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第十八話 薫風

 五月の朝は、歩くのにちょうどいい。

 啓介は公園へ続く遊歩道を、ゆっくりとした足取りで歩いていた。空には薄い雲がいくつか浮かんでいるものの、日差しは明るく、木々の間から差し込む光が舗装された道にまだらな模様を作っている。遠くから聞こえる鳥の声に混じって、子供たちの笑い声が風に乗って届いてきた。

 六十五歳になった啓介がウォーキングを始めたのは、今年の春だった。

 定年退職してからというもの、どうにも身体を動かす機会が減ってしまった。現役時代は仕事であちこち歩き回っていたつもりだったが、いざ家で過ごす時間が増えると、近所のスーパーへ買い物に行くくらいでは大した運動にならないらしい。健康診断で医師から少し運動をするよう勧められ、妻にも「家でテレビばかり見てないで、少し歩いてきたら?」と言われたことがきっかけだった。

 最初は三十分も歩けば十分だと思っていたのに、続けてみると案外楽しい。毎日同じ道を歩いているつもりでも、道端に咲く花が変わり、庭木の色が変わり、昨日まで蕾だった花が咲いていることに気づく。忙しく働いていた頃には見過ごしていたものが、いくつも目に入るようになった。

 今日もいつものように公園の外周を歩いていると、ひときわ強い風が木々の間を吹き抜けた。

 頭上で若葉が一斉に揺れ、木漏れ日が足元で踊った。風は少しひんやりとしていて、頬を撫でるように通り過ぎていく。その中に、青々とした葉の匂いが混じっていた。

 刈りたての草とも違う、湿った土の匂いとも違う。新しく伸びた葉や枝が放つ、わずかに青臭く、けれど不思議と心地よい香りだった。

 啓介は足を止め、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「……薫風か」

 何気なく口にした言葉だった。

 けれど、その響きを耳にした途端、啓介の胸の奥で、長い間眠っていた記憶が静かに目を覚ました。

 薫風。

 その言葉を、初めて教えてくれた人がいた。

 啓介は公園のベンチに目を向けた。若い母親が小さな子供と並んで座り、持ってきた水筒のお茶を飲んでいる。その向こうでは、緑の葉を茂らせた大きな欅が、五月の風に枝を揺らしていた。

 あれは、もう四十年以上も前のことだった。

     *

 高校二年生だった啓介は、放課後になると近所のスーパーでアルバイトをしていた。

 学校から家までは自転車で二十分ほど。いったん家へ帰って制服を着替え、それからスーパーへ向かうのがいつもの日課だったが、その日は友達と話し込んでしまい、すっかり帰りが遅くなっていた。

