第十三話 古本屋の匂い
勇気がその町を訪れたのは、十月の半ばだった。
地方の小さな美術館で開かれている漫画原画展を見に行った帰りで、駅へ着いたときには、次の電車まで四十分以上あることがわかった。
「四十分か……」
ホームの時刻表を見上げながら、勇気は小さくつぶやいた。
五十三歳になった今でも、地方の電車の本数の少なさにはなかなか慣れない。普段ならスマートフォンを眺めながら待つところだったが、今日はどうにもそんな気分になれなかった。
改札を出て駅前を見渡すと、古びた商店街が目に入った。
昔ながらの食堂、シャッターの下りた洋品店、看板の文字が薄くなった時計屋。駅前の一角だけが、何十年も前から時間を止めているようだった。
その並びに、小さな古本屋があった。
間口は狭く、ガラス戸の向こうには天井近くまで積み上げられた本が見える。店先の木箱には文庫本や雑誌が並び、手書きの「均一百円」という札が立てかけられていた。
勇気は足を止めた。
「まだ、こういう店があるんだな」
今では古本といえば、大きな駐車場を備えたチェーン店が思い浮かぶ。明るい照明の下に本が整然と並び、漫画も小説も探しやすい。勇気も仕事の資料を探すため、ときどき利用していた。
けれど、目の前の店はそれとはまるで違っていた。
少し入りにくそうな雰囲気がありながら、なぜだか懐かしい。
電車まで時間もある。勇気は何となくガラス戸に手をかけた。
戸を引くと、からからと乾いた音がした。
「いらっしゃい」
店の奥から、年配の男性の声が聞こえた。
勇気が軽く会釈して中へ足を踏み入れた、その瞬間だった。
古い紙とインク、それに少し湿った木の匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。
新しい本の匂いとは違う。長い年月を経た紙が持つ、乾いているようで、どこか温かみのある独特の匂い。
勇気は思わず立ち止まった。
ああ、この匂いだ。
忘れていたはずの景色が、胸の奥からゆっくり浮かび上がってきた。
小さな店の薄暗い棚。積み重なった漫画本。母親の声。そして、幼い自分が両手で持っていた、表紙のない一冊の漫画。
あれは、勇気が小学二年生だった頃のことだった。
*
その日、勇気は母親と町へ買い物に出かけていた。
昭和五十年代の終わり頃だったと思う。
まだ家の近所には大きなスーパーがなく、少しまとまった買い物をするときには、母親と一緒にバスに乗って町の中心部まで出かけた。
勇気にとって、母親との買い物は退屈な時間でもあり、ちょっとした楽しみでもあった。
洋服屋や日用品店を何軒も回るのは面白くなかったが、帰りにお菓子を買ってもらえることがあったし、普段は通らない商店街を歩くのも嫌いではなかった。
その日も母親は、いくつかの店を回って買い物を済ませていた。
「勇気、もう少しだからね」
「まだあるの?」
「あと一軒だけ。そしたら帰ろうね」
勇気は少し不満そうにうなずいた。
ところが、商店街を歩いている途中で、母親がふと足を止めた。
「あっ、そうだった」
「どうしたの?」
「お母さん、ちょっと寄らなきゃいけないところがあったんだ」
「えー、まだあるの?」
「ごめんね。でも、すぐ済むと思うから」
母親は辺りを見回した。
用事のある場所は、子供が一緒に行っても退屈するだけのところだったらしい。どうしたものかと考えていた母親の目に、通り沿いの小さな古本屋が留まった。
「あ、そうだ。勇気、本でも見て待ってる?」
「本?」
「漫画もあるみたいよ」
その言葉に、勇気の表情が少し明るくなった。
母親は古本屋の戸を開け、店の人に声をかけた。
「すみません。少しの間、この子に本を見せていただいてもいいですか?」
店番をしていた白髪交じりのおじさんは、新聞から顔を上げて笑った。
「ああ、いいですよ。ゆっくり見ていきな」
母親は勇気の方へ向き直った。
「じゃあ、ここで待っててね。百円までなら、一冊好きなのを買っていいから」
「本当?」
「本当。でも、百円までよ」
「うん!」
勇気は元気よく返事をした。
母親は店のおじさんにもう一度頭を下げると、「すぐ戻ってくるからね」と言い残して出ていった。
勇気は一人、店の中を見回した。
そこは、初めて入る古本屋だった。
