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第二十二話 雪の匂い

 十二月のある朝、直人はいつもより少し早く目を覚ました。

 布団の中にいても、外がひどく冷え込んでいることがわかった。暖房のタイマーが入るまでにはまだ少し時間があり、寝室の空気は冷たく、布団から出るのがためらわれた。

 それでも仕事に行かないわけにはいかない。直人は意を決して布団を抜け出し、寝間着の上に厚手の上着を羽織った。

 リビングでは妻の由紀が朝食の準備をしていた。

「おはよう。今日はずいぶん寒いね」

「ああ。布団から出るのが嫌になるよ」

「天気予報じゃ、午後から雪になるかもしれないって」

「雪か……」

 直人は思わず顔をしかめた。

 雪が降ると聞いても、今の直人には楽しみなどほとんどなかった。車通勤なので道路の凍結が気になるし、積もれば雪かきもしなければならない。普段なら三十分ほどで着く会社まで、一時間以上かかることもある。

 それに、雪の日は何かと気を遣う。

 滑らないように歩き、車の運転にも神経を使い、会社に着く頃には仕事を始める前から疲れてしまう。

「できれば降らないでほしいなあ」

 直人はそうつぶやきながら、温かいお茶を飲んだ。

 朝食を済ませ、着替えを終えると、直人は鞄を持って玄関へ向かった。

 靴を履き、ドアを開ける。

 その瞬間、冷たい空気が頬に触れた。

「うわ、寒っ……」

 思わず首をすくめた直人だったが、外へ一歩踏み出したところで、ふと足を止めた。

 何かが、いつもの朝と違っていた。

 空気が冷たいのはもちろんだが、それだけではない。

 鼻から息を吸い込むと、つんとするような冷たさの奥に、わずかな湿り気が感じられた。雨の前とも違う、土の匂いとも違う、何とも言い表しにくい冬の空気だった。

 空を見上げると、低く垂れ込めた灰色の雲が広がっている。

 まだ雪は降っていない。

 それなのに、直人には何となくわかった。

「……こりゃ、雪になるな」

 子供の頃から知っている、あの感覚だった。

 冷たく澄んでいるようで、どこか湿り気を帯びた空気。いつもより遠くの音が静かに感じられ、街全体が何かを待っているような朝。

 雪が降りそうな匂い。

 直人はもう一度、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 すると、その冷たい空気とともに、遠い昔の冬の朝が蘇ってきた。

