第二十一話 木工用ボンドの匂い
八月も半ばを過ぎたというのに、リビングのテーブルには夏休みの宿題が広げられたままだった。
小学四年生の息子、悠斗が頭を抱えている。
「お父さん、工作って何作ればいいと思う?」
慎二は新聞から顔を上げた。
「工作かあ。まだ決まってなかったのか?」
「うん。絵は描いたし、読書感想文も終わったんだけど、工作だけ決まらないんだよ」
テーブルの上には、学校から配られた夏休みの宿題一覧が置かれていた。工作の欄には『身近な材料を使って、工夫した作品を作りましょう』と書かれている。
ずいぶん自由な課題だな、と慎二は思った。
自由というのは、一見簡単そうでいて、案外難しいものだ。何を作ってもいいと言われると、かえって何も思いつかなくなる。
「貯金箱とかどうだ?」
「去年作った」
「じゃあ、船は?」
「学校で作ったことある」
「飛行機は?」
「難しそう」
慎二は腕を組んだ。
自分が子供の頃、夏休みの工作に何を作っていたのか、すぐには思い出せなかった。貯金箱や昆虫の標本、木の切れ端を使った小物入れなど、いろいろ作ったような気もするが、記憶は曖昧だった。
「とりあえず、家にある材料を集めてみようか」
「うん!」
悠斗は元気よく返事をすると、自分の部屋へ走っていった。
しばらくして戻ってきた悠斗は、両手いっぱいに材料を抱えていた。空き箱、割り箸、厚紙、色画用紙、絵の具、ハサミ。それらをテーブルの上に広げると、最後に白い容器を置いた。
木工用ボンドだった。
黄色いラベルのついた、昔からよく見かける白い容器。赤いキャップが少し汚れていて、悠斗が普段から使っていることがわかった。
慎二は何となくそれを手に取った。
「懐かしいなあ、木工用ボンド」
「え? 今でも普通に使うよ?」
「いや、そうなんだけどさ。お父さんが小学生の頃も、これ使ってたんだよ」
慎二はキャップを回して開けた。
容器の先端には、乾いて半透明になったボンドが少し固まっていた。指でそれを取り除き、何気なく鼻を近づける。
つんとするほど強くはないが、少し酸っぱいような、すえたような独特の匂いがした。
慎二は思わず目を細めた。
「ああ……この匂いだ」
何十年ぶりだろう。
木工用ボンド自体は大人になってからも何度か使ったことがあるはずなのに、こうして匂いを意識したのは久しぶりだった。
その瞬間、慎二の頭の中に、ある夏休みの光景が浮かんできた。
畳の上に広げた新聞紙。
薄い木の板。
鉛筆で描いた線。
そして、隣に座っていた父親の姿。
あれは、慎二が悠斗と同じくらいの年頃だった夏休みのことだった。
*
小学四年生の夏、慎二は工作の宿題に頭を悩ませていた。
毎年のように出される夏休みの宿題だったが、絵や作文と違い、工作だけは何を作ればいいのか、いつも迷ってしまう。
友達の中には、夏休みに入る前から作るものを決めている子もいた。木で船を作る子、紙粘土で恐竜を作る子、空き箱を使って大きなロボットを作る子。そんな話を聞くたびに、慎二は焦っていた。
夏休みも半分ほど過ぎたある日、居間で宿題の紙を眺めていると、父親が声をかけてきた。
「慎二、何をそんなに考えてるんだ?」
「工作、何作ろうかなと思って」
「まだ決まってないのか?」
「うん。何かいいのない?」
父はしばらく考えてから、窓の外へ目を向けた。
当時、慎二の家は小さな庭のある一戸建てだった。玄関の横には父が植えた南天があり、庭の隅には物置が置かれていた。二階建てではなく、平屋の家だったが、慎二にとっては生まれたときから暮らしている大切な我が家だった。
「そうだなあ……うちの家を作ってみるか?」
「家?」
「そう。模型だよ。小さくした家を作るんだ」
慎二は首をかしげた。
「そんなの作れるの?」
「作れるさ。ちょっと手間はかかるけどな」
父はそう言って笑った。
その週末、父は慎二を連れて近所の模型店へ出かけた。
店にはプラモデルや模型用の塗料が並び、木材の棚にはさまざまな厚さの板が置かれていた。父が選んだのは、バルサ材という薄くて軽い木の板だった。
「これなら柔らかいから、切りやすいんだ」
慎二は板を手に取ってみた。
見た目よりずっと軽く、指で少し押すとへこんでしまいそうなほど柔らかかった。表面には細かな木目があり、顔を近づけると、ほんのり木の匂いがした。
父は何枚かのバルサ材と、細い角材、それから木工用ボンドを買った。
