第十九話 ケープの香り
智也は、駅前の時計をもう三度も見上げていた。
待ち合わせの時間までは、まだ十分ほどある。遅刻しているわけでもなければ、相手が遅れているわけでもない。それなのに、どうにも落ち着かなかった。
大学二年生になった春、智也は初めて女の子と二人きりで出かける約束をした。
相手は同じ大学のサークルで知り合った美咲という女の子だった。サークルの集まりでは何度も顔を合わせていたし、仲間と一緒に食事をしたこともある。けれど、二人だけで出かけるのは今日が初めてだった。
先週、サークルの帰りに好きな映画の話になり、二人とも気になっていた作品があることがわかった。智也が思い切って「じゃあ、一緒に観に行かない?」と誘うと、美咲は少し驚いたあと、嬉しそうにうなずいてくれた。
その日から、智也は今日のことばかり考えていた。
何を着ていこうか。映画のあとにはどこへ行こうか。会話が途切れたらどうしよう。そんなことを考えているうちに、気づけば待ち合わせの三十分も前に駅へ着いていた。
智也はガラスに映った自分の姿を確かめた。普段はジーンズに適当なシャツを合わせることが多いが、今日は新しく買った薄いブルーのシャツを着ている。髪もいつもより丁寧に整えてきた。
それでも、何となく落ち着かない。
もう一度時計を見ようとしたとき、背後から声がした。
「智也くん!」
振り向くと、美咲が小走りで近づいてくるところだった。
いつも大学で見る彼女とは、少し雰囲気が違っていた。
淡いクリーム色のブラウスに、膝下まである柔らかな色のスカート。肩より少し長い髪は毛先がふんわりと内側に巻かれ、顔の横で小さな飾りのついたピンが光っていた。
「ごめんね、待った?」
「いや、俺も今来たところ」
思わずそう答えてから、智也は少し後悔した。三十分前から待っていたことを隠す必要などなかったのに、つい格好をつけてしまった。
美咲はそんなことには気づかず、「よかった」と笑った。
「今日、楽しみにしてたんだ」
その一言で、智也の緊張は少しだけ和らいだ。
「俺も。じゃあ、行こうか」
二人は並んで歩き始めた。
*
映画は、思っていた以上に面白かった。
上映が終わる頃には、智也も最初の緊張を忘れ、美咲と感想を言い合いながら映画館を出ていた。二人とも同じ場面で笑い、同じ登場人物の行動に驚いていたことがわかると、話は自然に弾んだ。
昼食は映画館の近くにある小さな洋食屋に入った。
智也はハンバーグ、美咲はオムライスを注文した。料理を待つ間には大学の授業やサークルの話になり、互いの高校時代のことも少しずつ話した。
美咲は高校では吹奏楽部に入っていたらしく、夏のコンクール前には毎日のように練習していたという。
「本番の前なんて、緊張して手が震えちゃって。楽器を落としたらどうしようって、そればっかり考えてた」
「美咲さんでも緊張するんだ」
「するよ。今日だって、すごく緊張してたんだから」
そう言って笑う美咲を見て、智也は少し驚いた。
「俺もだよ。朝から落ち着かなくてさ」
「本当? 全然そんなふうに見えなかった」
「いや、結構頑張ってたんだよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
食事を終えて店を出る頃には、智也はすっかり自然に話せるようになっていた。午後は近くの商店街を歩き、雑貨屋を覗いたり、書店に立ち寄ったりした。美咲は小さなものにもよく気づく女の子で、店先に飾られた変わった形の花瓶を見つけては足を止め、古い映画のポスターを見かければ嬉しそうに智也を呼んだ。
そんな彼女と歩いている時間が、智也には心地よかった。
夕方が近づき、二人は駅へ戻る途中の並木道を歩いていた。
春の終わりの風が、街路樹の葉を揺らしている。美咲が風で乱れた髪を押さえ、耳の横へそっと手を添えた。
そのときだった。
ふわりと、何かの香りが漂ってきた。
智也は思わず顔を上げた。
香水のように強い匂いではない。けれど、甘さの中に少しだけ独特の清潔感がある、どこか懐かしい香りだった。
