第十六話 お蕎麦の香り
由美にとって、休日の昼食はちょっとした楽しみだった。
平日は会社と自宅を往復するだけで、昼食も職場の近くで手早く済ませることが多い。けれど休みの日くらいは、時間を気にせず好きなものを食べたいと思っていた。
そして由美が何より好きなのは、蕎麦だった。
四十歳になった今でも、その好みは少しも変わらない。新しい蕎麦屋ができたと聞けば足を運び、旅行に出かければ評判の店を探した。駅前の立ち食い蕎麦も好きだし、古い木造の店でゆっくり味わう手打ち蕎麦も好きだった。
蕎麦の香り、つゆの味、喉を通るときの心地よさ。同じ蕎麦でも店によって驚くほど違いがあり、それを確かめるのが楽しかった。
その日、由美が訪れたのは、駅から少し離れた住宅街に新しく開店した蕎麦屋だった。
以前は小さな喫茶店だった場所が改装され、落ち着いた色の暖簾が掛けられている。店先には開店祝いの花が飾られ、まだ新しい木の看板には、控えめな文字で店の名前が書かれていた。
由美は暖簾をくぐり、引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
店内には新しい木の香りが残り、奥の厨房からは出汁の匂いが漂っていた。四人掛けのテーブルがいくつかと、窓際には一人でも座りやすいカウンター席が設けられている。
由美は窓際の席に腰を下ろした。
初めて訪れる蕎麦屋では、たいてい冷たいもり蕎麦を注文することにしていた。蕎麦そのものの味を楽しみたいからだ。もっとも、それは自分なりのこだわりというだけで、温かい蕎麦も天ぷら蕎麦も大好きだった。
運ばれてきたお茶を飲みながら、由美は店内を眺めた。
昼時を少し過ぎていたため、客はそれほど多くない。隣のテーブルでは年配の夫婦がゆっくり食事をしており、奥の席では若い男性が黙々と蕎麦をすすっていた。
やがて厨房から、茹で上がった蕎麦の湯気とともに、ほのかな香りが流れてきた。
由美のお腹が小さく鳴った。
朝食はきちんと食べてきたはずなのに、蕎麦の香りを嗅いだ途端、急に空腹を覚えたのだ。
思わず笑ってしまった。
本当に、私はお蕎麦が好きなんだな。
そう思ったとき、ふと不思議な疑問が浮かんだ。
そういえば、私はいつからこんなにお蕎麦が好きなんだろう。
子供の頃から好きだったことは覚えている。けれど、最初においしいと思ったのはいつだったのか、これまで考えたこともなかった。
由美は湯飲みを両手で包みながら、遠い記憶をたどった。
小学校に入ったばかりの頃だっただろうか。
母と二人で出かけた、あのデパート。
そうだ。
あの日、初めて食べたお蕎麦が、とてもおいしかったのだ。
*
由美が小学二年生だった頃、駅前には大きなデパートがあった。
今では建物そのものがなくなってしまったが、当時の由美にとって、そこは特別な場所だった。
入口の大きなガラス扉を抜けると、化粧品売り場から華やかな香りが漂い、天井からは明るい音楽が流れていた。磨かれた床はぴかぴかに光り、色とりどりの商品が整然と並んでいる。
エスカレーターに乗ると、階が変わるたびに景色も変わった。
婦人服売り場、紳士服売り場、寝具売り場。どの階にも普段の生活では見かけないものが並び、由美は母に手を引かれながら、きょろきょろと周囲を見回していた。
中でも大好きだったのは、おもちゃ売り場だった。
色鮮やかな箱に入った人形やゲーム、ぬいぐるみが並び、由美はそこを通るたびに足を止めた。
「お母さん、ちょっとだけ見ていい?」
そう尋ねると、母は決まって「ちょっとだけよ」と笑った。
その日も母は買い物の用事があり、由美を連れてデパートへ来ていた。
午前中いっぱい売り場を回り、母が洋服を選ぶ間、由美は近くの椅子に座って待っていた。途中でおもちゃ売り場にも寄ってもらい、欲しいものを見つけては母に値札を見せたが、今日は見るだけだと言われていた。
買い物が一段落した頃、母が腕時計を見た。
「もうお昼ね。何か食べて帰ろうか」
