第十七話 ウタマロの香り
洗濯機が終了を知らせる電子音を鳴らしたのは、夜の八時を少し回った頃だった。
健太はベッドから重い腰を上げ、部屋の隅に置かれた洗濯機の蓋を開けた。洗い終わった衣類の中から紺色の作業着を引っ張り出し、袖を広げて蛍光灯の明かりにかざしてみる。右の袖口から肘にかけて、黒ずんだ油汚れがくっきりと残っていた。胸元にも小さな染みがいくつかあり、洗濯前と比べて多少は薄くなったような気もするが、とてもきれいになったとは言えなかった。
「参ったなあ。全然落ちてないじゃん」
誰に聞かせるでもなくつぶやき、健太は作業着を洗濯機の上に広げた。
高校を卒業して地元の工場に就職したのが、この春のことだった。実家からは少し離れているため、会社が用意してくれた独身寮に入り、初めての一人暮らしを始めてから、まだ三週間しか経っていない。
六畳ほどの部屋には小さな流し台と洗濯機があり、風呂とトイレもついている。平日の食事は社員食堂を利用できるし、近くにはコンビニもあるので、生活そのものに不自由はなかった。ただ、これまで家で母親がしてくれていたことを、すべて自分でやらなければならないというのは、想像していた以上に面倒なものだった。
仕事から帰れば、まず風呂に入りたい。腹も減っているし、できれば早く寝たい。それなのに洗濯物は勝手にきれいにならないし、床に落ちたゴミも誰かが片づけてくれるわけではない。つい先日も、洗濯機を回したまま眠ってしまい、翌朝になって慌てて洗い直したばかりだった。
そんな健太にとって、今日の油汚れはなかなか厄介な問題だった。
勤務先は金属部品を加工する工場で、健太はまだ先輩について仕事を覚えている最中だった。その日は機械の清掃を手伝っていたのだが、油のついた部品を扱う際に手元が狂い、作業着の袖をひどく汚してしまった。先輩は「作業着なんだから、多少汚れるのは当たり前だ」と笑ってくれたものの、健太としては少々気になっていた。
何しろ、支給された作業着は二着しかない。今日着ていたものと、もう一着を交互に洗いながら使っているため、一着が使えなくなると途端に困ってしまう。
洗剤を多めに入れてもう一度洗濯してみようかとも考えたが、同じことを繰り返しても結果は変わらないような気がした。健太はしばらく作業着を眺めたあと、スマートフォンを手に取った。
困ったとき、結局頼りになるのは母親だった。
呼び出し音が数回鳴ったところで、聞き慣れた声がした。
「もしもし、健太? どうしたの、こんな時間に」
「母さん、ちょっと聞きたいんだけどさ。作業着についた油って、どうやったら落ちる?」
突然の質問に母は少し驚いたようだったが、事情を話すとすぐに納得したらしい。「普通の洗濯じゃ落ちなかったのね」と言い、少し考えてからウタマロ石けんを使ってみるよう勧めてくれた。
「ウタマロ? 何それ」
「洗濯用の固形石けんよ。緑色の。ドラッグストアに行けば売ってると思うわ。汚れたところを濡らして、石けんをこすりつけてから揉み洗いするの。油の種類によっては落ちにくいこともあるけど、試してみたら?」
健太は電話を耳に当てたままスマートフォンの画面を操作し、教えられた名前を検索した。そこには、緑色の四角い石けんの写真が表示されていた。
「ああ、これか。わかった、買ってみる」
「洗ったら、ちゃんとすすぐのよ。あと、あんまり強くこすりすぎると生地が傷むからね」
「わかってるって。もう子供じゃないんだから」
「はいはい。それより仕事はどう? 少しは慣れた?」
母の声には、いつもの心配そうな響きがあった。健太は「まだ覚えることばっかりだけど、まあ何とかやってるよ」と答えた。本当は失敗も多く、先輩に同じことを何度も教えてもらう日もあったが、そんなことまで話すと母が余計に心配すると思い、詳しくは言わなかった。
母は「無理しないで、ちゃんとご飯も食べるのよ」と念を押し、健太は苦笑しながら電話を切った。
寮の近くにあるドラッグストアは、まだ開いているはずだった。健太は財布をポケットに押し込み、サンダルを履いて部屋を出た。
*
ドラッグストアの洗濯用品売り場には、色とりどりの洗剤や柔軟剤が並んでいた。
健太は棚を端から眺めていき、ようやく目当ての石けんを見つけた。白い箱に緑色の文字で「ウタマロ石けん」と書かれている。手に取ってみると、思っていたより小さく、値段もそれほど高くなかった。
こんな石けん一つで、あの頑固な汚れが落ちるのだろうか。