     *

 直人が小学生だった頃、冬は一年の中でも楽しみな季節だった。

 もちろん寒いのは嫌だったし、朝、布団から出るのも苦手だった。それでも雪が降るとなれば、話は別だった。

 天気予報で雪のマークが出た夜など、翌朝が待ち遠しくてなかなか眠れなかった。

 寝る前には何度も窓の外を覗き、まだ降っていないとわかっていても、暗い空を見上げたものだった。

 ある冬の朝、直人はいつもより早く目を覚ました。

 前の晩、天気予報で雪が降るかもしれないと言っていたからだ。

 布団から飛び起きると、真っ先に窓へ向かった。

 カーテンを開けて外を覗いたが、庭にはまだ雪が積もっていなかった。

「なんだ、降ってないじゃん」

 少しがっかりしたものの、空は厚い雲に覆われていた。

 直人は窓を少し開けた。

 途端に、冷たい空気が顔に当たった。

 鼻の奥がつんとするような寒さだったが、その空気を吸い込んだ瞬間、直人の胸は弾んだ。

「あ、雪の匂いがする!」

 母親にそう言うと、台所から笑い声が返ってきた。

「雪の匂いって、どんな匂いなの?」

「わかんないけど、雪が降りそうな匂い!」

「そうなの? じゃあ、本当に降るかもしれないね」

 母はそう言いながら、朝食の味噌汁をよそっていた。

 直人は急いで朝ご飯を食べ、ランドセルを背負った。

 普段なら母に何度も急かされなければ出かけないのに、雪が降りそうな朝だけは別だった。

「行ってきまーす!」

「はい、行ってらっしゃい。寒いから手袋していきなさいよ!」

 玄関で手袋をはめると、直人は勢いよく外へ飛び出した。

 通学路では、友達の健一が待っていた。

「おい、直人! 今日、雪降るらしいぞ!」

「知ってる! 俺、朝から雪の匂いがしたもん!」

「何だよ、雪の匂いって」

「あるんだって! 何となくわかるんだよ!」

 二人はそんなことを言い合いながら、学校へ向かった。

 歩いている途中、空から白いものがひとつ、ふわりと落ちてきた。

 直人は立ち止まった。

「……あっ!」

 手袋をした手を差し出すと、小さな雪がその上に落ちた。

「雪だ!」

 健一も空を見上げた。

「本当だ! 降ってきた!」

 二人は大喜びだった。

 最初はちらほらと舞っているだけだった雪が、学校へ着く頃には少しずつ数を増やしていた。

 教室でも、子供たちは落ち着かなかった。

 窓際の席に座っている子が「また降ってきた!」と言うたびに、何人もの子が窓へ集まった。先生に「授業中ですよ」と注意されても、気になるものは仕方がなかった。

 休み時間になると、直人たちは真っ先に外へ飛び出した。

 校庭にはまだうっすらとしか雪が積もっていなかったが、それでも十分だった。

 手のひらで雪をかき集め、小さな雪玉を作る。友達に向かって投げると、今度は向こうからも雪玉が飛んできた。

 冷たい雪が首筋に入っても、直人は笑っていた。

 午後になると雪はさらに強くなり、校庭は白く染まっていった。

 帰り道には、道路の端にも雪が積もり始めていた。

 直人は友達とわざわざ雪の多いところを歩き、長靴で踏みしめる感触を楽しんだ。

 誰も踏んでいない雪に足跡をつけるのが面白くて、いつもより遠回りして帰った。

 家に着く頃には、手袋はびしょびしょになっていた。

「ただいま!」

 玄関を開けると、母が呆れた顔をした。

「まあ、そんなに濡れて。手袋までぐっしょりじゃない」

「だって、雪がいっぱい降ったんだよ!」

「わかってるわよ。ほら、早く脱いで。風邪ひくわよ」

 母は濡れた手袋を受け取り、ストーブの近くに干してくれた。

 冷えきった手を温めながら、直人は窓の外を見つめた。

 雪はまだ降り続いていた。

 庭の植木にも、物置の屋根にも、白い雪が少しずつ積もっていく。

 直人はそれが嬉しくて仕方がなかった。

「明日、もっと積もるかなあ」

「どうだろうねえ」

「いっぱい積もったら、健一たちと雪だるま作るんだ!」

 母は笑いながら、温かいココアを差し出してくれた。

 直人は両手でカップを包み、窓の外を眺めながら飲んだ。

 雪の日のココアは、いつもより美味しく感じられた。

     *

 翌朝、直人が目を覚ますと、窓の外は真っ白だった。

 庭も道路も、昨日までとはまるで違う景色になっていた。

「やったー!」

 直人は大声を上げ、パジャマのまま窓へ駆け寄った。

 雪は思っていた以上に積もっていた。

 庭の植木は半分ほど埋まり、門から玄関までの通路にも、たっぷりと雪が積もっている。

 早く外へ出たくて仕方がなかった。

 ところが、朝食を食べようと居間へ行くと、父親の姿がなかった。

「お父さんは?」

 母に尋ねると、母は窓の外を指さした。

「外で雪かきしてるわよ」

 見ると、父は長靴を履き、厚手の上着を着て、スコップで雪を片づけていた。

 玄関から門までの通路を作り、車の周りに積もった雪を少しずつ寄せている。

 直人はその姿を見て、何となく不思議に思った。

 こんなに雪が積もっているのに、どうしてお父さんは遊ばないのだろう。

 雪だるまだって作れるし、雪合戦だってできるのに。

 父は黙々とスコップを動かしていた。

 ときどき腰を伸ばし、白い息を吐いている。

 直人は窓を開けて声をかけた。

「お父さーん! いっぱい積もったね!」

 父は振り返り、笑った。

「そうだなあ。ずいぶん積もったな」

「早く雪だるま作ろうよ!」

「ちょっと待ってくれ。まず雪かきしないとな」

「えー、まだ終わらないの?」

「これだけ積もってるからなあ」

 父はそう言って、またスコップを動かし始めた。

 直人は少し残念だったが、すぐに友達と遊ぶことを考え始めた。

 その日の午後、父は雪かきを終えると、直人と一緒に庭で雪だるまを作ってくれた。

 大きな雪玉を転がすのは思った以上に大変で、直人一人ではなかなか持ち上げられなかった。

 父が手伝ってくれたおかげで、庭には直人の背丈ほどもある雪だるまができた。

 目には小石を使い、鼻には母からもらった人参を差した。

 出来上がった雪だるまを前に、直人は大満足だった。