その言葉に、由美はぱっと顔を上げた。
デパートでお昼ご飯を食べるのは、買い物と同じくらい楽しみだった。
上の階にはレストラン街があり、洋食屋や中華料理店、喫茶店などが並んでいた。店先には本物そっくりの食品サンプルが飾られ、オムライスやハンバーグ、クリームソーダなどが、由美の目にはどれもおいしそうに映った。
エスカレーターで上の階へ向かいながら、由美は何を食べようかと考えていた。
オムライスもいいし、ハンバーグも捨てがたい。
そんなことを考えていると、母がふいに言った。
「今日は、お蕎麦にしない?」
由美は少し驚いた。
「お蕎麦?」
「そう。お母さん、久しぶりに食べたくなっちゃった」
由美は口を尖らせた。
せっかくデパートへ来たのだから、オムライスかハンバーグが食べたかったのだ。
蕎麦なら家でも食べたことがある。年越し蕎麦や、暑い日の昼食に出てくることもあったが、由美にとっては特別好きな食べ物ではなかった。
母はそんな娘の顔を見て、少し笑った。
「ここのお蕎麦、おいしいのよ。一度食べてみようよ」
由美はしばらく迷ったが、母がそこまで言うのならと、しぶしぶうなずいた。
母に手を引かれて入ったのは、レストラン街の奥にある蕎麦屋だった。
入口には紺色の暖簾が掛かり、ガラスケースの中には蕎麦やうどんの食品サンプルが並んでいた。店内には木のテーブルが整然と並び、奥からは出汁の香りが漂っていた。
由美は母と向かい合って座った。
母はメニューを開き、由美にも見せてくれた。
「何にする?」
由美は写真を眺めた。
冷たい蕎麦、温かい蕎麦、天ぷらの乗った蕎麦。いろいろな種類があったが、どれがいいのかよくわからなかった。
「お母さんは何にするの?」
「ざる蕎麦にしようかな」
「じゃあ、由美もそれ」
母は笑って、ざる蕎麦を二つ注文した。
しばらくすると、店員が二人分の蕎麦を運んできた。
黒っぽいざるの上には、細く揃った蕎麦がきれいに盛られていた。小さな器にはつゆが入り、薬味の葱とわさびが添えられている。
由美は少し不思議そうに眺めた。
家で食べる蕎麦とは、何だか違って見えた。
母はつゆの入った器を手に取り、葱を少し入れた。
「こうやって、ちょっとだけつゆにつけて食べるのよ」
母は箸で蕎麦を持ち上げ、つゆにつけてから口へ運んだ。
由美も真似をしてみた。
箸で蕎麦をつかむと、細い麺がするすると滑り落ちた。何度か持ち直して、ようやく一口分をつかんだ。
つゆにつけて、口へ運ぶ。
その瞬間だった。
ふわりと、蕎麦の香りが広がった。
噛むと、ほんのりとした甘みが感じられ、つゆの味がそれを引き立てた。喉を通るときのつるりとした感覚も、家で食べる蕎麦とは違う気がした。
由美は目を丸くした。
「お母さん、これ、おいしい!」
母は嬉しそうに笑った。
「でしょう?」
「うん! すごくおいしい!」
由美はもう一口食べた。
今度は少し多めにつゆにつけてみた。すると味が濃くなりすぎて、母に「少しだけでいいのよ」と教えられた。
次は葱を入れてみた。
葱の香りが加わると、また違ったおいしさがあった。
わさびにも興味を持ったが、母に「辛いから少しだけね」と言われ、ほんの少しつけてみた。思った以上の辛さに慌ててお茶を飲み、母に笑われた。
それでも由美は、夢中になって蕎麦を食べ続けた。
いつの間にか、最初にオムライスが食べたいと思っていたことなど、すっかり忘れていた。
母はそんな娘の様子を、向かいの席から嬉しそうに眺めていた。
「そんなに気に入ったの?」
「うん!」
「じゃあ、また来ようね」
「本当?」
「本当よ」
由美は嬉しくなって、残っていた蕎麦をもう一口食べた。
食べ終わる頃には、すっかりお腹がいっぱいになっていた。
母が店員に頼んで蕎麦湯を持ってきてもらうと、由美はそれにも興味を示した。
「それ、何?」
「蕎麦湯っていうの。お蕎麦を茹でたお湯なのよ」
「お湯を飲むの?」
「残ったつゆに入れると、おいしいのよ」
母が小さな湯桶から白く濁った湯を注ぐと、つゆの香りがふわりと広がった。