初めて嗅ぐ匂いではなかった。
むしろ、ずっと昔から知っているような気がした。
智也は歩きながら、何の匂いだったか思い出そうとした。洗剤だろうか。それともシャンプーだろうか。けれど、どちらもしっくりこない。
「どうしたの?」
智也が急に黙り込んだので、美咲が不思議そうに顔を覗き込んだ。
「あ、いや……何か、懐かしい匂いがしたなと思って」
「懐かしい匂い?」
「うん。美咲さん、何かつけてる?」
そう尋ねた途端、智也は少し慌てた。初めてのデートで、女の子に何をつけているか聞くのは失礼だっただろうか。
けれど、美咲は気にした様子もなく、自分の服の袖を軽く嗅いでみせた。
「香水かな? 今日はつけてないんだけど……あ、もしかして髪かな」
「髪?」
「うん。今日、ちょっと頑張ってセットしてきたから。崩れないようにケープを使ったの」
「ケープ?」
「そう。髪型をキープするスプレー。お母さんも使ってるから、家にあるのを借りたんだ」
美咲は少し照れくさそうに笑い、毛先を指で整えた。
その仕草を見た瞬間、智也の胸の奥で、何かが音もなく動いた。
ケープ。
その名前を聞いた途端、忘れていたはずの光景が、ゆっくりと形を取り始めた。
まだ幼かった頃の自分。
薄暗い玄関。
大きな鞄。
そして、自分を強く抱きしめていた母親の姿。
智也は立ち止まった。
あの匂いだ。
あの日、母親から香っていた匂いだった。
*
智也が五歳の頃、両親は離婚した。
離婚という言葉の意味を、当時の智也はよく理解していなかった。ただ、ある日を境に母親が家にいなくなり、それからは父親と二人で暮らすようになった。
父は決して器用な人ではなかった。
料理も得意ではなく、最初の頃は目玉焼きを焦がしたり、味噌汁をしょっぱく作ってしまったりすることもあった。それでも、毎朝早く起きて朝食を用意し、智也を保育園へ送り届け、仕事を終えると迎えに来てくれた。
小学校へ入ってからは、遠足の弁当も父が作ってくれた。
おにぎりは大きさがばらばらで、卵焼きも少し形が崩れていたが、智也は父の作る弁当が好きだった。運動会には必ず応援に来てくれたし、休日には公園へ連れて行ってくれた。
父は忙しい中でも、できる限り智也との時間を作ってくれた。
だから、智也は自分の家庭を不幸だと思ったことはなかった。
もちろん、母親がいないことを寂しく感じることはあった。小学校の授業参観で友達の母親たちが並んでいるのを見たときや、友達が母親の手料理の話をしているときには、少しだけ胸がざわついた。
けれど、そんなときも父は何も言わず、いつもどおり接してくれた。
母親について尋ねることも、子供の頃には何度かあった。
「お母さんって、どんな人だった?」
父は少し考えてから、「よく笑う人だったよ」と答えた。
「智也のこと、すごく可愛がってたんだ」
それ以上のことを、父はあまり話さなかった。
離婚の理由についても、智也がある程度大きくなるまでは詳しく説明しなかった。母の悪口を言うこともなかったので、智也の中には、母親を嫌う気持ちは育たなかった。
ただ、母親の記憶は、年を重ねるにつれて少しずつ薄れていった。
家には何枚か写真が残っていた。
若い父と母が並んで笑っている写真。幼い智也を母が抱き上げている写真。三人で遊園地へ行ったときの写真。
それらを見れば母親の顔を思い出せるのだが、何も見ずに思い浮かべようとすると、どうしても輪郭がぼやけてしまう。
母親がどんな声で笑っていたのか、どんな料理を作ってくれたのか。そうしたことも、ほとんど覚えていなかった。
けれど、たった一つだけ、心の奥に残っている場面があった。
母親と別れた日のことだった。
その日は、家の中がいつもと違っていた。
玄関には大きな鞄が置かれ、母親は何度も部屋の中を行き来していた。父親は居間に座り、いつもより口数が少なかった。
五歳の智也には、何が起きているのかわからなかった。
ただ、何となく嫌な予感がしていた。
「お母さん、どこ行くの?」
