↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/21

第十六話 お蕎麦の香り

 由美にとって、休日の昼食はちょっとした楽しみだった。

 平日は会社と自宅を往復するだけで、昼食も職場の近くで手早く済ませることが多い。けれど休みの日くらいは、時間を気にせず好きなものを食べたいと思っていた。

 そして由美が何より好きなのは、蕎麦だった。

 四十歳になった今でも、その好みは少しも変わらない。新しい蕎麦屋ができたと聞けば足を運び、旅行に出かければ評判の店を探した。駅前の立ち食い蕎麦も好きだし、古い木造の店でゆっくり味わう手打ち蕎麦も好きだった。

 蕎麦の香り、つゆの味、喉を通るときの心地よさ。同じ蕎麦でも店によって驚くほど違いがあり、それを確かめるのが楽しかった。

 その日、由美が訪れたのは、駅から少し離れた住宅街に新しく開店した蕎麦屋だった。

 以前は小さな喫茶店だった場所が改装され、落ち着いた色の暖簾が掛けられている。店先には開店祝いの花が飾られ、まだ新しい木の看板には、控えめな文字で店の名前が書かれていた。

 由美は暖簾をくぐり、引き戸を開けた。

「いらっしゃいませ」

 店内には新しい木の香りが残り、奥の厨房からは出汁の匂いが漂っていた。四人掛けのテーブルがいくつかと、窓際には一人でも座りやすいカウンター席が設けられている。

 由美は窓際の席に腰を下ろした。

 初めて訪れる蕎麦屋では、たいてい冷たいもり蕎麦を注文することにしていた。蕎麦そのものの味を楽しみたいからだ。もっとも、それは自分なりのこだわりというだけで、温かい蕎麦も天ぷら蕎麦も大好きだった。

 運ばれてきたお茶を飲みながら、由美は店内を眺めた。

 昼時を少し過ぎていたため、客はそれほど多くない。隣のテーブルでは年配の夫婦がゆっくり食事をしており、奥の席では若い男性が黙々と蕎麦をすすっていた。

 やがて厨房から、茹で上がった蕎麦の湯気とともに、ほのかな香りが流れてきた。

 由美のお腹が小さく鳴った。

 朝食はきちんと食べてきたはずなのに、蕎麦の香りを嗅いだ途端、急に空腹を覚えたのだ。

 思わず笑ってしまった。

 本当に、私はお蕎麦が好きなんだな。

 そう思ったとき、ふと不思議な疑問が浮かんだ。

 そういえば、私はいつからこんなにお蕎麦が好きなんだろう。

 子供の頃から好きだったことは覚えている。けれど、最初においしいと思ったのはいつだったのか、これまで考えたこともなかった。

 由美は湯飲みを両手で包みながら、遠い記憶をたどった。

 小学校に入ったばかりの頃だっただろうか。

 母と二人で出かけた、あのデパート。

 そうだ。

 あの日、初めて食べたお蕎麦が、とてもおいしかったのだ。

     *

 由美が小学二年生だった頃、駅前には大きなデパートがあった。

 今では建物そのものがなくなってしまったが、当時の由美にとって、そこは特別な場所だった。

 入口の大きなガラス扉を抜けると、化粧品売り場から華やかな香りが漂い、天井からは明るい音楽が流れていた。磨かれた床はぴかぴかに光り、色とりどりの商品が整然と並んでいる。

 エスカレーターに乗ると、階が変わるたびに景色も変わった。

 婦人服売り場、紳士服売り場、寝具売り場。どの階にも普段の生活では見かけないものが並び、由美は母に手を引かれながら、きょろきょろと周囲を見回していた。

 中でも大好きだったのは、おもちゃ売り場だった。

 色鮮やかな箱に入った人形やゲーム、ぬいぐるみが並び、由美はそこを通るたびに足を止めた。

「お母さん、ちょっとだけ見ていい?」

 そう尋ねると、母は決まって「ちょっとだけよ」と笑った。

 その日も母は買い物の用事があり、由美を連れてデパートへ来ていた。

 午前中いっぱい売り場を回り、母が洋服を選ぶ間、由美は近くの椅子に座って待っていた。途中でおもちゃ売り場にも寄ってもらい、欲しいものを見つけては母に値札を見せたが、今日は見るだけだと言われていた。