由美も少しだけ飲んでみた。
温かくて、優しい味がした。
それまで蕎麦は、ただの昼ご飯の一つだった。
けれど、その日から由美にとって、蕎麦は特別な食べ物になった。
*
それからというもの、由美はデパートへ行くたびに、あの蕎麦屋へ寄りたがるようになった。
母が「今日は何を食べようか」と尋ねると、由美は決まって「お蕎麦!」と答えた。
最初の頃は少し呆れていた母も、やがてそれを楽しみにするようになった。
由美は毎回、ざる蕎麦を注文した。
ときには天ぷらを一つ分けてもらい、ときには母の温かい蕎麦を少し味見させてもらった。それでも、最後にはやっぱり冷たいざる蕎麦がいちばん好きだと思った。
食事を終えると、母と手をつないでエスカレーターを降りた。
帰り道には地下の食品売り場へ寄り、夕食のおかずを買うこともあった。母が買い物をしている間、由美はガラスケースに並んだお菓子を眺めていた。
そんな何でもない一日が、由美には楽しかった。
やがて中学生になり、高校生になると、母と二人でデパートへ行く機会は少なくなった。
友達と出かけることが増え、休日の過ごし方も変わっていった。
それでも蕎麦が好きなことだけは変わらなかった。
大学へ進んで一人暮らしを始めると、駅前の蕎麦屋へ一人で入るようになった。社会人になってからは、休日に評判の店を探して出かけることが楽しみになった。
新しい店を見つけるたびに、どんな蕎麦が出てくるのだろうと胸が弾んだ。
いつの間にか、それは由美の趣味になっていた。
けれど、最初に蕎麦を好きになった日のことは、長い間思い出さなかった。
*
「お待たせいたしました。もり蕎麦でございます」
店員の声に、由美は顔を上げた。
目の前に、注文した蕎麦が置かれた。
新しい木のせいろに盛られた蕎麦は、細く、つややかだった。傍らにはつゆと薬味が添えられ、ほのかな香りが漂っている。
由美は箸を取り、蕎麦を少し持ち上げた。
つゆにつける前に、まずそのまま一口食べてみる。
口に入れると、蕎麦の香りがふわりと広がった。
噛むほどに、穀物の優しい甘みが感じられる。
由美は思わず頬を緩めた。
おいしい。
次につゆを少しだけつけて食べると、出汁の旨みが蕎麦の風味を引き立てた。
由美は箸を進めながら、遠い日の母の姿を思い浮かべていた。
あのデパートの蕎麦屋。
向かいに座っていた母。
箸の持ち方を教えてくれたこと。つゆは少しだけつけるのだと教えてくれたこと。わさびをつけすぎて慌てた自分を見て笑っていたこと。
そして、蕎麦をおいしいと喜ぶ自分を、嬉しそうに眺めていたこと。
由美は、ようやく気づいた。
自分が蕎麦を好きになったのは、もちろんあの日の蕎麦がおいしかったからだ。
けれど、それだけではなかったのかもしれない。
母と二人で出かけたデパート。
きらきらした売り場や、エスカレーターから見えた景色。
いつもより少し特別な昼食。
そして、向かいに座る母の笑顔。
そうした楽しい時間も一緒になって、蕎麦を好きになったのだろう。
由美は四十歳になっていた。
仕事も忙しく、母と二人でゆっくり食事をする機会は、いつの間にか少なくなっていた。
母は今も元気に暮らしている。
電話をすればいつでも話せるし、会おうと思えば会える距離に住んでいる。
それなのに、最後に二人で外食したのがいつだったか、すぐには思い出せなかった。
由美は蕎麦をもう一口食べた。
今度、お母さんを誘ってみよう。
そう思った。
あの頃は母が店を選び、由美を連れて行ってくれた。
今度は自分が、おいしい店を見つけて母を連れて行こう。
目の前の蕎麦は、もう半分ほどになっていた。
由美は急に、この店の蕎麦を母にも食べてもらいたくなった。
*
食事を終えると、由美は蕎麦湯をゆっくり味わった。
温かい蕎麦湯が、つゆの香りを柔らかく広げていく。
子供の頃、母に初めて教えてもらった味だった。
店を出る頃には、午後の日差しが少し傾き始めていた。
由美は暖簾をくぐり、振り返って店の外観を眺めた。