 腕時計を見ると、アルバイトの時間まであまり余裕がない。

「やべえ、遅れる!」

 啓介は自転車のペダルを強く踏み込んだ。

 いつもなら大通りを通って帰るのだが、家の近くにある公園を突っ切れば、少しだけ近道になる。公園の入口で自転車を降り、ハンドルを押しながら中へ入った。

 五月の公園は、新緑に包まれていた。

 大きな欅や桜の木には柔らかな若葉が茂り、遊歩道の両側にはツツジが咲いている。少し離れた広場では小学生たちがボールを蹴り、砂場では幼い子供が母親と遊んでいた。

 啓介が急ぎ足で歩いていると、ベンチの近くから声がした。

「あら、啓介くん。学校帰り?」

 振り向くと、近所に住む佐伯のおばさんが立っていた。

 子供の頃から顔を知っている人で、道で会えば必ず声をかけてくれる。啓介の母とも仲がよく、幼い頃には何度か家に遊びに行ったこともあった。

「あ、こんにちは。そうなんですけど、今日ちょっとバイトに遅れそうで」

「あらあら、それは大変ね。頑張ってるのねえ」

 啓介は軽く頭を下げ、そのまま通り過ぎようとした。

 ところが、そのときだった。

 佐伯のおばさんの隣に立っていた女の子が、ふと啓介の方を向いた。

 白いシャツに、赤いカーディガン。淡い色の花柄のスカートを履き、肩にかかるくらいの黒髪が、風に揺れていた。

 啓介と同じくらいの年頃だろうか。

 色白で、少し華奢な印象の女の子だった。整った顔立ちというだけでなく、どこか静かで、柔らかな雰囲気をまとっていた。

 啓介は思わず足を止めた。

「ああ、そうだ。啓介くん、この子、麻衣ちゃんっていうの。うちの親戚の子でね、しばらくこっちに来てるのよ」

 佐伯のおばさんに紹介され、女の子は小さく頭を下げた。

「こんにちは」

「あ……こんにちは」

 啓介はそれだけ答えるのが精一杯だった。

 普段なら初対面の相手にもそれなりに話せるつもりだったが、突然可愛い女の子を紹介され、何を言えばいいのかわからなくなってしまった。

 佐伯のおばさんはそんな啓介の様子など気にせず、「麻衣ちゃん、身体があまり丈夫じゃないから、今はのんびり過ごしてるのよ」と話した。

 麻衣は少し困ったように笑っていた。

 啓介はもっと話してみたいと思ったが、腕時計を見て現実に引き戻された。

「あ、すみません。本当に遅れそうなんで、行きます!」

「はいはい、気をつけてね」

 おばさんの声を背中に聞きながら、啓介は自転車を押して公園を抜けた。

 出口に着いて自転車にまたがるとき、何となく振り返ってみた。

 木漏れ日の下で、赤いカーディガンが鮮やかに見えた。

 麻衣はまだ佐伯のおばさんと話していたが、啓介の方へ顔を向けると、小さく手を振ってくれた。

 啓介は慌てて片手を上げ、それから勢いよくペダルを踏み込んだ。

 アルバイトには、どうにか間に合った。

 けれど、その日の仕事中、啓介は何度も公園で見かけた女の子のことを思い出していた。

     *

 翌日、啓介はいつもより少し早く学校を出た。

 特に理由があったわけではない。

 少なくとも、本人はそう思っていた。

 ただ、家へ帰る途中、昨日と同じ公園の入口が見えてくると、自然に自転車の速度が落ちた。

 今日は時間に余裕がある。わざわざ公園を通る必要はなかったが、昨日の近道が案外便利だったことを思い出した。

 啓介は自転車を降り、公園へ入った。

 欅の木の下にあるベンチに、見覚えのある赤いカーディガンが見えた。

 麻衣だった。

 膝の上に本を広げ、時折顔を上げては、木々の方を眺めている。昨日と同じ服装だったが、今日は佐伯のおばさんの姿はなかった。

 啓介が近づくと、麻衣は本から顔を上げた。

「あ、こんにちは」

 その声を聞いた途端、啓介は急に緊張した。

「こ、こんにちは」

 どうにか返事をしたものの、その先の言葉が出てこない。麻衣はそんな啓介を見て、少しだけ笑った。

「昨日は、アルバイト間に合いました?」

「あ、うん。ぎりぎりだったけど」

「よかった」

 麻衣はそう言うと、膝の上の本を閉じた。

 啓介は何か話さなければと思い、「今日もここにいたんだ」と口にした。言ってから、ずいぶん間の抜けた言葉だと思ったが、麻衣は気にした様子もなく、「ここ、風が気持ちいいから好きなんです」と答えた。

 その日は、それだけだった。

 啓介は「じゃあ、また」と言って公園を出たが、帰り道では、なぜもっと気の利いたことが言えなかったのだろうと一人で反省していた。

 ところが、その翌日も、さらにその翌日も、麻衣は公園にいた。

 啓介はいつの間にか、学校から帰るときには必ず公園を通るようになっていた。

 最初は挨拶を交わすだけだったが、少しずつ言葉が増えていった。麻衣が読んでいる本の話を聞いたり、啓介が学校であった出来事を話したり、近所の商店街にある美味しいパン屋の話をしたりした。

 麻衣は聞き上手だった。

 啓介が友達とふざけて先生に怒られた話をすると、口元を押さえて笑い、アルバイトで商品の値札を間違えた話には、心配そうに「大丈夫だったんですか?」と尋ねてくれた。

 啓介は自分でも驚くほど、麻衣の前ではよくしゃべった。

 学校では特別おしゃべりな方ではなかったのに、彼女が楽しそうに聞いてくれると、つい次の話をしたくなるのだった。

 麻衣の方は、自分のことをあまり話さなかった。

 啓介が「学校は?」と尋ねたときには、「今はちょっとお休みしてるの」と答えた。佐伯のおばさんから身体が丈夫ではないと聞いていたので、啓介もそれ以上は尋ねなかった。

 ときどき、麻衣は少し疲れたような表情を見せることがあった。

 そんな日はベンチに座ったまま、あまり長く話さずに帰っていく。啓介も何となく気を遣い、「また明日」とだけ言って別れた。

 それでも翌日になると、麻衣はいつもの場所で本を読んでいることが多かった。

 啓介にとって、公園はいつの間にか、ただの近道ではなくなっていた。

 学校の授業が終わる頃になると、今日は麻衣がいるだろうかと考える。公園の入口が見えると、欅の木の下へ自然に目が向く。赤いカーディガンが見えるだけで、胸の奥が少し明るくなるような気がした。

