第二十話 しょうゆラーメン
日曜日の夕方、茂は家族を乗せた車を走らせていた。
今日は久しぶりに家族全員の休みが重なり、少し遠くのショッピングモールまで出かけていた。妻の洋子は欲しかった靴を買い、大学生の息子の健太は新しい服を選び、高校生の娘の美穂は雑貨屋を何軒も覗いていた。
茂も特に買うものはなかったが、家族が楽しそうに買い物をしている姿を見るのは嫌いではなかった。昼食を食べる時間も惜しんで店を回っていたせいで、帰り道には全員のお腹がすっかり空いていた。
「ねえ、お父さん。お腹すいた」
後部座席から美穂が声をかけた。
「そうだな。どこかで食べて帰るか」
「私、中華がいいな。エビチリ食べたい」
助手席の洋子も賛成した。
「それなら、駅の近くの中華屋さんはどう? 前に行ったとき美味しかったじゃない」
「ああ、あそこか。いいな」
茂は交差点を右に曲がり、駅前の商店街へ車を向けた。
その店は昔からある町の中華料理屋で、赤い暖簾と少し色あせた食品サンプルが目印だった。店内には四人掛けのテーブルがいくつか並び、奥の厨房からは中華鍋を振る威勢のいい音が聞こえてくる。
家族で席に着くと、それぞれメニューを広げた。
「俺、酢豚定食にする」
健太が真っ先に決めた。
「私はエビチリ定食」
美穂も迷わず注文を決める。
洋子はしばらくメニューを眺めてから、麻婆豆腐定食にすることにした。
「あなたは?」
そう尋ねられた茂は、メニューを閉じた。
「俺は、しょうゆラーメンの大盛り」
洋子は思わず笑った。
「ほんとにあなたって、しょうゆラーメンが好きよね。せっかく中華屋さんに来たんだから、たまには違うものを食べればいいのに」
「そう言われてもなあ。何だかんだで、これが一番食べたくなるんだよ」
「お父さん、どこの店に行ってもしょうゆラーメンだもんね」
美穂まで笑いながら言った。
茂は苦笑いを浮かべたが、確かにその通りだった。
ラーメン屋に行っても、中華料理屋に行っても、まず目が向くのはしょうゆラーメンだった。最近は豚骨や味噌、塩ラーメンなど、いろいろな種類がある。もちろん、それぞれ美味しいと思うのだが、結局はしょうゆラーメンに戻ってしまう。
どうしてそんなに好きなのだろう。
改めて考えてみると、はっきりした理由など思いつかなかった。
やがて厨房から、しょうゆと鶏ガラの混じった懐かしい香りが漂ってきた。
茂はその香りに、ふと目を細めた。
そういえば、昔から好きだったな。
子供の頃、家で出前を取るときも、いつもしょうゆラーメンを頼んでいた気がする。
そこまで考えたとき、茂の頭の中に、一人の懐かしい人物が浮かんできた。
父親の兄である、伯父の正一だった。
*
茂が小学生だった頃、伯父の正一はときどき家に遊びに来ていた。
正一は茂の父より五つ年上で、身体が大きく、声もよく通る人だった。いつも豪快に笑い、話し始めると止まらない。仕事の話や昔の思い出を面白おかしく聞かせてくれるので、茂は伯父が来るのを楽しみにしていた。
正一が家に来ると、決まって夕食は近所の中華料理屋から出前を取ることになっていた。
その店は商店街の外れにある小さな中華屋で、家族でも何度か食べに行ったことがあったが、伯父が来る日は家でゆっくり食べようということになる。
父が電話帳の横に置いてある店のメニューを取り出すと、正一は決まって同じことを言った。
「俺はしょうゆラーメンの大盛りな!」
メニューを見ることさえなかった。
父はニラレバ炒め定食、母は餃子定食を頼むことが多かった。ところが、茂だけはいつもなかなか決められなかった。
チャーハンにしようか。焼きそばもいいな。タンメンも美味しそうだし、カレーライスだって捨てがたい。
迷った末に頼んでみるのだが、食べ終わると何となく物足りない。
決して不味いわけではなかった。どれもそれなりに美味しかったのに、次も同じものを食べたいと思うほどではなかった。
