第十二話 甘い麦茶
八月の午後、信子は古くからの知り合いである田辺芳江の家を訪ねていた。
用事といっても、町内の集まりで預かっていた書類を届けるだけだった。本当なら玄関先で済ませるつもりだったのだが、「こんな暑い日に来てくれたんだから、ちょっと涼んでいきなさいよ」と勧められ、結局、居間に上がることになった。
六十二歳になった信子は、最近、夏の暑さが以前にも増して厳しくなったように感じていた。家からここまで歩いてきたのは十分ほどだったが、それだけでも額には汗がにじみ、背中のブラウスが少し湿っていた。
「今年も暑いわねえ。昔はもう少し過ごしやすかった気がするんだけど」
信子がハンカチで汗を拭きながら言うと、芳江は台所へ向かいながら笑った。
「本当よね。昔だって暑かったけど、こんなに毎日暑かったかしら。ちょっと待っててね、冷たいもの持ってくるから」
居間には扇風機が回っていた。エアコンの涼しさとは違う、肌の上をゆっくり通り過ぎる風が心地よかった。信子は座布団に腰を下ろし、開け放たれた庭側の窓へ目を向けた。小さな庭には朝顔の鉢が置かれ、軒先の風鈴がときおり涼しげな音を立てている。
やがて芳江が、お盆に二つのコップを載せて戻ってきた。
「こんなお茶しかなくてごめんなさいね。うち、夏はいつも麦茶なのよ」
「まあ、ありがたいわ。ちょうど喉が渇いていたところなの」
信子は差し出されたコップを受け取った。中にはよく冷えた麦茶が入っていて、表面には細かな水滴がついている。
何気なくひと口飲んだ瞬間、信子は少し驚いた。
甘い。
麦茶の香ばしい風味のあとから、砂糖のやわらかな甘さが広がり、鼻の奥へ懐かしい香りが抜けていった。
信子は思わずコップを見つめた。
「あら……この麦茶、お砂糖が入ってるのね」
「ええ。うちは昔からそうなの。主人も私も、麦茶はちょっと甘い方が好きでね。変わってるでしょう?」
「いいえ、そんなことないわ。私も昔、こういう麦茶をよく飲んだの」
信子はもうひと口飲んだ。
冷たい麦茶が喉を通り、甘さが舌の上に残る。
その瞬間、遠い昔の夏が、鮮やかに蘇ってきた。
蝉の声。焼けたアスファルト。濡れた髪から滴る水。そして、町内会のおばちゃんが差し出してくれた、冷たい湯呑み茶碗。
あれは、信子がまだ小学生だった頃のことだった。
*
昭和五十年代の夏休みは、毎日が長かった。
朝起きると、すでに外では蝉が鳴いていた。窓を開ければむっとするような暑い空気が入ってきたが、それでも信子は、家の中でじっとしているのがもったいなくて仕方がなかった。
夏休みの宿題は、最初の数日だけ張り切って進めたものの、すぐに飽きてしまった。朝顔の観察日記は何日かまとめて書くようになり、計算ドリルは机の端に積んだままだった。
母親からは毎朝のように「宿題は終わったの?」と聞かれたが、信子は決まって「あとでやる」と答えていた。
そんな夏休みの中でも、特に楽しみにしていたのが、町内会のプール開放日だった。
信子の住む町内には中学校があり、夏休みの決まった日には、そのプールが町内の子供たちに開放されていた。学校の授業で使う大きなプールに、小学生でも入れるというのが嬉しくて、開放日が近づくと友達同士で何度も予定を確かめ合った。
「明日、プールの日だよね?」
「そうだよ。九時に公園で待ち合わせね」
「絶対遅れないでよ」
「信子こそ、寝坊しないでよ」
そんな約束をして、前の晩には水着とタオルを袋に詰めた。
当日の朝、信子はいつもより早く目を覚ました。朝食を食べ終えると、まだ出かけるには早いというのに、水着の入った袋を肩にかけて玄関をうろうろしていた。
「そんなに早く行っても、まだ開いてないわよ」
母親が台所から声をかける。
「わかってる。でも、みんな待ってるかもしれないし」
「約束は九時なんでしょう? まだ八時半じゃない」
「いいの。先に行ってる」
信子はサンダルをつっかけ、勢いよく家を飛び出した。