家に帰ると、居間の畳の上に新聞紙を敷き、作業が始まった。
まず父は、ノートに家の間取りを描いた。
玄関を入ると廊下があり、右側には居間、左側には和室がある。奥には台所と風呂場があり、廊下の突き当たりには慎二の部屋があった。
父はそれぞれの部屋の大きさをおおまかに測り、模型にするとどのくらいになるか考えた。
「本物とまったく同じにするのは難しいけど、だいたいの形がわかればいいんだ」
「僕の部屋も作る?」
「もちろん。慎二の部屋も作るぞ」
その言葉に、慎二は嬉しくなった。
父は厚紙に間取りを描き、それを土台にすることにした。そこへバルサ材で作った壁や柱を立てていくのだという。
慎二は定規で長さを測り、鉛筆で線を引いた。
父はカッターを使って、線に沿って板を切っていく。
「慎二もやってみるか?」
「うん!」
「じゃあ、手を切らないように気をつけろよ。定規はしっかり押さえて、無理に一度で切ろうとしないこと」
父に教わりながら、慎二は慎重にカッターを動かした。
柔らかいバルサ材は、思っていたよりも簡単に切れた。けれど、少し力を入れすぎると刃が曲がり、切り口が斜めになってしまう。
「あっ、曲がっちゃった」
「大丈夫、大丈夫。少しくらい曲がっても、あとで直せるよ」
父はそう言いながら、慎二が切った板を手に取った。
細かい部分や難しいところは父が手伝い、簡単な壁や柱は慎二が切り出した。
切った板が少しずつ増えていくと、畳の上には小さな木材がいくつも並んだ。
慎二はそれを見ているだけでも楽しかった。
やがて、壁を組み立てることになった。
父が木工用ボンドのキャップを開け、慎二に渡した。
「これでくっつけるんだ」
慎二は板の端にボンドを塗った。
白くて少しとろりとした液体が、細い線になって出てくる。指につくとべたべたするのに、乾くと薄い膜のようになって、するりと剥がれるのが面白かった。
慎二はつい多めに塗ってしまった。
「そんなにたくさんつけなくてもいいぞ」
「多い方がよくくっつくんじゃないの?」
「そうとも限らないんだ。はみ出したら拭かないと、あとで色を塗るときに困るからな」
父は笑いながら、余分なボンドを布で拭き取った。
慎二は壁を土台に立て、指で押さえた。
ところが、手を離すとすぐに倒れてしまった。
「あれ? くっつかないよ」
「そりゃそうだ。まだ乾いてないんだから」
「えー、すぐくっつくんじゃないの?」
「慌てるな、慌てるな。こういうのは待つのも仕事なんだ」
父は小さな木片を支えにして、壁が倒れないようにしてくれた。
慎二は少し不満そうに見ていたが、しばらくすると壁が動かなくなった。
「ほら、くっついたぞ」
「本当だ!」
慎二は嬉しくなって、次の壁を作り始めた。
作業は思っていた以上に時間がかかった。
壁を切り出し、窓の位置を決め、柱を立てる。部屋と部屋の間には仕切りを作り、玄関のところには小さな段差もつけた。
途中で寸法を間違え、壁がうまくはまらないこともあった。慎二が無理に押し込もうとすると、父は「ちょっと待て」と止め、板を少し削って調整してくれた。
父の手は大きく、指先もごつごつしていた。
それなのに、小さな木片を扱うときには驚くほど器用だった。
慎二は父の手元を見ながら、自分もこんなふうに上手に作れるようになりたいと思った。
何日かかけて壁や柱が組み上がると、模型は少しずつ家らしくなってきた。
居間、台所、和室、慎二の部屋。
まだ屋根はないが、上から覗くと、本当に自分の家の間取りになっていた。
「すごい! 本当にうちの家だ!」
慎二が歓声を上げると、父は満足そうに笑った。
「だろ? でも、まだ完成じゃないぞ」
「あと何するの?」
「色を塗らないとな。それから屋根も作ろう」
慎二はますます張り切った。
壁には薄いクリーム色を塗り、屋根には少し濃い茶色を使った。窓枠は細い筆で描き、玄関の扉には小さな取っ手までつけた。
屋根は取り外せるようにして、上から部屋の中が見えるようにした。
完成した模型は、少し歪んだところもあった。
壁のつなぎ目にはボンドがはみ出した跡があり、屋根の色もところどころ濃さが違っていた。
それでも慎二には、立派な家に見えた。
父と一緒に何日もかけて作った、自分だけの家だった。
「できたな、慎二」
父が言った。
「うん!」
「よく頑張ったな」