そんな茂とは対照的に、伯父は毎回しょうゆラーメンの大盛りを実に美味しそうに食べていた。
丼を目の前に置くと、まずスープを一口飲み、それから麺を勢いよくすする。
「いやあ、うまいなあ!」
そう言いながら食べる伯父の姿を、茂は何度も見ていた。
ある日、いつものように何を頼もうか迷っていると、正一が茂の手元のメニューを覗き込んだ。
「茂、おまえ、また迷ってんのか?」
「うん。何にしようかなと思って」
「そんなに迷うなら、しょうゆラーメン食べてみろよ」
「しょうゆラーメン?」
「そうだ。うまいぞ。おじさんがいつも食ってるだろ」
茂は少し考えた。
確かに、伯父が食べているしょうゆラーメンは、いつも美味しそうだった。けれど、今まで自分で頼んだことはなかった。
「そんなに美味しいの?」
「おう。食ってみりゃわかる。気に入ったら、次から大盛りにすればいい」
正一はそう言って笑った。
茂はメニューのラーメンの文字を見つめ、それから父に言った。
「じゃあ、僕もしょうゆラーメンにする」
「お、決まったか。じゃあ電話するぞ」
父は受話器を取り、慣れた様子で店に注文を伝えた。
正一は満足そうにうなずいた。
「よしよし。茂もようやくラーメンのうまさがわかるようになるか」
「まだ食べてないじゃん」
茂がそう言うと、伯父は大きな声で笑った。
*
出前を待つ時間も、茂にとっては楽しみの一つだった。
父と伯父はお茶を飲みながら昔の話をしていた。母は食卓を片づけ、人数分の箸やコップを並べている。テレビでは夕方の番組が流れ、外は少しずつ暗くなり始めていた。
注文してから三十分ほど経った頃、玄関のチャイムが鳴った。
「毎度どうもー! お待たせしました!」
中華屋のお兄さんの声だった。
茂は真っ先に玄関へ走った。
店の人は大きなアルミのおかもちを持っていた。四角い金属の箱には取っ手がついていて、扉を開けると中には注文した料理がきれいに並んでいる。
扉が開くと、金属の触れ合う小さな音とともに、温かな料理の匂いが玄関に広がった。
茂はそのおかもちを見るのが好きだった。
どんな料理がどんなふうに入っているのか、いつも不思議だった。大きな丼や皿がいくつも収まっているのに、店の人は慣れた手つきで一つずつ取り出していく。
父が代金を払い、母が料理を食卓へ運んだ。
その日、茂の前に置かれたのは、いつもより少し大きく感じる白い丼だった。
丼の縁には、赤い模様が描かれている。
そして、上には透明なラップがぴっちりと張られていた。
出前のラーメンは、運ぶ途中でスープがこぼれないよう、ラップで覆われていた。丼の縁に沿ってしっかりと張りついたラップの内側には、細かな水滴がびっしりとついている。
茂は丼を覗き込んだ。
曇ったラップの向こうに、茶色いスープと具材がぼんやりと見えていた。
「ほら、冷めないうちに食べろよ」
正一が声をかけた。
茂はラップの端を指でつまんだ。
ぴったりと張りついていて、なかなか剥がれない。ようやく端が持ち上がり、ゆっくりと引っ張ると、ラップが小さな音を立てながら丼の縁から離れていった。
その瞬間だった。
ふわっと白い湯気が立ち上り、しょうゆの香りが一気に広がった。
茂は思わず顔を近づけた。
香ばしいしょうゆの匂いに、鶏ガラの旨味を思わせる温かな香りが混じっている。今まで食べたチャーハンや焼きそばとは、まるで違う匂いだった。
ラップをすっかり剥がすと、丼の中がはっきりと見えた。
茶色いスープの表面には、細かな油がきらきらと浮かんでいる。
真ん中には、白地にピンクの渦巻きが入ったナルト。その隣には茶色いメンマが並び、鮮やかな緑色のほうれん草が添えられていた。少し厚みのあるチャーシューが一枚、麺の上にのっている。
派手な盛りつけではなかった。