外へ出ると、夏の日差しがまぶしかった。道路の向こうでは陽炎が揺れ、電柱の上では蝉が競うように鳴いている。道端の草むらからは、青臭い夏の匂いが漂っていた。
公園へ着くと、すでに友達の恵子が待っていた。
「信子、早いじゃん!」
「恵子だって早いじゃない」
「だって楽しみだったんだもん」
二人は笑い合った。
やがて町内の子供たちが一人、また一人と集まってきた。学年も学校も違う子が混じっていたが、同じ町内に住んでいるというだけで、みんな顔見知りだった。普段はあまり遊ばない年上の子も、この日ばかりは一緒になって騒いでいた。
中学校までは歩いて十分ほどだった。子供たちは水着の袋を振り回しながら歩き、途中で誰かが蝉の抜け殻を見つけると、みんなで立ち止まって覗き込んだ。
「ほら、そんなところで遊んでないで、早く行くよ!」
引率の町内会のおじさんに声をかけられ、子供たちは慌てて歩き出した。
*
中学校の正門をくぐると、いつもとは違う景色が広がっていた。
普段は中学生しか入れない校舎の横を通り、プールの方へ向かう。更衣室の前には町内会のおじさんやおばちゃんたちがいて、子供たちの名前を確かめたり、注意事項を伝えたりしていた。
「走っちゃ駄目だよ。プールサイドは滑るからね」
「深いところには勝手に行かないこと」
「具合が悪くなったら、すぐ大人に言うんだよ」
子供たちは「はーい」と返事をしていたが、早く水に入りたくて仕方がなかった。
着替えを済ませてプールサイドへ出ると、独特の塩素の匂いが鼻をくすぐった。水面には夏の日差しがきらきらと反射し、向こう側には中学校の校舎が見えていた。
信子はその景色を見るだけで胸が弾んだ。
準備運動を終えると、いよいよプールに入ることになった。
「冷たーい!」
足を入れた途端、誰かが声を上げた。
信子もそっと水に入った。真夏の日差しで熱くなった体に、プールの水がひんやりと気持ちよかった。肩まで浸かると、思わず息を吸い込んだ。
しばらくすると、あちこちで水しぶきが上がり始めた。
泳ぎの得意な子は端から端まで競争し、まだうまく泳げない子は浅いところでバタ足の練習をしていた。年上の男の子たちは潜ってじゃんけんをしたり、どちらが長く息を止めていられるか競ったりしていた。
信子と恵子は、水をかけ合って遊んだ。
「えいっ!」
「ちょっと、顔にかけないでよ!」
「恵子だってさっきかけたじゃない!」
二人は笑いながら逃げ回った。ときどき年上の子に巻き込まれ、頭から水を浴びることもあったが、それさえ楽しかった。
信子は泳ぎが特別得意だったわけではない。学校の授業では、二十五メートルを泳ぎ切るのに苦労していた。それでも、この町内会のプールでは、上手に泳げるかどうかなど誰も気にしていなかった。
水の中で友達と笑い合うだけで、十分楽しかった。
プールサイドでは、町内会のおじさんたちが子供たちの様子を見守っていた。ときどき笛を吹いて注意を促し、ふざけすぎている子がいれば声をかけた。
「こら、押しちゃ駄目だぞ!」
「はーい!」
返事だけは元気だった。
信子たちは夢中になって遊び続けた。水に入ったばかりの頃は冷たかったはずなのに、いつの間にか体が慣れ、時間が過ぎるのも忘れていた。
けれど、しばらくすると唇が少し冷たくなり、指先の皮膚がふやけてきた。水から顔を出すたびに、肩へ当たる風がひんやりと感じられる。
それでも、まだ遊んでいたかった。
そのとき、プールサイドに笛の音が響いた。
「はーい、いったん上がって! 休憩だよー!」
町内会のおばちゃんの声だった。
子供たちからは「えーっ、もう?」という声が上がったが、誰も逆らわなかった。ぞろぞろとプールから上がり、濡れた足でコンクリートの上を歩いていく。
真夏の太陽に照らされたプールサイドは、足の裏が熱くなるほどだった。信子は慌ててサンダルを履き、タオルを肩にかけた。
水の中にいる間は気づかなかったが、外へ出ると体が少し冷えている。濡れた髪から水滴が落ち、肩にかけたタオルがひんやりしていた。
子供たちは日陰へ集められた。
そこには長机が置かれ、大きなやかんがいくつも並んでいた。