 買い物が一段落した頃、母が腕時計を見た。

「もうお昼ね。何か食べて帰ろうか」

 その言葉に、由美はぱっと顔を上げた。

 デパートでお昼ご飯を食べるのは、買い物と同じくらい楽しみだった。

 上の階にはレストラン街があり、洋食屋や中華料理店、喫茶店などが並んでいた。店先には本物そっくりの食品サンプルが飾られ、オムライスやハンバーグ、クリームソーダなどが、由美の目にはどれもおいしそうに映った。

 エスカレーターで上の階へ向かいながら、由美は何を食べようかと考えていた。

 オムライスもいいし、ハンバーグも捨てがたい。

 そんなことを考えていると、母がふいに言った。

「今日は、お蕎麦にしない?」

 由美は少し驚いた。

「お蕎麦?」

「そう。お母さん、久しぶりに食べたくなっちゃった」

 由美は口を尖らせた。

 せっかくデパートへ来たのだから、オムライスかハンバーグが食べたかったのだ。

 蕎麦なら家でも食べたことがある。年越し蕎麦や、暑い日の昼食に出てくることもあったが、由美にとっては特別好きな食べ物ではなかった。

 母はそんな娘の顔を見て、少し笑った。

「ここのお蕎麦、おいしいのよ。一度食べてみようよ」

 由美はしばらく迷ったが、母がそこまで言うのならと、しぶしぶうなずいた。

 母に手を引かれて入ったのは、レストラン街の奥にある蕎麦屋だった。

 入口には紺色の暖簾が掛かり、ガラスケースの中には蕎麦やうどんの食品サンプルが並んでいた。店内には木のテーブルが整然と並び、奥からは出汁の香りが漂っていた。

 由美は母と向かい合って座った。

 母はメニューを開き、由美にも見せてくれた。

「何にする?」

 由美は写真を眺めた。

 冷たい蕎麦、温かい蕎麦、天ぷらの乗った蕎麦。いろいろな種類があったが、どれがいいのかよくわからなかった。

「お母さんは何にするの?」

「ざる蕎麦にしようかな」

「じゃあ、由美もそれ」

 母は笑って、ざる蕎麦を二つ注文した。

 しばらくすると、店員が二人分の蕎麦を運んできた。

 黒っぽいざるの上には、細く揃った蕎麦がきれいに盛られていた。小さな器にはつゆが入り、薬味の葱とわさびが添えられている。

 由美は少し不思議そうに眺めた。

 家で食べる蕎麦とは、何だか違って見えた。

 母はつゆの入った器を手に取り、葱を少し入れた。

「こうやって、ちょっとだけつゆにつけて食べるのよ」

 母は箸で蕎麦を持ち上げ、つゆにつけてから口へ運んだ。

 由美も真似をしてみた。

 箸で蕎麦をつかむと、細い麺がするすると滑り落ちた。何度か持ち直して、ようやく一口分をつかんだ。

 つゆにつけて、口へ運ぶ。

 その瞬間だった。

 ふわりと、蕎麦の香りが広がった。

 噛むと、ほんのりとした甘みが感じられ、つゆの味がそれを引き立てた。喉を通るときのつるりとした感覚も、家で食べる蕎麦とは違う気がした。

 由美は目を丸くした。

「お母さん、これ、おいしい!」

 母は嬉しそうに笑った。

「でしょう?」

「うん! すごくおいしい!」

 由美はもう一口食べた。

 今度は少し多めにつゆにつけてみた。すると味が濃くなりすぎて、母に「少しだけでいいのよ」と教えられた。

 次は葱を入れてみた。

 葱の香りが加わると、また違ったおいしさがあった。

 わさびにも興味を持ったが、母に「辛いから少しだけね」と言われ、ほんの少しつけてみた。思った以上の辛さに慌ててお茶を飲み、母に笑われた。

 それでも由美は、夢中になって蕎麦を食べ続けた。

 いつの間にか、最初にオムライスが食べたいと思っていたことなど、すっかり忘れていた。

 母はそんな娘の様子を、向かいの席から嬉しそうに眺めていた。

「そんなに気に入ったの?」

「うん!」

「じゃあ、また来ようね」

「本当?」

「本当よ」

 由美は嬉しくなって、残っていた蕎麦をもう一口食べた。

 食べ終わる頃には、すっかりお腹がいっぱいになっていた。

 母が店員に頼んで蕎麦湯を持ってきてもらうと、由美はそれにも興味を示した。

「それ、何?」

「蕎麦湯っていうの。お蕎麦を茹でたお湯なのよ」

「お湯を飲むの?」

「残ったつゆに入れると、おいしいのよ」