天井近くまである棚に、漫画や小説、雑誌がぎっしりと詰め込まれている。床には本の入った段ボール箱が置かれ、棚の上にも横向きに本が積み重ねられていた。
窓から差し込む光は弱く、店の奥は少し薄暗かった。
そして、店全体に独特の匂いが漂っていた。
古い紙の匂い。
インクの匂い。
何人もの人の手を渡ってきた本だけが持つ、不思議な匂いだった。
勇気は最初、どこを見ればいいのかわからなかった。
漫画なら知っている。テレビで見ている『ドラえもん』や『オバケのQ太郎』は好きだったし、友達の家で漫画を読ませてもらったこともある。
けれど、こんなにたくさんの本が並んでいるところに来たのは初めてだった。
勇気は棚の背表紙を一冊ずつ眺めていった。
やがて、見慣れた名前を見つけた。
「あっ、ドラえもんだ!」
思わず声が出た。
棚には『ドラえもん』の単行本が何冊も並んでいた。
勇気は嬉しくなって、一冊を手に取った。色鮮やかな表紙には、テレビでおなじみのドラえもんとのび太が描かれている。
ところが、裏返して値札を見ると、百八十円と書かれていた。
「……百八十円」
勇気は小さくつぶやいた。
母親との約束は百円までだった。
隣の巻を手に取ってみる。
百五十円。
その隣は二百円。
どれも百円を超えていた。
勇気はしばらく棚の前で考え込んだ。
お母さんに頼めば、少しくらいなら出してくれるかもしれない。でも、百円までと言われたのだから、それ以上の本を持っていくのは気が引けた。
何より、約束を破って叱られるのは嫌だった。
勇気は残念そうに『ドラえもん』を棚へ戻した。
ほかに百円で買える漫画はないだろうか。
そう思って、今度は棚の下の方を覗き込んだ。
すると、奥の方に少し変わった本があることに気づいた。
ほかの漫画よりもくたびれていて、背表紙には何も描かれていない。表紙もなく、むき出しになった紙の表面には細かな傷がついていた。
勇気はその本を引っ張り出した。
最初のページを開く。
そこに描かれていたのは、見慣れた丸い顔だった。
「……ドラえもん?」
勇気は目を丸くした。
それは『ドラえもん』の第九巻だった。
表紙がなくなっているせいで、棚に並んでいてもひと目ではわからなかったのだ。
勇気は慌てて本を裏返した。
小さな値札には、鉛筆でこう書かれていた。
八十円。
「八十円だ!」
思わず顔がほころんだ。
表紙はないし、ページの端は少し黄ばんでいる。それでも中を開けば、ちゃんとドラえもんとのび太がいる。ページが抜けている様子もなかった。
勇気はその場にしゃがみ込み、夢中になって読み始めた。
テレビで知っているドラえもんが、紙の上でも動き回っていた。
ページをめくるたびに新しい話が始まり、のび太が失敗すれば笑い、ドラえもんが不思議な道具を出せば、こんな道具が本当にあったらいいのにと想像した。
テレビなら番組が終わればそれでおしまいだったが、漫画は違った。
気に入った場面を何度でも読み返せる。
面白かったところでページを戻し、もう一度笑うこともできる。
勇気は、そんな当たり前のことが新鮮だった。
「勇気」
ふいに母親の声がした。
顔を上げると、用事を済ませた母親が店の入り口に立っていた。
「あら、もう見つけたの?」
「うん! これ!」
勇気は嬉しそうに本を差し出した。
母親は受け取ると、少し驚いたような顔をした。
「あら、表紙がないじゃない」
「うん。でも、ドラえもんの九巻なんだよ」
「本当ね。だけど、こんなに古くていいの? ほかの本でもいいのよ」
「これがいい!」
勇気は即座に答えた。
「だって、ちゃんと読めるもん。それに八十円だよ。百円より安いんだよ」
母親はその言い方がおかしかったのか、ふっと笑った。
「そうね。ちゃんと約束も守ってるものね」
母親は店のおじさんに本を渡し、八十円を支払った。
おじさんは古い紙袋に漫画を入れながら、勇気に言った。
「いいのを見つけたな、坊や」
「うん!」
勇気は誇らしげに答えた。
店を出ると、外はまだ明るかった。
母親と並んで商店街を歩きながら、勇気は何度も紙袋の中を覗き込んだ。
「そんなに嬉しいの?」
「うん。帰ったらすぐ読む」
「さっきも読んでたじゃない」
「まだ全部読んでないもん」
母親は笑い、勇気の手を取った。