そう言って父が頭を撫でてくれたとき、慎二は胸がいっぱいになるほど嬉しかった。
*
夏休みが終わり、慎二は完成した模型を学校へ持っていった。
大きな箱に入れ、壊れないように気をつけながら教室まで運んだ。友達が集まってきて、「何それ?」「すごい!」「中まで作ってあるの?」と口々に声を上げた。
慎二は少し照れながら、屋根を外して中を見せた。
「これ、僕の家なんだ」
「えっ、本当に?」
「うん。お父さんと一緒に作ったんだ」
その日の工作の発表で、担任の先生も模型を褒めてくれた。
「慎二くん、よくできていますね。間取りまで考えて作ってあるのが素晴らしいです」
慎二は嬉しくて、思わず背筋を伸ばした。
さらに数日後、先生から思いがけないことを言われた。
「慎二くんの作品、しばらく廊下に飾らせてもらってもいいですか?」
慎二は驚いた。
「えっ、僕のですか?」
「そうですよ。ほかのクラスの子にも見てもらいたいので」
もちろん、断る理由などなかった。
模型は廊下の展示台に置かれ、作品名と慎二の名前を書いた紙が添えられた。
休み時間になると、慎二は何となく廊下へ出て、自分の作品を眺めた。
ほかのクラスの子が足を止めて模型を見ていると、何だか誇らしかった。
家へ帰ってその話をすると、父は自分のことのように喜んでくれた。
「そうか! 廊下に飾ってもらったのか!」
「うん。先生が、よくできてるって」
「それはよかったなあ。頑張った甲斐があったな」
父はそう言って、何度もうなずいた。
慎二はその顔を見て、また嬉しくなった。
模型が褒められたことも嬉しかったが、父がこんなに喜んでくれたことが、何より嬉しかった。
それから何年も経ち、模型がどうなったのかは覚えていない。
引っ越しのときに処分してしまったのかもしれないし、どこかの押し入れにしまわれたままになっていたのかもしれない。
けれど、父と一緒に作った夏休みのことは、不思議とはっきり覚えていた。
畳の上に広げた新聞紙。
バルサ材の柔らかな手触り。
カッターで板を切るときの緊張。
乾くまでじっと待っていた木工用ボンド。
そして、完成した模型を前に笑っていた父の顔。
あの夏休みは、慎二にとって特別な思い出になっていた。
*
「お父さん?」
悠斗の声に、慎二は我に返った。
目の前には、工作の材料が広がっている。
手には、木工用ボンドの容器があった。
「何してるの? ずっとボンド見てるけど」
「ああ、ごめんごめん。ちょっと昔のことを思い出してたんだ」
慎二はキャップを閉め、テーブルに置いた。
そうだ。
あのときの工作を、今度は悠斗と一緒に作ってみるのもいいかもしれない。
自分が父親に手伝ってもらったように、今度は自分が息子を手伝う。
バルサ材を切り出し、壁を作り、木工用ボンドで貼り合わせる。
きっと悠斗も喜ぶだろう。
慎二は急にいいことを思いついた気がして、身を乗り出した。
「悠斗、そうだ! いいこと思いついたぞ!」
「何?」
「お父さんが小学生の頃、夏休みの工作で家の模型を作ったんだよ」
「家の模型?」
「そう。自分が住んでる家を、小さく作るんだ。壁とか柱とか、ちゃんと間取りに合わせて作ってさ。屋根もつけるんだぞ」
悠斗は少し興味を示した。
「へえ。そんなの作ったの?」
「ああ。おじいちゃんに手伝ってもらいながらな。木の板を切って、ボンドで貼り合わせて、最後に色を塗って完成させたんだ」
「すごいじゃん」
「だろ? 学校でも褒められて、廊下に飾ってもらったんだぞ」
慎二は少し得意になっていた。
あの頃の父の姿を思い出しながら、自分も悠斗と一緒に模型を作っているところを想像した。
きっと楽しいに違いない。
木材を買いに行って、寸法を測って、少しずつ組み立てる。
途中で失敗しても、一緒に直せばいい。
完成したら、二人で眺めながら喜びたい。
慎二はすっかりその気になっていた。
「そうだ、悠斗。お前も自分の家を作ってみたらどうだ?」
悠斗はしばらく考えた。
そして、何かに気づいたように顔を上げた。
「……お父さん」
「ん?」
「うち、マンションだよ?」
「うん?」
「マンション全部作るの?」
慎二は口を開きかけた。
「いや、そういうわけじゃ……」
「何階建てだと思ってんの?」
「いや、だから……」
悠斗はテーブルの上の小さな木片を見つめ、それから父親の顔を見た。
「無理ー!」
(第二十一話 完)