そう尋ねると、母は少し困ったように笑った。
「ちょっとね……遠くに行くの」
「僕も行く」
智也がそう言うと、母は何も答えなかった。
しばらくして、母は智也の前にしゃがみ込んだ。
何かを言おうとしているようだったが、言葉がなかなか出てこない。母の目には涙が浮かんでいた。
「智也……」
名前を呼ばれた次の瞬間、智也は母に強く抱きしめられていた。
頬に柔らかな髪が触れた。
母の腕は温かく、いつもより少しだけ力がこもっていた。智也は母の肩に顔を埋め、どうして母が泣いているのかわからないまま、その背中に小さな手を回した。
そのとき、ふわりと甘い香りがした。
母の髪から漂う、独特の匂いだった。
智也はその匂いを嗅ぎながら、母の服をぎゅっと握っていた。
「智也……元気でね」
母は震える声でそう言った。
智也は「うん」と答えたような気がする。
そのあと母が何を話したのか、父がどんな顔をしていたのか、もうはっきりとは覚えていない。
ただ、母に抱きしめられた温かさと、髪から漂っていた香りだけは、なぜか消えずに残っていた。
やがて母は立ち上がり、大きな鞄を持って玄関を出ていった。
智也は父に手を引かれながら、その背中を見送った。
母が振り返ったのかどうかも、今となっては思い出せない。
それが、智也が母親を見た最後の日だった。
*
「……智也くん?」
美咲の声に、智也は我に返った。
目の前には、夕方の並木道が広がっていた。車が通り過ぎ、少し離れた場所では買い物帰りの人たちが行き交っている。
美咲が心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫? 急に黙っちゃったから……」
「あ、ごめん。ちょっと昔のことを思い出してた」
「昔のこと?」
智也はどう答えようか迷った。
初めてのデートで、こんな話をするつもりはなかった。自分の家庭のことは、大学の友達にもあまり話していない。隠しているわけではないが、わざわざ話す機会もなかったのだ。
けれど、今はなぜか、美咲に話してみたいと思った。
「俺さ、小さい頃に両親が離婚してるんだ」
美咲は少し驚いたようだったが、何も言わずにうなずいた。
「五歳くらいのときだったから、母親のこと、あんまり覚えてないんだよね。父さんと二人で暮らしてきたし、別にそれが嫌だったわけじゃないんだけど」
智也は一度言葉を切り、街路樹の葉を見上げた。
「母親と別れた日のことだけ、少し覚えててさ。そのとき、母親が俺を抱きしめてくれたんだ」
美咲は黙って聞いていた。
「そのときの匂いが……今、美咲さんからしたんだよ」
言い終えてから、智也は少し照れくさくなった。
変な話をしてしまっただろうか。せっかくのデートなのに、急に重たい話になってしまったかもしれない。
けれど、美咲は笑ったり、困った顔をしたりしなかった。
「そっか……」
小さくそう言ってから、少し考えるように目を伏せた。
「大切な匂いだったんだね」
智也はその言葉を聞き、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
大切な匂い。
今まで、そんなふうに考えたことはなかった。
ただ、ずっと昔の記憶の中に残っていた匂い。それが何の香りだったのかも知らず、いつの間にか思い出すことさえなくなっていた。
けれど、美咲の言葉を聞いて、智也はようやく気づいた。
自分は、母親のことを忘れてしまったわけではなかったのだ。
顔も声もぼんやりとしているけれど、あの日の温かさだけは、心のどこかに残っていた。
「うん……そうだったのかもしれない」
智也がそう答えると、美咲は優しく微笑んだ。
「思い出せてよかったね」
その一言に、智也は救われたような気がした。
美咲はそれ以上、母親について尋ねなかった。どうして会っていないのかとか、今はどこにいるのかとか、そんなことを聞くこともなかった。
ただ、智也が話したことを、そのまま受け止めてくれた。
それが嬉しかった。