けれど、その一杯が茂には何とも美味しそうに見えた。
「どうだ、うまそうだろ?」
伯父が笑いながら尋ねた。
「うん!」
「じゃあ、まずスープ飲んでみろ」
茂はレンゲを手に取り、そっとスープをすくった。
湯気を吹いてから、口に運ぶ。
最初に感じたのは、思っていたよりも強いしょうゆの味だった。
少ししょっぱい。
子供だった茂には、そう感じるくらい、はっきりとした味だった。
けれど、そのあとから鶏ガラの旨味がじんわりと広がってきた。しょうゆの香ばしさとスープの温かさが口いっぱいに残り、飲み込んだあとも、その味が不思議と消えない。
茂は思わず、もう一口飲んだ。
やっぱり少ししょっぱい。
それなのに、もう一口飲みたくなる。
「……うまい」
小さくつぶやくと、正一が嬉しそうに笑った。
「な? うまいだろ!」
茂はうなずき、今度は箸を取った。
麺を持ち上げると、湯気が立ち上った。細めの縮れ麺にはスープがよく絡み、口に運ぶとしょうゆの香りが鼻へ抜けていく。
茂は夢中になってすすった。
メンマはこりこりとした歯ごたえがあり、ほうれん草は濃いめのスープによく合った。ナルトは最後まで取っておこうかと思ったが、途中で我慢できずに食べてしまった。
チャーシューをかじると、肉の旨味がじわりと広がった。
そしてまたスープを飲む。
麺をすする。
今まで何度もこの店から出前を取っていたのに、どうしてしょうゆラーメンを頼まなかったのだろう。
茂はそんなことを考える余裕もないほど、夢中になって食べていた。
向かい側では、正一が大盛りの麺を豪快にすすっていた。
「どうだ、茂。気に入ったか?」
「うん! すごく美味しい!」
「そうだろ、そうだろ。やっぱりしょうゆラーメンはうまいんだよ」
正一は自分が作ったわけでもないのに、ひどく得意そうだった。
父がニラレバ炒めを食べながら笑った。
「兄貴は昔から、そればっかりだな」
「うまいもんは、何回食ったってうまいんだ」
そう言って、正一はまた麺をすすった。
茂も負けじと箸を動かした。
食べ終わる頃には、額にうっすらと汗が浮かんでいた。
丼の底にはまだ少しスープが残っていたが、茂はレンゲですくって何度も飲んだ。
最後まで、やっぱり少ししょっぱかった。
けれど、その味がたまらなく好きになっていた。
空になった丼を前にすると、正一が満足そうに言った。
「次は大盛りだな、茂」
茂は笑いながらうなずいた。
「うん。次は大盛りにする!」
その日から、茂が出前で頼むものは決まった。
伯父が来るたび、二人は並んでしょうゆラーメンを食べた。
正一は大盛り、茂は最初こそ普通盛りだったが、成長するにつれて大盛りを頼むようになった。
出前が届くと、二人でラップを剥がし、湯気の立つ丼を前にする。
伯父はいつも、最初のスープを飲んでから決まって言った。
「いやあ、うまいなあ!」
茂も同じようにスープを飲み、笑いながらうなずいた。
そんな何でもない夕食の風景が、いつしか茂にとって、家族との大切な思い出になっていった。
*
「お待たせしました。しょうゆラーメンの大盛りです!」
店員の声に、茂は我に返った。
目の前に、大きな丼が置かれた。
立ち上る湯気とともに、しょうゆの香りが鼻をくすぐる。
昔食べた出前のラーメンとは、少し違う香りだった。
今の茂は、どちらかといえば透き通ったあっさりしたスープが好きだった。子供の頃に食べた、少ししょっぱいくらいの濃いしょうゆ味とは、好みも変わっている。
それでも、しょうゆラーメンを目の前にすると、何となく嬉しくなる気持ちは昔のままだった。
「お父さん、何か嬉しそうだね」
美穂が笑った。
「そうか?」
「うん。ラーメンが来た途端、顔が変わった」
洋子も笑いながら言った。
「本当に好きなのねえ」
茂は照れくさそうに笑い、レンゲを手に取った。
スープを一口飲む。