 そんな自分の気持ちに、啓介はまだ名前をつけられずにいた。

     *

 五月も半ばを過ぎた、よく晴れた日のことだった。

 その日はアルバイトが休みだったので、啓介は公園のベンチに腰を下ろし、麻衣といつもより長く話していた。

 空は青く、頭上には柔らかな若葉が重なっている。少し離れた場所では、小さな子供が父親に自転車の乗り方を教わっていた。何度もふらつきながらペダルを踏む姿を見て、麻衣は楽しそうに笑っていた。

 やがて、少し強い風が吹いた。

 欅の枝が揺れ、若葉の隙間からこぼれる光が、二人の足元で細かく動いた。風に乗って、青々とした葉の匂いが漂ってきた。

 啓介は大きく息を吸い込んだ。

「この公園ってさ、五月になると何か青臭くない?」

 何気なく言った言葉だった。

 すると、麻衣は少し驚いたように啓介を見て、それから微笑んだ。

「ふふっ。それ、薫風っていうのよ」

「くんぷう?」

「そう。薫る風って書いて、薫風。新緑の季節に吹く、爽やかな風のことなの」

 啓介は初めて聞く言葉だった。

「へえ。風にもそんな名前があるんだ」

「あるのよ。私、この言葉が好きなの」

 麻衣はそう言って、頭上の木々を見上げた。

 風に揺れる若葉を見つめる横顔は、いつもより少し大人びて見えた。

「この季節の風って、命の息吹の香りがするでしょう?」

「命の息吹?」

「うん。冬の間、静かだった木々が、春になって一斉に葉を伸ばして、花が咲いて、草も元気になって……。何だか、みんな生きてるんだなって感じがするの」

 麻衣は目を細め、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「だから私、この風が好き。元気をもらえる気がするから」

 啓介は、すぐには返事ができなかった。

 今まで、五月の公園の匂いなど気にしたこともなかった。青臭いと思うことはあっても、その向こうに木々の命を感じるようなことはなかった。

 けれど、麻衣がそう言うと、不思議とその通りのように思えてきた。

 風が吹くたびに、頭上の葉がざわざわと音を立てる。陽の光を透かした若葉は、まだ柔らかく、明るい緑色をしていた。

 啓介はもう一度、風の匂いを嗅いでみた。

「……確かに、そうかもしれないな」

 そう答えると、麻衣は嬉しそうに笑った。

 その笑顔が、啓介にはひどく印象的だった。

 白いシャツに赤いカーディガン。花柄のスカートの裾が、風に揺れている。柔らかな木漏れ日の中で微笑む麻衣の姿を、啓介はいつまでも見ていたいと思った。

「薫風、か。覚えとくよ」

「忘れないでね」

「忘れないって」

 啓介が少し大げさに答えると、麻衣は声を立てて笑った。

 その笑い声は、木々のざわめきに混じって、初夏の空へ溶けていった。

     *

 それから数日後のことだった。

 いつものように学校から帰ってきた啓介は、公園の入口で自転車を降りた。空はよく晴れていて、欅の葉もますます緑を濃くしていた。

 ところが、いつものベンチに麻衣の姿はなかった。

 今日は体調が悪いのだろうか。

 そう思い、その日はそのまま帰った。

 翌日も、麻衣はいなかった。

 その次の日も、ベンチは空いたままだった。

 啓介は公園へ来るたびに、無意識のうちに赤いカーディガンを探すようになっていた。少し離れたところに同じような色の服が見えると、思わず目を向けてしまう。けれど、近づいてみれば別の人で、何となくがっかりした気持ちで公園を出るのだった。

 四日目の夕方、啓介は公園の近くで佐伯のおばさんを見かけた。

「あ、佐伯さん。ちょっと聞きたいんですけど……」

「あら、啓介くん。どうしたの?」

「麻衣ちゃん、最近見かけないんですけど、元気ですか?」

 そう尋ねると、佐伯のおばさんは少し驚いたような顔をした。

「あら、知らなかったの?」

「え?」

「麻衣ちゃんね、遠くの病院へ移ることになって、もう行っちゃったのよ」

 啓介は言葉を失った。

 佐伯のおばさんの話によると、麻衣は以前から病院で治療を受けていて、転院先が決まるまでの間、親戚の家で過ごしていたのだという。

 詳しい病状までは教えてもらえなかったが、遠くの病院でしばらく治療を続けることになるらしかった。

「急に決まったものだからねえ。ちゃんとお別れもできなかったでしょう。ごめんなさいね」

「いえ……そうだったんですか」

 啓介は、それ以上何も言えなかった。

 転院先がどこなのか聞こうかとも思ったが、何となくためらわれた。佐伯のおばさんも詳しいことは知らない様子だったし、何より、突然の話に頭が追いついていなかった。

 麻衣がこの町にいたのは、ほんの短い間だった。

 そんなこと、考えたこともなかった。

 明日も公園へ行けば会えると思っていたし、来週も、その次の週も、同じベンチで話ができるものだと信じていた。

 啓介は佐伯のおばさんに礼を言い、公園へ向かった。

 いつもの欅の木の下には、誰もいなかった。

 ベンチに腰を下ろすと、麻衣がいつも座っていた場所が目に入った。膝の上に本を広げ、顔を上げると「こんにちは」と微笑んでくれた姿が、つい昨日のことのように思い出された。