しばらくして、美咲が少し照れくさそうに笑った。
「でも、何だか不思議だね。今日、髪型どうしようかなって、朝からすごく悩んでたの」
「そうなの?」
「うん。いつもと同じじゃつまらないかなって思って、頑張って巻いてみたんだけど、すぐ崩れちゃって。それで、お母さんのケープを借りたんだ」
美咲は毛先にそっと触れた。
「まさか、そんな思い出につながるなんて思わなかった」
智也も笑った。
「俺も。ケープって名前すら知らなかったし」
「ええっ、本当に? 結構有名だよ」
「男だから、あんまり使わないしなあ」
二人は顔を見合わせて笑った。
さっきまで胸の奥に広がっていた切なさが、少しずつ柔らかなものに変わっていくようだった。
*
駅が近づく頃には、夕日が建物の向こうへ傾き始めていた。
今日一日が、もうすぐ終わろうとしている。
智也は美咲と並んで歩きながら、ふと不思議な気持ちになった。
朝、駅前で彼女を待っていたときには、ただ緊張していた。何を話そうか、嫌われないだろうか、そんなことばかり考えていた。
けれど今は、もう少し一緒にいたいと思っている。
映画の感想を楽しそうに話してくれたことも、洋食屋でオムライスを美味しそうに食べていたことも、雑貨屋で小さな花瓶を見つけて嬉しそうに笑っていたことも、どれも心に残っていた。
そして何より、自分の話を静かに聞いてくれたことが嬉しかった。
母親と同じ香りがしたから、美咲を好きになったわけではない。
けれど、その香りのおかげで、今まで誰にもあまり話したことのない自分の思い出を、彼女に話すことができた。
そして、美咲の優しさを知ることができた。
それが、智也には何より大きかった。
駅前に着くと、美咲が立ち止まった。
「今日は楽しかったね」
「うん。俺もすごく楽しかった」
「また一緒に出かけられたら嬉しいな」
その言葉を聞いて、智也の胸が少し高鳴った。
「もちろん。俺もまた誘いたいと思ってた」
美咲は嬉しそうに笑った。
それから、ふと思い出したように自分の髪に触れた。
「今日、髪型頑張ってよかった」
智也は少し笑って答えた。
「うん。すごく似合ってるよ」
「本当?」
「本当。会ったときから、そう思ってた」
言ってしまってから、智也は急に恥ずかしくなった。けれど、美咲は頬を少し赤くして、「ありがとう」と笑ってくれた。
駅の改札へ向かう彼女を見送りながら、智也はもう一度、今日の出来事を思い返した。
母親の記憶が、こんな形で蘇るとは思ってもいなかった。
あの日、涙を流しながら自分を抱きしめてくれた母。
その顔は、今でもはっきりと思い出せない。
けれど、抱きしめられたときの温かさと、髪から漂っていた香りは、今日、確かに戻ってきた。
智也は胸の奥で、そっとつぶやいた。
母さん、俺、ちゃんと大きくなったよ。
そして、今日、ちょっと素敵な子と出かけたんだ。
母親に届くはずのない言葉だったが、不思議と心が穏やかになった。
智也は改札へ向かいながら、スマートフォンを取り出した。美咲から、もうメッセージが届いていた。
『今日はありがとう。また一緒に映画観ようね!』
智也は笑みを浮かべ、返事を打った。
『こちらこそありがとう。次は俺がおすすめの映画選ぶよ』
送信すると、すぐに返事が返ってきた。
『楽しみにしてる!』
智也はスマートフォンをポケットにしまい、改札を抜けた。
電車のホームには、夕方の柔らかな風が吹いていた。
その風の中で、智也はもう一度、母親のことを思い出した。
忘れていたと思っていた人が、こんなにも近くにいたのだ。
写真の中だけにいると思っていた母親は、あの日の香りとともに、ずっと自分の記憶の奥に残っていた。
そして今日、その香りが、新しい誰かとの距離を少しだけ縮めてくれた。
智也はホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。
窓の外には、夕焼けに染まった街が広がっている。
次に美咲と会う日が、今から楽しみだった。
(第十九話 完)