 母が小さな湯桶から白く濁った湯を注ぐと、つゆの香りがふわりと広がった。

 由美も少しだけ飲んでみた。

 温かくて、優しい味がした。

 それまで蕎麦は、ただの昼ご飯の一つだった。

 けれど、その日から由美にとって、蕎麦は特別な食べ物になった。

     *

 それからというもの、由美はデパートへ行くたびに、あの蕎麦屋へ寄りたがるようになった。

 母が「今日は何を食べようか」と尋ねると、由美は決まって「お蕎麦!」と答えた。

 最初の頃は少し呆れていた母も、やがてそれを楽しみにするようになった。

 由美は毎回、ざる蕎麦を注文した。

 ときには天ぷらを一つ分けてもらい、ときには母の温かい蕎麦を少し味見させてもらった。それでも、最後にはやっぱり冷たいざる蕎麦がいちばん好きだと思った。

 食事を終えると、母と手をつないでエスカレーターを降りた。

 帰り道には地下の食品売り場へ寄り、夕食のおかずを買うこともあった。母が買い物をしている間、由美はガラスケースに並んだお菓子を眺めていた。

 そんな何でもない一日が、由美には楽しかった。

 やがて中学生になり、高校生になると、母と二人でデパートへ行く機会は少なくなった。

 友達と出かけることが増え、休日の過ごし方も変わっていった。

 それでも蕎麦が好きなことだけは変わらなかった。

 大学へ進んで一人暮らしを始めると、駅前の蕎麦屋へ一人で入るようになった。社会人になってからは、休日に評判の店を探して出かけることが楽しみになった。

 新しい店を見つけるたびに、どんな蕎麦が出てくるのだろうと胸が弾んだ。

 いつの間にか、それは由美の趣味になっていた。

 けれど、最初に蕎麦を好きになった日のことは、長い間思い出さなかった。

     *

「お待たせいたしました。もり蕎麦でございます」

 店員の声に、由美は顔を上げた。

 目の前に、注文した蕎麦が置かれた。

 新しい木のせいろに盛られた蕎麦は、細く、つややかだった。傍らにはつゆと薬味が添えられ、ほのかな香りが漂っている。

 由美は箸を取り、蕎麦を少し持ち上げた。

 つゆにつける前に、まずそのまま一口食べてみる。

 口に入れると、蕎麦の香りがふわりと広がった。

 噛むほどに、穀物の優しい甘みが感じられる。

 由美は思わず頬を緩めた。

 おいしい。

 次につゆを少しだけつけて食べると、出汁の旨みが蕎麦の風味を引き立てた。

 由美は箸を進めながら、遠い日の母の姿を思い浮かべていた。

 あのデパートの蕎麦屋。

 向かいに座っていた母。

 箸の持ち方を教えてくれたこと。つゆは少しだけつけるのだと教えてくれたこと。わさびをつけすぎて慌てた自分を見て笑っていたこと。

 そして、蕎麦をおいしいと喜ぶ自分を、嬉しそうに眺めていたこと。

 由美は、ようやく気づいた。

 自分が蕎麦を好きになったのは、もちろんあの日の蕎麦がおいしかったからだ。

 けれど、それだけではなかったのかもしれない。

 母と二人で出かけたデパート。

 きらきらした売り場や、エスカレーターから見えた景色。

 いつもより少し特別な昼食。

 そして、向かいに座る母の笑顔。

 そうした楽しい時間も一緒になって、蕎麦を好きになったのだろう。

 由美は四十歳になっていた。

 仕事も忙しく、母と二人でゆっくり食事をする機会は、いつの間にか少なくなっていた。

 母は今も元気に暮らしている。

 電話をすればいつでも話せるし、会おうと思えば会える距離に住んでいる。

 それなのに、最後に二人で外食したのがいつだったか、すぐには思い出せなかった。

 由美は蕎麦をもう一口食べた。

 今度、お母さんを誘ってみよう。

 そう思った。

 あの頃は母が店を選び、由美を連れて行ってくれた。

 今度は自分が、おいしい店を見つけて母を連れて行こう。

 目の前の蕎麦は、もう半分ほどになっていた。

 由美は急に、この店の蕎麦を母にも食べてもらいたくなった。

     *

 食事を終えると、由美は蕎麦湯をゆっくり味わった。

 温かい蕎麦湯が、つゆの香りを柔らかく広げていく。

 子供の頃、母に初めて教えてもらった味だった。

 店を出る頃には、午後の日差しが少し傾き始めていた。