半信半疑のままレジで会計を済ませ、寮へ戻った健太は、さっそく洗面台の前に立った。汚れた作業着を脇に置き、買ってきた石けんの箱を開ける。
中から現れたのは、淡い緑色の四角い石けんだった。
包装を外した瞬間、ふわりと香りが広がった。
健太は思わず手を止めた。
どこかで嗅いだことのある匂いだった。清潔で、どこか柔らかく、ほんの少し懐かしさを感じさせる香り。初めて買った石けんのはずなのに、ずっと前から知っているような気がした。
健太は石けんを鼻に近づけ、もう一度ゆっくりと匂いを嗅いだ。
すると、頭の中に一つの光景が浮かんだ。
白いユニフォーム。青い背番号。朝の玄関でスパイクの紐を結んでいる自分。そして、その傍らに立つ母の姿。
「あれ……この匂いって……」
健太は洗面台に肘をつき、しばらく考え込んだ。
間違いない。これは、サッカー部にいた頃のユニフォームと同じ匂いだった。
*
健太がサッカーを始めたのは、小学校の高学年の頃だった。
近所の友達に誘われて地域のクラブに入ったのがきっかけで、最初はただボールを蹴るのが楽しかった。放課後になれば友達と公園へ集まり、暗くなるまで夢中で走り回った。母に何度も名前を呼ばれて、ようやく家に帰ったことも一度や二度ではなかった。
中学校へ進学すると迷わずサッカー部に入り、高校でも三年間、部活動を続けた。
練習は決して楽なことばかりではなかった。真夏のグラウンドは立っているだけで汗が流れ、冬には冷たい風に指先の感覚がなくなることもあった。それでも仲間とボールを追いかけ、昨日できなかったことが今日できるようになるのが嬉しかった。
ただ一つ、どうしても好きになれなかったのが、雨上がりの練習だった。
中学校のグラウンドは水はけがあまりよくなく、前日に雨が降ると、あちこちに水たまりが残っていた。スパイクには泥がこびりつき、ボールを追って滑れば、膝から太腿まで茶色く染まった。相手選手と競り合って転ぶことも多く、練習が終わる頃には、白かったユニフォームが別の色になっていることも珍しくなかった。
そんな姿で帰宅すると、母は玄関で決まって呆れた声を出した。
「ちょっと健太、またそんなに汚して! 昨日洗ったばっかりなのに」
「しょうがないだろ。グラウンドがぐちゃぐちゃなんだから」
「しょうがないって言うけどね、これ洗うの大変なんだからね」
母はそう言いながらも、汚れたユニフォームを受け取ってくれた。健太はスパイクを脱ぎ、風呂に入って夕食を食べると、疲れてすぐに眠ってしまう。翌朝、目を覚ます頃には、昨日のユニフォームはきれいに洗われ、洗濯物の中に並んでいた。
当時の健太には、それが当たり前だった。
洗濯機に入れれば、どんな汚れでも落ちるのだと思っていたし、母がどんなふうに洗っているのか、考えたこともなかった。
中学二年生の秋、忘れられない試合があった。
大会の前日まで雨が降り続き、当日のグラウンドはひどい状態だった。試合が始まると、選手たちは次々と足を滑らせ、転ぶたびに泥を跳ね上げた。健太も後半、相手選手と競り合って倒れたときに、胸から腹にかけて泥がべったりとついてしまった。
それでも必死にボールを追いかけたが、試合は一点差で負けた。
試合終了の笛が鳴ったとき、健太はしばらくその場から動けなかった。あと少しで追いつけたかもしれない。自分があの場面でもっと速く走れていたら。そんなことばかりが頭を巡り、帰りの電車でも仲間とほとんど口を利かなかった。
家に着いたのは、夕方になってからだった。
「おかえり。試合、どうだった?」
玄関に顔を出した母に、健太は「負けた」とだけ答えた。母は何か言いかけたが、息子の表情を見てそれ以上は尋ねず、「そっか。お疲れさま。お風呂、沸いてるよ」と言ってくれた。
健太は泥だらけのユニフォームを脱ぎ、洗濯籠へ放り込んだ。
その夜、風呂から上がって自分の部屋へ向かう途中、洗面所から水の流れる音が聞こえてきた。ちらりと覗くと、母が洗面台の前に立ち、何かを手で洗っていた。健太はそれが自分のユニフォームだとは思ったものの、特に声をかけることもなく、そのまま部屋へ戻った。
翌朝、洗濯物の中にあったユニフォームは、見違えるほどきれいになっていた。
胸元についていた泥の跡も、膝の茶色い染みも、ほとんどわからなくなっていた。健太はそれを手に取り、何となく顔を近づけた。
いつもの、あの匂いがした。
そのときは、ただ洗濯した服の匂いだと思っただけだった。
高校に進んでからも、母は変わらずユニフォームを洗ってくれた。