そして、その横には、町内会の集まりで使うような湯呑み茶碗がずらりと並んでいた。
白地に青い模様が入ったものや、縁に茶色い線のあるもの。形も大きさも少しずつ違っていて、いかにもいろいろなところから集めてきたような湯呑みだった。
信子はその光景を見ると、急に喉が渇いてきた。
「はいはい、順番に並んでね。慌てなくてもみんなの分あるから」
町内会のおばちゃんが、大きなやかんを持ち上げた。
湯呑みに注がれていくのは、よく冷えた麦茶だった。
「ほら、いっぱい遊んだんだから、ちゃんと飲みなさいよ」
信子の番になると、おばちゃんは湯呑みを一つ差し出してくれた。
「はい、信子ちゃん。冷たいよ」
「ありがとう!」
信子は両手で湯呑みを受け取った。外側はひんやりしていて、指先に水滴がついた。
そのまま口をつけ、ぐっと飲んだ。
冷たい麦茶が喉を通る。
そして、香ばしい麦の風味のあとから、やさしい甘さが広がった。
「あまーい!」
信子が思わず声を上げると、おばちゃんは笑った。
「お砂糖が入ってるからね。おいしいでしょう?」
「うん! すっごくおいしい!」
信子はもうひと口飲んだ。
家でも麦茶を飲むことはあったが、こんなに甘い麦茶は珍しかった。砂糖の甘さが麦茶の香ばしさと混ざり合い、鼻の奥までふわりと抜けていく。
プールで冷えた体に、なぜだかその甘さが嬉しかった。
隣では恵子が、同じように湯呑みを両手で持っていた。
「ねえ、信子。これ、おいしいね」
「うん。おかわりしたい」
「私も!」
二人は顔を見合わせて笑った。
飲み終わった湯呑みを返しに行くと、おばちゃんがまた麦茶を注いでくれた。
「はいはい。でも、あんまり一気に飲まないでね。お腹冷えちゃうから」
「はーい!」
信子は嬉しそうに返事をして、もう一度湯呑みを受け取った。
日陰では、子供たちが思い思いに休んでいた。タオルを頭から被っている子もいれば、友達と次は何をして遊ぶか相談している子もいる。町内会のおじさんたちは、プールの様子を確かめながら、子供たちがきちんと休んでいるか見守っていた。
おばちゃんたちは、空いた湯呑みを集めたり、麦茶を注いだりと忙しそうだった。
けれど、子供だった信子は、その手間を考えたことなどなかった。
プールに行けば、冷たい麦茶が用意されている。
喉が渇けば、おばちゃんが注いでくれる。
それが当たり前のことだと思っていた。
信子は湯呑みを両手で包み込みながら、遠くの空を見上げた。真っ青な空に白い雲が浮かび、校舎の向こうからは蝉の声が聞こえていた。
やがて休憩が終わると、子供たちは再びプールへ向かった。
「信子、早く!」
「待ってよ、恵子!」
二人は笑いながらプールサイドへ走りかけ、すぐにおじさんから「走るなよ!」と注意された。
慌てて歩き直し、顔を見合わせて笑った。
あの日の夏は、どこまでも続くような気がしていた。
*
「……信子さん?」
芳江の声に、信子はゆっくり顔を上げた。
目の前には、冷たい麦茶の入ったコップがあった。庭では風鈴が鳴り、扇風機が静かに回っている。
「あら、ごめんなさい。ちょっと昔のことを思い出していたの」
「昔のこと?」
「ええ。子供の頃、町内の中学校のプールが夏休みに開放されていたのよ。そこで飲んだ麦茶が、ちょうどこんな味だったの」
信子はコップを持ち上げ、もうひと口飲んだ。
甘くて香ばしい麦茶。
あの頃の湯呑み茶碗の感触まで、思い出せそうだった。
「へえ、学校のプールを町内で使わせてもらえたの?」
「そうなの。町内会のおじさんやおばちゃんが見ていてくれてね。みんなで泳いで、休憩になると麦茶を飲ませてもらったの」
「楽しそうねえ」
「楽しかったわよ。今みたいに特別な遊び道具があったわけじゃないけど、友達と一緒に水に入ってるだけで楽しくてね」
信子は笑った。
話しているうちに、次々と懐かしい顔が浮かんできた。
いつも一緒にプールへ行った恵子。泳ぎが得意で、みんなに自慢していた年上の男の子。休憩の笛が鳴るたびに「もうちょっと!」と粘っていた子。