その手の温かさと、紙袋の中の八十円の漫画。
勇気にとっては、それだけで十分に楽しい買い物だった。
*
家に帰ると、勇気はさっそく『ドラえもん』を読み始めた。
夕飯の時間になってもなかなか本を閉じようとせず、母親から「ご飯のときくらい片づけなさい」と注意された。
寝る前にも読み、翌朝起きるとまた読んだ。
何度も読み返しているうちに、話の順番や台詞まで覚えてしまった。それでも飽きることはなかった。
やがて勇気は、ほかの巻も読みたくなった。
小遣いを貯めて古本屋へ行き、少しずつ漫画を買い足した。友達と貸し借りすることも増え、気づけば家の本棚には漫画が何冊も並ぶようになっていた。
そして、読むだけでは物足りなくなった。
学校のノートの端にドラえもんの顔を描き、のび太に似た男の子を描き、やがて自分で考えた登場人物を動かすようになった。
最初は四コマ漫画だった。
友達に見せると、「これ面白いじゃん」と笑ってくれた。
その一言が嬉しくて、勇気はまた描いた。
中学生になると、漫画を描くためのペンやインクを買い、高校生になる頃には、自分なりの物語を何十ページも描くようになっていた。
もちろん、うまくいくことばかりではなかった。
初めて出版社へ投稿した作品は、何の賞にも引っかからなかった。次の作品も、その次も駄目だった。
それでも描くのをやめなかった。
面白い漫画を読み終えたときの、あのわくわくした気持ち。
自分も誰かに、あんな気持ちを味わってもらいたい。
それが、勇気の原動力だった。
二十代の半ばでようやく雑誌に作品が掲載され、三十代になって初めて単行本が出た。連載が続かず悩んだこともあったし、原稿を描き直してばかりの日々もあった。
それでも、五十三歳になった今、勇気は漫画を描くことを仕事にしていた。
世間の誰もが名前を知っているような漫画家ではない。
けれど、自分の描いた物語を楽しみに待ってくれる読者がいる。
それが嬉しかった。
思えば、ずいぶん遠くまで来たものだ。
たった八十円の、表紙のない一冊から。
*
勇気は古本屋の棚の前で、静かに息をついた。
店の奥では、店主が新聞をめくる音がしていた。
どこかで時計が時を刻んでいる。店の外からは、ときおり車の走る音が聞こえてきた。
勇気はゆっくりと漫画の棚へ歩いていった。
背表紙を眺めていると、懐かしい作品がいくつも目に入った。子供の頃に読んだもの、学生時代に夢中になったもの、同じ時代に漫画家を目指していた仲間の作品。
古本屋の棚には、いろいろな人の時間が並んでいた。
ふと、勇気の目が一冊の漫画に留まった。
「あれ……」
見覚えのある背表紙だった。
いや、見覚えがあるどころではない。
自分が描いた漫画だった。
十年ほど前に刊行された単行本の第一巻。連載が始まったばかりの頃の作品で、当時は毎週の締め切りに追われながら、必死になって描いていた。
勇気はそっと本を抜き取った。
表紙には、自分が考えた主人公が描かれている。
少し色褪せてはいたが、懐かしい顔だった。
ページをめくると、当時の絵柄が目に飛び込んできた。
「若いなあ……」
勇気は小さく笑った。
十年前の自分の絵は、今見ると少し気恥ずかしい。もっとこう描けばよかったと思うところもあるし、台詞を直したくなる場面もある。
けれど、その一ページ一ページに、当時の自分が必死になって向き合っていたことも覚えていた。
ふと裏表紙を見ると、小さな値札が貼られていた。
百五十円。
勇気は思わず吹き出しそうになった。
「百五十円か……」
昔なら、その値段で表紙付きの『ドラえもん』が買えたのだ。
あの頃の自分は百五十円を出せず、表紙のない八十円の漫画を選んだ。
そして今、自分の描いた漫画が、誰かに百五十円で売られている。
何とも不思議な気分だった。
自分の本が古本屋に並んでいることを、寂しいと感じる人もいるかもしれない。
けれど、勇気はそうは思わなかった。
この本は、いったいどんな人が買ってくれたのだろう。
通勤電車の中で読んだのかもしれない。夜、布団に寝転がりながら読んだのかもしれない。あるいは、子供が小遣いを貯めて買ってくれたのかもしれない。
誰かがこの本を手に取り、ページをめくり、そして何かの理由で手放した。
その本が、今ここにある。
勇気は表紙をそっと撫でた。