高校のグラウンドには芝のある場所もあり、今度は泥だけでなく、草の汁が染みつくことも増えた。白い生地に緑色の汚れがついたときなど、健太自身もさすがに落ちないだろうと思ったが、次の試合の日には、きれいなユニフォームが用意されていた。
試合のある朝、母は決まって畳んだユニフォームを手渡してくれた。
「ほら、きれいになったわよ。活躍しなさいよ!」
その言葉も、いつものことだった。
「わかってるって。行ってきます」
健太がそう答えて玄関を飛び出すと、母は笑いながら見送ってくれた。
勝った日も負けた日も、得点できた日も何もできずに終わった日も、母の態度は変わらなかった。泥だらけのユニフォームを見れば文句の一つも言ったが、次の試合には必ずきれいにしてくれた。
高校三年生の夏、最後の大会が終わった日もそうだった。
チームは目標としていたところまで勝ち進めず、健太の高校サッカーはそこで終わった。三年間、あれほど毎日練習してきたのに、終わってしまえばあっけないものだった。
帰宅した健太が「負けた。もう引退」と告げると、母は少し寂しそうに笑った。
「そっか。三年間、お疲れさま」
そして、鞄から取り出したユニフォームを見て、「最後までよく汚したわねえ」と苦笑した。
数日後、そのユニフォームはいつもと同じように洗われ、きれいに畳まれて健太の部屋に置かれていた。健太はそれを手に取ってしばらく眺め、もうこのユニフォームを着て試合に出ることはないのだと思った。
あのときも、同じ匂いがしていた。
*
健太は洗面台の前で、手にした石けんをじっと見つめた。
あれほど何度も嗅いでいた匂いなのに、今までその正体を知らなかったのだ。
「これで洗ってくれてたんだな……」
小さくつぶやくと、胸の奥に何とも言えない気持ちが広がった。
中学、高校と六年間、どれだけのユニフォームを汚してきただろう。雨の日には泥まみれになり、芝の上では草の汁をつけ、夏には汗でびっしょりになった。それでも次に着るときには、いつもきれいになっていた。
母はきっと、洗濯機に入れる前に、こうして一つ一つ汚れを落としてくれていたのだろう。あの夜、洗面所から聞こえていた水音も、今なら何をしていたのかわかる気がした。
健太は作業着の袖を水で濡らし、教えられたとおりに石けんをこすりつけた。白い泡が立ち、布を揉むと、泡が少しずつ灰色に変わっていく。何度か繰り返すうちに黒ずんだ部分が薄くなってきたが、思っていたより時間がかかり、指先にも力が必要だった。
袖を裏返し、もう一度石けんをつけて揉み洗いする。汚れの残った部分を確かめながら作業を続けていると、次第に手が疲れてきた。
健太は思わず苦笑した。
たった一着でこれなのだ。
母は毎日、家族の洗濯物を洗っていた。自分の練習着やユニフォームだけでなく、父の仕事着や普段着、タオルや靴下もあったはずだ。その中で、落ちにくい汚れがあれば、こんなふうに手をかけてくれていたのだろう。
そう考えると、今まで何も知らずにいたことが少し恥ずかしくなった。
汚れがだいぶ薄くなったところで、健太は作業着を十分にすすぎ、もう一度洗濯機に入れた。洗濯機が回り始めると、狭い部屋に規則正しい水音が響いた。
ベッドに腰を下ろした健太は、しばらくその音に耳を傾けていた。
実家にいた頃は、母が洗濯をしている音など気にしたこともなかった。洗面所から水の音が聞こえても、洗濯機が回っていても、それは家の中にいつもある音の一つにすぎなかった。
けれど今は、その音の向こうに母の姿が浮かんでくる。
泥のついたユニフォームを広げ、汚れを確かめながら石けんをこすりつける母。洗い終わったものを干し、乾けば畳んで、試合の朝に渡してくれる母。
自分が何も考えずに受け取っていた一着には、そんな時間がかかっていたのだ。
健太はふと、あの言葉を思い出した。
「活躍しなさいよ!」
試合の朝、いつも母が笑いながら言っていた言葉だった。
当時は、勝ってこい、点を取ってこいという意味だと思っていた。もちろん、母もそういう気持ちで言っていたのだろう。けれど、今になって思えば、怪我をせずに帰っておいでとか、悔いのないように頑張っておいでとか、そんな思いも込められていたのかもしれない。
健太は窓の外を眺めた。
寮の向かいの建物にはいくつもの明かりが灯り、遠くの道路を車が走っていた。実家とは違う街の夜景にも、少しずつ慣れてきたところだった。
ここには母はいない。
汚れた作業着を渡しても、洗ってくれる人はいないし、明日の朝にきれいな服を用意してくれる人もいない。