新しい木の看板。控えめな紺色の暖簾。ガラス越しに見える落ち着いた店内。
いいお店を見つけた。
由美はそう思いながら、鞄からスマートフォンを取り出した。
母の番号を選び、電話をかける。
数回呼び出し音が鳴ったあと、聞き慣れた声がした。
「もしもし、由美? どうしたの?」
「お母さん、今大丈夫?」
「大丈夫よ。何かあった?」
「ううん。ちょっと聞きたいことがあって」
由美は歩道の端に寄り、通り過ぎる人を避けながら話し始めた。
「ねえ、昔、駅前のデパートにお蕎麦屋さんがあったの、覚えてる?」
母は少し考えたあと、懐かしそうな声を出した。
「ああ、あったわねえ。レストラン街の奥にあったお店でしょう?」
「そうそう。私、小さい頃にお母さんと行ったよね」
「行ったわよ。何度も行ったじゃない」
母の声が少し明るくなった。
「あなた、あそこでお蕎麦を食べてから、デパートへ行くたびにお蕎麦がいいって言うようになったんだから」
由美は思わず笑った。
「やっぱり、そうだったんだ」
「覚えてないの?」
「今日、急に思い出したの。新しいお蕎麦屋さんに入ったら、昔のことを思い出して」
「そうなの。懐かしいわねえ」
母は楽しそうに笑った。
「あなた、最初はオムライスが食べたいって、ちょっとふくれてたのよ」
「えっ、そこまで覚えてるの?」
「覚えてるわよ。お蕎麦を一口食べた途端、目を丸くしておいしいって言ったんだから」
由美は思わず足を止めた。
自分が長い間忘れていたことを、母はそんなにはっきり覚えていたのだ。
デパートの賑わいも、あの蕎麦の味も、母と過ごした時間も、由美にとっては遠い記憶になっていた。
けれど母の中には、あの日の小さな娘の姿が、今も残っていた。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「今度、一緒にお蕎麦食べに行かない?」
電話の向こうで、母が少し驚いたような声を出した。
「お蕎麦?」
「うん。今日行ったお店、すごくおいしかったの。今度お母さんにも食べてもらいたいなと思って」
「まあ、嬉しい。あなた、いつも一人でお蕎麦を食べに行ってるんでしょう?」
「そうだけど、たまには一緒に行こうよ」
母は少し笑ってから、穏やかな声で答えた。
「いいわねえ。じゃあ、今度のお休みにでも行こうかしら」
「うん。私がごちそうするから」
「そんな、いいわよ。お母さんが出すわ」
「もう、いいってば。私だって働いてるんだから」
「そうねえ。でも、何だか変な感じね」
「何が?」
「昔は私が由美を連れて行ってたのに、今度は由美が私を連れて行ってくれるんだもの」
その言葉に、由美は少しだけ胸が温かくなった。
「そうだね」
母は電話の向こうで笑った。
「楽しみにしてるわね」
「うん。おいしいから、期待してて」
電話を切ったあと、由美はしばらくその場に立っていた。
通りには午後の穏やかな時間が流れていた。
買い物袋を下げた人が歩き、近くの公園からは子供たちの声が聞こえてくる。
由美はもう一度、蕎麦屋の暖簾を振り返った。
今度来るときは、隣に母がいる。
何を注文するだろう。
やっぱり、昔と同じざる蕎麦だろうか。
それとも、天ぷら蕎麦を頼むかもしれない。
母が何を選ぶのか、今から少し楽しみだった。
そして、もしこの店を気に入ってくれたら、また一緒に来ればいい。
別の蕎麦屋へ行ってみるのもいいだろう。
由美は歩き出した。
四十年近く前、母に手を引かれてデパートへ行った小さな女の子は、今では一人で好きな店を探して歩くようになった。
けれど、蕎麦を食べておいしいと思う気持ちは、あの頃と少しも変わっていなかった。
今度は母と二人で、そのおいしさを分け合おう。
由美はそんなことを考えながら、駅へ向かって歩いていった。
口の中には、まだほんのりと蕎麦の香りが残っていた。
それは、懐かしい思い出の香りであり、これから始まる新しい楽しみの香りでもあった。
(第十六話 完)