 考えてみれば、自分は麻衣のことをほとんど知らなかった。

 どこの学校に通っていたのか。どんな病気だったのか。これからどこの病院へ行くのか。

 毎日のように話していたのに、そんなことを一つも聞いていなかった。

 知っているのは、麻衣が本を読むのが好きだったこと。公園の風を気に入っていたこと。啓介のつまらない話にも楽しそうに笑ってくれたこと。

 そして、薫風という言葉を教えてくれたことだけだった。

 啓介は空を見上げた。

 木々の間を、五月の風が吹き抜けていく。

 その風に乗って、青い葉の匂いが漂ってきた。

「……薫風、か」

 小さくつぶやくと、麻衣の声が聞こえたような気がした。

『命の息吹の香りがするでしょう?』

 啓介はしばらくベンチに座っていた。

 やがて夕暮れが近づき、子供たちが一人、また一人と家へ帰っていく頃、ようやく立ち上がった。

 それからも何度か公園を訪れたが、麻衣が戻ってくることはなかった。

 季節は夏になり、やがて秋になった。

 啓介は高校を卒業し、進学して、社会人になった。仕事に追われる日々の中で、あの公園へ足を運ぶことも少なくなっていった。

 それでも、五月になると、ふと麻衣のことを思い出した。

 新緑の中を吹き抜ける風に、あの懐かしい匂いを感じるたび、白いシャツに赤いカーディガンの少女が、心の中に姿を現した。

 麻衣がその後どうなったのか、啓介は知らない。

 ただ、どこかで元気に暮らしていてくれたらいいと、何度も思った。

     *

 公園のベンチに腰を下ろした啓介は、ゆっくりと目を開けた。

 目の前には、五月の明るい景色が広がっていた。

 あれから四十年以上が過ぎた。

 啓介も六十五歳になり、仕事を定年退職して、こうして健康のために公園を歩くようになった。結婚して家庭を持ち、子供たちも独立した。振り返れば、いろいろなことがあった人生だった。

 それなのに、ほんの短い間しか会わなかった少女のことを、今でもこんなにはっきりと思い出せるのが不思議だった。

 麻衣は今、どうしているだろう。

 あの頃の病気は治っただろうか。

 結婚して、子供や孫に囲まれて暮らしているかもしれない。あるいは、どこかの街で、今日のような五月の風を楽しんでいるのかもしれない。

 啓介には、知るすべがなかった。

 それでも、そうであってほしいと思った。

 ふと、頭上の欅がざわめいた。

 新緑の間を吹き抜けた風が、啓介の頬を優しく撫でていく。青々とした葉の香りが鼻先をくすぐり、遠くから子供たちの笑い声が聞こえた。

 啓介はゆっくりと息を吸い込んだ。

 あの日、麻衣が教えてくれた言葉。

 それまでただ青臭いと思っていた五月の風が、彼女の一言で特別なものになった。

 麻衣に出会わなければ、啓介はきっと、こんなふうに風の香りを楽しむこともなかっただろう。忙しい毎日の中で、季節の移り変わりに足を止めることも少なかったかもしれない。

 ほんの短い出会いだった。

 けれど、その少女は、啓介の中に一つの言葉と、一つの季節を残していった。

 啓介は木々を見上げ、静かに微笑んだ。

「麻衣ちゃん。今年も薫風の季節が来たよ」

 もちろん、返事はなかった。

 ただ、風がもう一度、若葉を揺らして通り過ぎていった。

 啓介はベンチから立ち上がり、再び遊歩道を歩き始めた。

 木漏れ日の向こうに、赤いカーディガンを着た少女が立っているような気がした。

 白いシャツに花柄のスカート。肩にかかる黒髪を風に揺らし、あの日と同じように微笑んでいる。

 啓介は目を細めた。

 その姿はすぐに新緑の中へ溶けていったが、不思議と寂しくはなかった。

 麻衣が教えてくれた言葉は、今もこうして自分の中に残っている。

 そして、きっと来年も、その次の年も、五月の風が吹くたびに思い出すのだろう。

 啓介は少しだけ歩幅を広げた。

 新緑の香りを運ぶ風が、背中を優しく押してくれた。

(第十八話 完)

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