しょうゆの香りと、出汁の旨味が口いっぱいに広がった。
ああ、うまい。
そう思った瞬間、昔の伯父の声が聞こえたような気がした。
『な? うまいだろ!』
茂は思わず笑みを浮かべた。
そうか。
俺がしょうゆラーメンを好きになったのは、あのときからだったんだな。
あの日、何を頼もうか迷っていた自分に、伯父が勧めてくれた一杯。
おかもちから取り出された丼。
ラップを剥がした瞬間に広がった湯気。
少ししょっぱい、あのしょうゆの味。
そして、美味しそうにラーメンをすする伯父の笑顔。
今まで当たり前のように食べていたしょうゆラーメンの向こうに、そんな懐かしい風景があったのだ。
「お父さん?」
美穂に呼ばれ、茂は顔を上げた。
「何だ?」
「そんなに美味しいなら、ちょっとスープ飲ませてよ」
「おう、いいぞ」
茂は丼を少し美穂の方へ寄せた。
美穂はレンゲでスープをすくい、そっと口に運んだ。
「あ、美味しい!」
「だろ?」
「何か、落ち着く味だね。私、今度これ頼もうかな」
茂は嬉しくなって、思わず言った。
「な? うまいだろ!」
その瞬間、自分の言葉に思わず手が止まった。
昔、伯父が言っていたのと、まったく同じ言葉だった。
茂は小さく笑った。
「どうしたの、あなた?」
洋子が不思議そうに尋ねた。
「いや……ちょっと昔のことを思い出してな」
「昔のこと?」
「子供の頃、伯父さんにしょうゆラーメンを勧められたんだよ。それが初めて食べたしょうゆラーメンでさ。いやあ、うまかったんだ」
茂は箸を置き、少し懐かしそうに続けた。
「出前で届いたラーメンでな。丼にラップがぴっちり張ってあって、それを剥がすと、湯気がぶわっと上がるんだ。ナルトにメンマ、ほうれん草、チャーシューがのってて……。今思えば、ちょっとしょっぱいくらいの味だったんだけど、あれが本当にうまくてなあ」
健太が興味深そうに聞いた。
「へえ。お父さんのしょうゆラーメン好きって、そこから始まったんだ」
「そうみたいだな。今まで考えたこともなかったけど」
「じゃあ、その伯父さんに感謝しなきゃね」
美穂が笑った。
茂も笑いながらうなずいた。
「ああ、そうだな」
それから再び麺をすすった。
目の前のラーメンは、昔のものとは違う。
丼の形も、スープの味も、具材の盛りつけも違っている。
けれど、しょうゆの香りが鼻へ抜けるたび、あの日の食卓が懐かしく思い出された。
父と母がいて、伯父がいて、まだ小学生だった自分がいる。
テレビの音が聞こえる居間で、出前の丼を囲んでいた家族。
今では、あの頃のように全員が集まることはできない。
それでも、あの日の美味しさは、こうして自分の中に残っている。
そして今、目の前には妻と子供たちがいて、それぞれ好きな料理を食べながら楽しそうに笑っている。
茂はふと思った。
いつか健太や美穂も、今日のことを思い出す日が来るのだろうか。
家族で出かけた帰りに寄った中華屋のこと。父親が決まってしょうゆラーメンの大盛りを頼んでいたこと。
そして、ちょっとスープをもらったら、思いのほか美味しかったこと。
そんな何でもない記憶が、いつか子供たちの心に残ってくれたら嬉しい。
「お父さん、また笑ってる」
美穂が言った。
「そうか?」
「うん。そんなにラーメン美味しい?」
茂は丼を見つめ、それから家族の顔を見回した。
「ああ、うまいよ」
そう答えて、もう一口スープを飲んだ。
しょうゆの香りが、ゆっくりと鼻へ抜けていった。
遠い昔、伯父が教えてくれた一杯。
少ししょっぱくて、たまらなく美味しかった、あのしょうゆラーメン。
何十年経っても、その味を好きでいられることが、茂には何だか嬉しかった。
そして今日もまた、いつものように大盛りのしょうゆラーメンをすすりながら、心の中で伯父に語りかけていた。
伯父さん。
俺、今でもしょうゆラーメンが大好きだよ。
(第二十話 完)