 父は少し疲れた顔をしていたが、直人が喜んでいるのを見て、嬉しそうに笑っていた。

 あの頃の直人にとって、雪はただ楽しいものだった。

 降れば嬉しく、積もればもっと嬉しい。

 雪かきの大変さも、道路が滑りやすくなることも、車が動かしにくくなることも、ほとんど考えたことがなかった。

 雪が積もれば、大人たちが朝早くから片づけてくれていた。

 そのおかげで、自分たちは安心して学校へ行き、思い切り雪遊びができていたのだ。

 けれど、そんなことに気づくのは、ずっとあとのことだった。

     *

「お父さーん!」

 背後から元気な声が聞こえた。

 直人が振り返ると、小学二年生の息子、陽太が玄関から顔を出していた。

 まだ寝癖のついた髪のまま、上着も着ずに外を覗いている。

「おいおい、寒いぞ。ちゃんと上着着てこいよ」

「ねえ、お父さん! 今日、雪降るかな?」

 陽太は目を輝かせていた。

 その顔を見た瞬間、直人は思わず笑ってしまった。

 ああ、昔の俺と同じ顔をしてるな。

 直人は空を見上げた。

「たぶんな。午後から降るかもしれないって」

「やったー!」

 陽太は両手を上げて喜んだ。

「いっぱい積もるかな? 雪だるま作れるかな?」

「どうだろうなあ。積もるかもしれないけど」

「じゃあ、明日、雪合戦しようよ!」

 直人は苦笑いした。

「お父さんは、まず雪かきしなきゃいけないんだけどな」

「えー、雪かき?」

「そうだよ。雪が積もったら、玄関の前も片づけなきゃいけないし、車の雪も下ろさなきゃならないんだ」

 陽太は不思議そうな顔をした。

「雪って、遊ぶためにあるんじゃないの?」

 直人は思わず吹き出した。

「そうだったらいいんだけどなあ」

 陽太は少し考えてから尋ねた。

「お父さんも、子供の頃は雪好きだった?」

「ああ、大好きだったよ。雪が降るって聞いたら、嬉しくて眠れないくらいだったな」

「じゃあ、今も好き?」

「今は……そうだなあ」

 直人は少し考えた。

 雪かきは大変だし、道路は混む。車の運転にも気を遣うし、仕事に行くのも一苦労だ。

 できれば降らないでほしいと思っていたのは、ほんの数分前のことだった。

「今は、ちょっと困るかな」

「なんで?」

「大人になると、雪が降ったらやらなきゃいけないことが増えるんだよ」

 陽太は納得したような、していないような顔でうなずいた。

「ふーん。大人って大変だね」

「そうだなあ」

 直人は笑いながら答えた。

 そのとき、ふと昔の父親の姿が思い浮かんだ。

 真っ白な庭で、黙々とスコップを動かしていた父。

 雪だるまを作ろうとせがむ自分に、雪かきが終わるまで待ってくれと言っていた父。

 あの頃は、どうして父がすぐに遊んでくれないのか、不思議で仕方がなかった。

 けれど今なら、よくわかる。

 雪かきを終えたあとで、疲れているはずなのに一緒に雪だるまを作ってくれたことも。

 父はきっと、自分が喜ぶ顔を見たかったのだろう。

 直人は陽太の頭を軽く撫でた。

「なあ、陽太」

「何?」

「もし雪が積もったら、明日は一緒に雪だるま作るか」

 陽太の顔がぱっと明るくなった。

「本当!?」

「ああ。ただし、お父さんの雪かきが終わってからな」

「うん! 僕も手伝う!」

「お、そうか。それは助かるな」

「そしたら早く終わるでしょ?」

「そうだな。二人でやれば早いかもしれないな」

 陽太は嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見ていると、直人まで少し楽しみになってきた。

 雪が積もれば、明日の朝はきっと大変だろう。

 早起きして雪かきをして、車の周りを片づけて、道路の様子も確かめなければならない。

 それでも、そのあとには陽太と雪だるまを作る約束がある。

 そう思うと、雪も少しだけ悪くない気がした。

 直人はもう一度、冬の空気を吸い込んだ。

 鼻の奥に広がる、冷たく湿ったあの匂い。

 子供の頃、胸を躍らせていた雪の匂いだった。

 あの頃は、雪が降るのをただ楽しみにしていた。

 今では、雪が降ると聞けば、真っ先に雪かきや通勤の心配をしてしまう。

 けれど、雪を待ちわびる陽太の顔を見ていると、忘れかけていた気持ちが少しずつ蘇ってくるようだった。

「お父さん!」

 陽太が空を指さした。

「見て! 雪!」

 直人が見上げると、灰色の空から小さな白いものがひとつ、ふわりと舞い降りてきた。

 続いて、もうひとつ。

 やがて、ちらちらと白い雪が舞い始めた。

「やったー! 降ってきた!」

 陽太は大喜びで両手を広げた。

 直人も手のひらを差し出した。

 小さな雪がひとつ、指先に落ちて、すぐに溶けた。

 何十年も前、通学路で友達と雪を見つけたときのことが思い出された。

 あの頃の自分も、きっとこんなふうに空を見上げていたのだろう。

「お父さん、いっぱい積もるといいね!」

 陽太が嬉しそうに言った。

 直人は笑いながら、息子の頭に手を置いた。

「いや、ほどほどでいいよ」

 陽太は不満そうに口を尖らせたが、すぐにまた空を見上げた。

 直人も隣に並び、ゆっくりと舞い始めた雪を眺めた。

 同じ空を見上げ、同じ冷たい空気を吸い込んでいるのに、親子が考えていることはずいぶん違う。

 それでも、雪が降り始めた朝を、こうして一緒に迎えられるのは悪くなかった。

 直人は白い息を吐きながら、ふと笑った。

 子供の頃は、雪が積もるのを待っていた。

 大人になった今は、雪が積もる前にやることを考えている。

 けれど、いつか陽太も大人になり、同じように雪かきの心配をする日が来るのだろう。

 そのとき、今日のような朝を思い出してくれたら嬉しい。

 直人はもう一度、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 雪が降りそうな、あの懐かしい匂い。

 それは、子供の頃の自分と、今の息子をつないでくれる、冬の匂いだった。

(第二十二話 完)

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