自分が小学二年生のときに買った『ドラえもん』だって、もとは誰かの本だった。
どんな人が読んでいたのかは知らない。なぜ表紙がなくなったのかもわからない。
けれど、その誰かが手放した一冊が、勇気の人生を変えたのだ。
そう考えると、古本屋という場所が、急に特別なものに思えた。
勇気は自分の漫画を棚へ戻した。
このままここに置いておこう。
もしかしたら、次に店を訪れた誰かが手に取ってくれるかもしれない。
それが子供だったら、なお嬉しい。
そんなことを考えながら、勇気はもう少し棚を眺めることにした。
何気なく下の段へ目を向けたとき、一冊の古い漫画が目に留まった。
表紙がなかった。
背表紙も傷み、ページの端は茶色く変色している。値札には百円と書かれていた。
勇気は思わずしゃがみ込んだ。
手に取って中を開いてみる。
知らない漫画だった。
絵柄からすると、かなり昔の作品らしい。聞いたことのない作者の名前が、最初のページに印刷されていた。
勇気は数ページをめくった。
古い絵柄だったが、登場人物の表情が生き生きとしている。話の続きも気になった。
気づけば、夢中になって読んでいた。
そのとき、勇気はふっと笑った。
五十三歳にもなって、古本屋の床近くにしゃがみ込み、表紙のない漫画を読みふけっている。
あの日の小学二年生の自分と、何も変わっていないじゃないか。
勇気は本を閉じた。
そして、その一冊を持ってレジへ向かった。
「これ、お願いします」
店主は新聞を畳み、勇気の差し出した漫画を受け取った。
「百円ですね」
勇気は財布から百円玉を取り出した。
店主は古い紙袋に漫画を入れながら、少し笑った。
「ずいぶん古い本ですよ。表紙もないし」
「ええ。でも、面白そうだったので」
「そうですか。それはよかった」
店主は紙袋を差し出した。
勇気はそれを受け取り、店を出た。
からからとガラス戸が閉まる。
外の空気に触れると、古本屋の匂いが少しずつ遠ざかっていった。
勇気は紙袋を見下ろした。
あの八十円の『ドラえもん』は、もう手元にはない。
引っ越しを重ねるうちに、いつの間にか見当たらなくなってしまった。今では『ドラえもん』を全巻揃えているし、もちろん第九巻もある。
けれど、どれほどきれいな第九巻を手に入れても、あの日の一冊とは違っていた。
表紙がなく、ページが黄ばんでいて、八十円の値札がついていた、あの一冊。
母親が買ってくれた、最初の漫画。
勇気は懐かしくなって、空を見上げた。
母親は今も元気に暮らしているが、あの日のことを話しても、きっと覚えていないだろう。
買い物の途中で子供を古本屋に預け、八十円の漫画を買ってやった。
母親にとっては、数えきれないほどある日常の、ほんの小さな出来事だったに違いない。
けれど勇気にとっては、そこから長い物語が始まっていた。
今度、実家に帰ったら聞いてみようか。
昔、古本屋で『ドラえもん』を買ってくれたこと、覚えてる?
たぶん母親は、首をかしげるだろう。
そして、「そんなこともあったかしらねえ」と笑うに違いない。
勇気はその顔を想像して、ひとりで微笑んだ。
駅へ戻ると、電車の到着まであと十分ほどだった。
ホームのベンチに腰を下ろし、紙袋から買ったばかりの漫画を取り出す。
表紙のない古い漫画。
ページを開くと、かすかに古い紙の匂いがした。
勇気はその匂いをゆっくり吸い込んだ。
あの日、初めて入った古本屋と同じ匂いだった。
遠くから電車の近づく音が聞こえてきた。
勇気は名残惜しそうに本を閉じ、紙袋へ戻した。
家に帰ったら、続きを読もう。
そんなことを考えている自分がおかしかった。
漫画を描く仕事を何十年も続けてきたのに、いまだに一冊の漫画を読むのが楽しみで仕方ない。
勇気は立ち上がり、ホームへ入ってきた電車を見つめた。
八十円の漫画を買ってもらったあの日、まさか自分が漫画家になるなんて、考えたこともなかった。
ただ、面白い漫画が読めることが嬉しかった。
それだけだった。
そして、今も。
勇気は紙袋を大切に抱え、電車に乗り込んだ。
窓際の席に座ると、膝の上の紙袋から、ほんのかすかに古本の匂いが漂ってきた。
それは、五十三歳になった勇気を、もう一度小学二年生に戻してくれる匂いだった。
(第十三話 完)