それでも、こうして困ったときに教えてくれる。
母がしてくれていたことを、今度は自分で覚えていくのだ。
洗濯機の中で水が回る音を聞きながら、健太はもう一度、手元に残った緑色の石けんを見た。
六年間、ずっと自分のそばにあった匂い。
その正体を知ったのが、サッカーを引退して、親元を離れた今だというのが、何だか不思議だった。
*
翌朝、健太はいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、狭い部屋を明るく照らしていた。昨夜、洗濯を終えて干しておいた作業着は、すっかり乾いている。
健太はハンガーから外し、袖を広げてみた。
黒く目立っていた油汚れは、ほとんど気にならないほど薄くなっていた。新品同様というわけではないが、昨日の状態を思えば上出来だった。
「おお、きれいになってる」
思わず声が出た。
自分で洗った作業着がきれいになっている。ただそれだけのことなのに、少し誇らしい気持ちになった。
健太は作業着に袖を通した。
すると、ほのかに石けんの香りがした。
その瞬間、試合の朝の光景が蘇った。
玄関に置かれたスポーツバッグ。磨いたスパイク。まだ眠気の残る自分の顔を見ながら、母が差し出してくれた真っ白なユニフォーム。
「ほら、きれいになったわよ。活躍しなさいよ!」
健太は思わず笑った。
鏡の中に映っているのは、もう白いユニフォームを着た高校生ではなかった。
紺色の作業着には会社の名前が小さく刺繍され、胸元には自分の名前が入っている。背番号もなければ、チームのエンブレムもない。これから向かうのはグラウンドではなく、機械の音が響く工場だった。
仕事はまだ覚えることばかりで、毎日のように新しいことを教わっている。工具の名前を間違えることもあれば、先輩に注意されて落ち込むこともある。昨日だって、作業着を汚してしまったことが気になり、帰り道では少し気が重かった。
けれど、サッカーだって最初からうまくできたわけではなかった。
初めて試合に出たときは緊張して思うように走れなかったし、パスを失敗して仲間に謝ったことも数え切れない。それでも練習を重ねるうちに、少しずつできることが増えていった。
仕事も、きっと同じなのだろう。
健太は鏡の前で襟元を整えた。
母が今の自分を見たら、何と言うだろうか。
たぶん、昔と同じように笑って言うのだろう。
「活躍しなさいよ!」
そう思うと、自然に背筋が伸びた。
「母さん、俺、仕事頑張るよ」
声に出してみると、少し照れくさかった。誰もいない部屋でよかったと思いながら、健太は鞄を手に取った。
出かける前にスマートフォンを開き、母へ短いメッセージを送った。
『ウタマロ、すげえよく落ちた。ありがとう』
昨夜のことを思い出せば、本当はもっと伝えたいことがあった。今まで何度も汚れたユニフォームを洗ってくれてありがとうとか、一人暮らしを始めて初めて大変さがわかったとか、そんな言葉も頭には浮かんだ。
けれど、いざ文字にしようとすると、何だか気恥ずかしくなった。
結局、送ったのはそれだけだった。
しばらくして、母から返事が届いた。
『よかったね。今日も頑張ってね!』
健太は画面を見つめ、それから小さく笑った。
昔と変わらないな、と思った。
試合の日も、初めての仕事の日も、母はいつも同じように自分を送り出してくれる。
健太はスマートフォンをポケットにしまい、玄関で靴を履いた。部屋の鍵を確かめ、扉を開けると、朝の少し冷たい空気が頬に触れた。
寮の廊下では、同じ工場に勤める先輩がちょうど部屋から出てきたところだった。健太が挨拶すると、先輩は「おう、おはよう。今日も頑張ろうな」と声をかけてくれた。
「はい!」
健太はいつもより少し大きな声で答え、先輩と並んで階段へ向かった。
歩くたびに、作業着の袖から微かに石けんの香りがした。
泥だらけになってボールを追いかけていた頃、何度も嗅いだ匂いだった。
あの頃は、母がきれいにしてくれたユニフォームを着て、グラウンドへ向かった。
今は、自分で洗った作業着を着て、工場へ向かっている。
着るものも、向かう場所も変わったけれど、袖口から漂う香りだけは、あの頃と同じだった。
健太は階段を下りながら、今日教わる予定の仕事を思い浮かべた。昨日までは少し不安だった作業も、今日は何となくうまくできそうな気がした。
朝の光が、寮の入口を明るく照らしていた。
健太はその光の中へ、しっかりと足を踏み出した。
(第十七話 完)