 由美は暖簾をくぐり、振り返って店の外観を眺めた。

 新しい木の看板。控えめな紺色の暖簾。ガラス越しに見える落ち着いた店内。

 いいお店を見つけた。

 由美はそう思いながら、鞄からスマートフォンを取り出した。

 母の番号を選び、電話をかける。

 数回呼び出し音が鳴ったあと、聞き慣れた声がした。

「もしもし、由美? どうしたの?」

「お母さん、今大丈夫?」

「大丈夫よ。何かあった?」

「ううん。ちょっと聞きたいことがあって」

 由美は歩道の端に寄り、通り過ぎる人を避けながら話し始めた。

「ねえ、昔、駅前のデパートにお蕎麦屋さんがあったの、覚えてる?」

 母は少し考えたあと、懐かしそうな声を出した。

「ああ、あったわねえ。レストラン街の奥にあったお店でしょう?」

「そうそう。私、小さい頃にお母さんと行ったよね」

「行ったわよ。何度も行ったじゃない」

 母の声が少し明るくなった。

「あなた、あそこでお蕎麦を食べてから、デパートへ行くたびにお蕎麦がいいって言うようになったんだから」

 由美は思わず笑った。

「やっぱり、そうだったんだ」

「覚えてないの?」

「今日、急に思い出したの。新しいお蕎麦屋さんに入ったら、昔のことを思い出して」

「そうなの。懐かしいわねえ」

 母は楽しそうに笑った。

「あなた、最初はオムライスが食べたいって、ちょっとふくれてたのよ」

「えっ、そこまで覚えてるの?」

「覚えてるわよ。お蕎麦を一口食べた途端、目を丸くしておいしいって言ったんだから」

 由美は思わず足を止めた。

 自分が長い間忘れていたことを、母はそんなにはっきり覚えていたのだ。

 デパートの賑わいも、あの蕎麦の味も、母と過ごした時間も、由美にとっては遠い記憶になっていた。

 けれど母の中には、あの日の小さな娘の姿が、今も残っていた。

「ねえ、お母さん」

「なあに?」

「今度、一緒にお蕎麦食べに行かない?」

 電話の向こうで、母が少し驚いたような声を出した。

「お蕎麦?」

「うん。今日行ったお店、すごくおいしかったの。今度お母さんにも食べてもらいたいなと思って」

「まあ、嬉しい。あなた、いつも一人でお蕎麦を食べに行ってるんでしょう?」

「そうだけど、たまには一緒に行こうよ」

 母は少し笑ってから、穏やかな声で答えた。

「いいわねえ。じゃあ、今度のお休みにでも行こうかしら」

「うん。私がごちそうするから」

「そんな、いいわよ。お母さんが出すわ」

「もう、いいってば。私だって働いてるんだから」

「そうねえ。でも、何だか変な感じね」

「何が?」

「昔は私が由美を連れて行ってたのに、今度は由美が私を連れて行ってくれるんだもの」

 その言葉に、由美は少しだけ胸が温かくなった。

「そうだね」

 母は電話の向こうで笑った。

「楽しみにしてるわね」

「うん。おいしいから、期待してて」

 電話を切ったあと、由美はしばらくその場に立っていた。

 通りには午後の穏やかな時間が流れていた。

 買い物袋を下げた人が歩き、近くの公園からは子供たちの声が聞こえてくる。

 由美はもう一度、蕎麦屋の暖簾を振り返った。

 今度来るときは、隣に母がいる。

 何を注文するだろう。

 やっぱり、昔と同じざる蕎麦だろうか。

 それとも、天ぷら蕎麦を頼むかもしれない。

 母が何を選ぶのか、今から少し楽しみだった。

 そして、もしこの店を気に入ってくれたら、また一緒に来ればいい。

 別の蕎麦屋へ行ってみるのもいいだろう。

 由美は歩き出した。

 四十年近く前、母に手を引かれてデパートへ行った小さな女の子は、今では一人で好きな店を探して歩くようになった。

 けれど、蕎麦を食べておいしいと思う気持ちは、あの頃と少しも変わっていなかった。

 今度は母と二人で、そのおいしさを分け合おう。

 由美はそんなことを考えながら、駅へ向かって歩いていった。

 口の中には、まだほんのりと蕎麦の香りが残っていた。

 それは、懐かしい思い出の香りであり、これから始まる新しい楽しみの香りでもあった。

(第十六話 完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。