車で出かけるような人だった。ただ、特別高級な車に乗っていたわけではなく、家族が乗れる実用的な車を大切に使っていた。

 浩一が新車を買うと決めたときも、正雄はずいぶん興味を示した。

「何買うんだ?」

「まだ迷ってる」

「色は?」

「黒かシルバーかな」

「黒は汚れが目立つぞ」

「わかってるよ」

「でも黒も格好いいんだよなあ」

 そんなことを言いながら、正雄は浩一のカタログを勝手に眺めていた。

 やがて車種を決め、色を決め、契約を済ませた。納車までには一か月ほどかかると言われたが、その一か月が浩一にはひどく長く感じられた。

 仕事中も、ふとした瞬間に新車のことを考えてしまう。休憩時間には友人にカタログを見せ、「もうすぐ来るんだ」と何度も話した。友人には「それ、先週も聞いたぞ」と笑われたが、浩一は気にしなかった。

 納車予定日が決まったときには、思わずカレンダーに大きな丸をつけた。

 そして、ようやくその日がやってきた。

     *

 納車当日、浩一は朝から落ち着かなかった。

 その日は休みを取っていた。朝食を済ませると庭へ出て、これまで乗っていた中古車を移動させ、新車を停める場所を空けた。地面に落ちていた小石を拾い、何となくほうきで掃き、まだ何も停まっていない駐車スペースを眺めた。

 母親が窓から顔を出した。

「そんなに掃除してどうするの。車が来たら見えなくなるのに」

「いいんだよ。気分の問題だから」

「朝から何回外に出てるのよ」

「まだ二、三回だよ」

「もう五回は出てるわよ」

 母親は笑っていたが、浩一にしてみれば笑い事ではなかった。何しろ、初めて自分の金で買った新車が、今日やってくるのだ。

 営業担当者からは、午前中に自宅まで届けると聞いていた。浩一は時計を見ながら、今か今かと待っていた。

 九時半になっても来ない。十時になっても来ない。

 少し早いかもしれないと思いながらも、十時半を過ぎると落ち着かなくなってきた。

 居間の窓から道路を覗き、車の音がするたびに玄関へ出る。ところが通り過ぎるのは近所の車ばかりだった。

「遅いなあ……」

 浩一がつぶやくと、母親は洗濯物を畳みながら言った。

「そのうち来るでしょ。そんなに焦らなくたって車は逃げないわよ」

「そういう問題じゃないんだよ」

「はいはい」

 母親は呆れたように笑った。

 十一時近くになり、とうとう浩一は我慢できなくなった。電話機の前に座り、ディーラーの番号を押した。

 しばらくして、聞き慣れた営業担当者の声がした。

「はい、ありがとうございます」

「あ、村上です。今日、納車の予定だったんですけど、まだ来なくて……」

 すると電話の向こうで、営業担当者が少し不思議そうな声を出した。

「えっ? 村上様のお車でしたら、先ほどお届けしましたけど……」

 浩一は一瞬、何を言われたのかわからなかった。

「……え?」

「ご自宅に伺いまして、お父様に鍵をお渡ししました」

「父親に?」

「はい。お父様がいらっしゃいましたので、お車をご確認いただいて……」

 浩一は受話器を握り直した。

「ちょ、ちょっと待ってください。車、今どこにあるんですか?」

「ええと……お父様がお乗りになって……」

 そこで浩一は、ようやく事態を理解した。

「はあ!?」

 思わず大きな声が出た。

 営業担当者は電話の向こうで慌てて何か説明していたが、浩一の耳にはほとんど入ってこなかった。

 礼を言うのもそこそこに電話を切ると、浩一は居間へ飛び込んだ。

「母さん! 親父は!?」

「お父さん? さっき出かけたわよ」

「どこに!」

「さあ。車でちょっと行ってくるって」

 浩一は言葉を失った。

 まさか。

 いや、間違いない。

 慌てて庭へ出てみると、空けておいた駐車スペースには何も停まっていなかった。

 自分が何週間も楽しみにしていた新車を、父親が勝手に乗っていってしまったのだ。

「……信じらんねえ!」

 浩一は頭を抱えた。

 新車が来たら、まず自分が運転席に座るつもりだった。シートの感触を確かめ、ハンドルを握り、エンジンをかける。少しだけ近所を走り、それから友人に見せに行こうと考えていた。