そして、大きなやかんを持って、子供たちに麦茶を注いでくれた町内会のおばちゃんたち。
名前を思い出せない人もいた。
顔さえ、もうはっきりとは浮かばない人もいた。
それでも、あの麦茶の味だけは、こんなにも鮮やかに残っていた。
「不思議ねえ。何十年も前のことなのに、ひと口飲んだだけで、昨日のことみたいに思い出すんだから」
信子がそう言うと、芳江もうなずいた。
「食べ物や飲み物の味って、そういうことあるわよね。昔の家のご飯とか、誰かが作ってくれたものとか」
「そうねえ。本当にそう」
信子はコップの中を見つめた。
今になって考えると、あの麦茶を用意するのも大変だっただろう。
町内の子供たちが何十人も集まるのだから、普通のやかん一つでは足りなかったはずだ。誰かが朝早くから大量の麦茶を沸かし、砂糖を溶かし、冷まして、重たい容器をプールまで運んでくれていたのだろう。
湯呑み茶碗だって、あれだけの数を用意するのは簡単ではなかったはずだ。使い終われば洗わなければならないし、割れないように片づける手間もあったに違いない。
子供だった信子は、そんなことを考えもしなかった。
ただ、冷たくて甘い麦茶が嬉しかった。
「今思えば、町内会の人たちには本当にお世話になったのねえ」
信子がしみじみと言うと、芳江は優しく笑った。
「昔はそういうこと、よくあったものね。近所の子供はみんなで見てるようなところがあって」
「ええ。あの頃は当たり前だと思っていたけど、ありがたいことだったのね」
信子は窓の外へ目を向けた。
庭の朝顔が、風に揺れていた。
あの頃の夏は、今よりもずっと長かったように思う。朝から晩まで遊び、家に帰れば母親に叱られ、翌日にはまた友達と外へ飛び出していった。
もちろん、暑い日もあった。日差しに焼かれた道路は熱く、蝉の声は耳が痛くなるほど賑やかだった。それでも、夕方になればどこかから涼しい風が吹いてきて、夜には窓を開けて眠ることもできた。
夏休みが終わる頃には、真っ黒に日焼けした腕を友達と比べ合ったものだった。
あの中学校のプールは、今どうなっているのだろう。
信子はふと思った。
校舎は建て替えられたかもしれない。プールも新しくなったか、あるいはもう使われていないのかもしれない。
あの頃、一緒に遊んだ子供たちも、今ではみんな大人になっている。町内会のおばちゃんたちの中には、もう会えなくなった人もいるだろう。
けれど、あの日の夏は、信子の中で少しも色褪せていなかった。
「ねえ、芳江さん。この麦茶、もう少しいただいてもいいかしら」
「もちろん。たくさんあるから、遠慮しないで」
芳江は笑いながら立ち上がり、冷蔵庫から麦茶の入った容器を持ってきた。信子のコップにゆっくり注ぐと、琥珀色の麦茶が小さな音を立てて満ちていった。
「お砂糖、少し多かったかしら?」
「いいえ。ちょうどいいわ。子供の頃に飲んだのも、これくらい甘かった気がする」
信子は両手でコップを包み込んだ。
冷たさが手のひらに伝わってくる。
ふと、あの湯呑み茶碗を思い出した。
白地に青い模様の入った、少し厚みのある湯呑み。濡れた小さな手で両側から包み込み、こぼさないように飲んだ、あの甘い麦茶。
信子は目を細めた。
「不思議ねえ。あんなに暑かった夏なのに、思い出すのは冷たいプールの水と、甘い麦茶のことばかり」
芳江は静かに笑った。
「それだけ楽しかったのね」
「ええ。本当に、楽しかったわ」
信子はもうひと口、麦茶を飲んだ。
香ばしい麦の匂いが鼻を抜け、やさしい甘さが口の中に広がった。
目を閉じれば、今でも聞こえてきそうだった。
プールの水しぶき。
友達の笑い声。
休憩を知らせる笛の音。
そして、あの懐かしい声。
『はい、信子ちゃん。冷たいよ』
信子は小さく微笑んだ。
あの夏の日、湯呑み茶碗いっぱいに注いでもらった麦茶には、砂糖だけではない、たくさんの優しさが溶け込んでいたのかもしれない。
そんなことを思いながら、信子は残りの麦茶をゆっくりと味わった。
(第十二話 完)