 その最初の楽しみを、全部父親に持っていかれてしまった。

 母親は事情を聞くと、しばらくぽかんとしていたが、やがて吹き出した。

「あらまあ。お父さん、先に乗っちゃったの?」

「笑い事じゃないよ!」

「だって、あの人らしいじゃない」

「俺の車だぞ!」

 母親はますます笑った。浩一は腹が立って仕方がなかったが、怒りをぶつける相手がいない。仕方なく玄関先に座り、父親が帰ってくるのを待つことにした。

 それから三十分ほど経った頃だった。

 家の前の道路から、聞き慣れないエンジン音が近づいてきた。

 浩一は勢いよく立ち上がった。

 角を曲がって現れたのは、ピカピカに輝く新車だった。カタログで何度も眺めた形、選び抜いたボディカラー。間違いなく、自分の車だった。

 そして、その運転席には父親の正雄がいた。

 正雄は慣れた様子で車を駐車スペースに入れると、窓を開け、満面の笑みを浮かべた。

「いやあ、新車はいいなぁ!」

 あまりにも嬉しそうな声だった。

 浩一は一瞬、言葉を失った。怒られるとは夢にも思っていないような、晴れ晴れとした顔をしている。

「親父! 何で俺より先に乗ってんだよ!」

「ん? 何だ、お前。もう起きてたのか」

「朝からずっと待ってたんだよ!」

「そうかそうか。いやあ、いい車だぞ。静かだし、乗り心地もいいし」

「そういうことじゃねえよ!」

 正雄はようやく車から降りてきたが、まだ満足そうにボンネットを眺めていた。

「ちょっとその辺を走ってきただけだ。ちゃんと慣らし運転してきてやったぞ」

「頼んでねえよ! 俺が最初に乗りたかったんだよ!」

「何だ、そんなことか。これからいくらでも乗れるだろ」

「そんなことじゃないって!」

 浩一は本気で怒っていた。ところが正雄は、どうして息子がそこまで怒るのか、まるで理解できない様子だった。

「まあまあ、そう怒るな。いい車買ったじゃないか」

 そう言って、正雄は嬉しそうに浩一の肩を叩いた。

 その悪気のない顔を見ていると、怒りがますますこみ上げてきた。

 そこへ母親が玄関から顔を出した。

「お父さん、浩一がずっと待ってたのに、先に乗っちゃ駄目じゃない」

「ん? そうなのか?」

「そうなのか、じゃねえよ!」

 母親は笑いをこらえながら、「ほら、早く鍵を渡してあげなさい」と言った。

 正雄はようやくポケットから鍵を取り出し、浩一に差し出した。

「ほら。いい車だから大事に乗れよ」

「……言われなくても大事に乗るよ!」

 浩一は鍵を受け取ると、ようやく自分の新車に乗り込んだ。

 ドアを閉めると、車内には新しいシートや内装材の独特の香りが漂っていた。初めて嗅ぐ、自分の新車の匂いだった。

 本当なら、もっと感動していたはずだった。

 けれど、助手席の足元には、父親がどこかで買ったらしい缶コーヒーの空き缶が転がっていた。

「……親父ぃ!」

 浩一の声が、また家中に響いた。

 母親の笑い声が、玄関から聞こえてきた。

     *

「……お父さん?」

 美咲の声で、浩一は我に返った。

 目の前には新しいダッシュボードがあり、窓の外には見慣れた住宅街が広がっていた。美咲はまだ車を発進させず、助手席の父親を不思議そうに見ていた。

「何? さっきから一人でニヤニヤして」

「ああ、いや。ちょっと昔のことを思い出してな」

「何のこと?」

 浩一は少し笑ってから、三十年ほど前の出来事を話し始めた。

 初めて新車を買ったこと。納車の日を指折り数えて待っていたこと。いくら待っても車が来ず、ディーラーに電話したら父親が鍵を受け取っていたこと。

 そして、本人より先に新車を乗り回して帰ってきた父親が、満面の笑みで「新車はいいなぁ」と言ったこと。

 話を聞き終える頃には、美咲は声を上げて笑っていた。

「あははは! おじいちゃん、最高じゃん!」

「いや、乗られた方はたまったもんじゃなかったぞ。あのときは本気で腹が立ったんだからな」

「でも、おじいちゃんらしいねえ」

「まあ、そうなんだけどな」

 浩一も笑った。

 あのときは本当に腹が立った。何週間も楽しみにしていた新車を、よりによって父親に先に乗られるとは思ってもいなかった。

 けれど、今になって思い返すと、不思議と怒りは残っていなかった。代わりに浮かんでくるのは、運転席の窓を開けて満足そうに笑っていた父親の顔だった。

 正雄は数年前に亡くなっていた。

 晩年まで車が好きで、家族を乗せて出かけることを楽しみにしていた。年を取って運転をやめてからも、浩一が車を買い替えるたびに「今度のは乗り心地がよさそうだな」と嬉しそうに眺めていたものだった。

 もし今、美咲の新車を見たら、きっと目を輝かせただろう。

 そして、隙があればまた先に運転席へ座ってしまったかもしれない。

 そう考えると、浩一は思わず笑ってしまった。

「何? また笑ってる」

「いや、おじいちゃんが生きてたら、お前の車も先に乗っちゃったかもしれないなと思ってさ」

「それは困るなあ。でも、ちょっと乗せてあげたかったかも」

 美咲はそう言って、ハンドルを軽く撫でた。

 浩一は娘の横顔を見つめた。自分が新車を買って浮かれていた頃、父親は今の自分と同じくらいの年齢だったのだろう。あのときは、自分の楽しみを横取りされたとしか思わなかったが、息子が新車を買ったことが、父親も嬉しかったのかもしれない。

 もちろん、だからといって先に乗っていい理由にはならない。

 けれど、あの悪気のない笑顔を思い出すと、今ではどうにも憎めなかった。

「ねえ、お父さん」

「ん?」

「ちょっと運転してみる?」

 美咲がそう言って鍵を差し出す仕草をしたので、浩一は思わず笑った。

「いや、遠慮しとくよ。お前の車だからな。最初はお前が存分に楽しめ」

「えー、別にいいのに」

「いいんだよ。俺は助手席で十分だ」

 美咲は笑いながらハンドルを握り直した。

「でもさ、お父さんもおじいちゃんに似てるところあるよね」

「どこが?」

「車のことになると、妙に嬉しそうなところとか」

「……そうか?」

「そうだよ。さっきから新車の匂い嗅いでニヤニヤしてるし」

 浩一は思わず笑った。

「まあ、車好きなのは親父譲りかもしれないな」

 美咲はエンジンをかけ、ゆっくりと車を走らせた。住宅街を抜けて大通りへ出ると、窓から柔らかな日差しが差し込んできた。

 浩一は助手席に深く腰を下ろし、流れていく景色を眺めた。

 新車の香りが、まだ車内いっぱいに漂っている。

 三十年前、自分が初めて新車を買った日の匂いと、何も変わらないように思えた。

 あの頃は、父親のことをまったく理解できなかった。自分より先に新車を乗り回すなんて、何を考えているんだと本気で怒ったものだった。

 けれど今、娘の助手席に座っていると、あのときの父親の気持ちが少しだけわかるような気がした。

 息子が一生懸命働いて買った新車。

 それが嬉しくて、つい自分も乗ってみたくなったのだろう。

 そう思うと、あの満足そうな顔が、また浮かんできた。

「いやあ、新車はいいなぁ!」

 浩一は思わず、父親の口調を真似してつぶやいた。

「何それ、おじいちゃんの真似?」

「ああ。こんな感じだったんだよ」

 美咲は声を上げて笑った。

 浩一も笑った。

 新車の香りに包まれながら、親子は買い物へ向かって走っていった。

 あの日、父親に先を越されて腹を立てた新車の匂いは、三十年の時を経て、思い出すたびに笑顔になれる香りへと変わっていた。

(第十一話 完)

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