第十五話 雨上がりのアスファルト
午後三時を少し過ぎた頃、直樹は駅前の商店街を歩いていた。
八月も終わりに近づいているというのに、暑さは一向に衰える気配がない。歩道に敷き詰められたタイルは白く照り返し、通りに面した店のガラスには、夏の日差しを受けた街並みがまぶしく映り込んでいた。
休日を利用して、仕事で必要な資料を買いに来た帰りだった。用事は思いのほか早く済み、家に帰れば夕方までのんびりできそうだった。妻の美穂には帰りに何か買ってくるものはないかと尋ねたが、特にないと言われていた。
直樹は手にした紙袋を持ち直し、何気なく空を見上げた。
先ほどまで青かった空に、いつの間にか灰色の雲が広がっていた。遠くの建物の向こうには、ひときわ黒い雲が盛り上がっている。風も少し強くなり、街路樹の葉がざわざわと音を立て始めていた。
雨になるかもしれない。
そう思った直後、頬に冷たいものが当たった。
直樹が足を止めると、今度は腕に一粒、続いて手の甲にも雨粒が落ちてきた。乾ききったアスファルトに黒い点がいくつも現れ、それがみるみるうちに広がっていく。
まずいな、と考える間もなかった。
突然、空の底が抜けたような雨が降り出した。
通りを歩いていた人々が一斉に走り始め、店先では慌てて商品を片づける店員の姿が見えた。直樹も紙袋を胸に抱え、近くの店の軒先へ駆け込んだ。屋根の下に入ったときには、シャツの肩と背中が少し濡れていた。
雨は凄まじい勢いで道路を叩いていた。車が通るたびに水しぶきが上がり、向かい側の店の看板さえ雨の幕に霞んで見える。
直樹は濡れた腕を軽く払い、ため息をついた。
朝はあんなに晴れていたのに、傘を持ってこなかったことを後悔しても仕方がない。急いで帰らなければならない理由もなかったので、しばらくここで雨宿りすることにした。
軒先の屋根を雨粒が叩く音は思いのほか大きく、街のざわめきが遠くへ押し流されていくようだった。
そのとき、ふわりと鼻をくすぐる匂いがした。
日差しに焼かれたアスファルトに雨が落ちたときの、あの独特な匂いだった。
乾いた埃を湿らせたような、土とも草とも違う、少し青臭さを含んだ匂い。夏の道路が急に冷やされていくときだけ感じられるようなその香りに、直樹は不意に懐かしさを覚えた。
子供の頃から何度も嗅いできたはずなのに、今日はなぜか胸の奥に引っかかるものがあった。
何だっただろう。
直樹は軒先から道路を眺めながら、記憶の中を探った。
激しく跳ねる雨粒。濡れた制服の袖。耳元で聞こえた女の子の声。
そして、淡い水色の傘。
忘れていた光景が、雨の向こうから少しずつ近づいてきた。
ああ、そうだ。
あの日も、こんな雨だった。
*
直樹が高校二年生だった夏のことだ。
その日は朝から抜けるような青空が広がり、学校へ向かう途中で見上げた空には雲一つなかった。蝉の声がやかましいほど響き、駅から学校までの道を歩くだけで背中に汗が滲んだ。
放課後、部活動を終えて校舎を出たとき、直樹は空の変化に気づいた。
校庭の向こうに黒い雲が広がり、昼間とは違う生ぬるい風が吹いていた。遠くで雷鳴が聞こえたような気もしたが、駅まで歩いて十五分ほどだから、急げば間に合うだろうと考えた。
ところが校門を出て間もなく、大粒の雨が落ちてきた。
最初は数えるほどだった雨粒が、あっという間に道路を黒く染めた。直樹は慌てて引き返し、校門近くにある小さな建物の軒下へ駆け込んだ。
屋根の下から見える道路は、まるで別の場所になったようだった。
雨粒が跳ね、側溝へ勢いよく水が流れ込んでいく。昼間の熱を蓄えていたアスファルトからは、湿った独特の匂いが立ち上っていた。
直樹は鞄を足元に置き、空を見上げた。
いつやむのだろう。
雨脚は弱まるどころか、ますます強くなっていた。
校門からは傘を差した生徒たちが次々と出てきた。友達同士で一つの傘に入り、笑いながら走っていく男子生徒もいる。直樹は知り合いが通らないかと期待したが、部活動が終わる時間が違ったらしく、見慣れた顔は現れなかった。
いっそ濡れて帰ろうかとも考えたが、駅までの道のりを思うと、その気にもなれなかった。
そんなときだった。
「ねえ、傘ないの?」
すぐ横から声がして、直樹は顔を上げた。
そこには、淡い水色の傘を手にした女子生徒が立っていた。
肩にかかるくらいの髪が風に揺れ、制服の襟元には小さな雨粒がついている。どこかで見た顔だった。確か隣のクラスの生徒で、廊下ですれ違ったことは何度もある。
名前は田中美穂。
共通の友人がいたので名前だけは知っていたが、まともに話した記憶はなかった。
直樹が傘を持っていないと答えると、美穂は自分も朝は降ると思わなかったのだと笑った。母親に無理やり傘を持たされたのだという。
「駅まで行くんでしょ? だったら一緒に入っていく?」
あまりに自然な申し出だったので、直樹は一瞬返事に困った。
隣のクラスの女子と、二人で一本の傘に入って帰る。
それだけのことなのに、なぜか胸が落ち着かなかった。
傘が小さいから悪いと遠慮してみたものの、美穂は「二人くらい入れるよ」と笑い、さっさと傘を広げてしまった。
直樹は礼を言い、彼女の隣に入った。
水色の傘の下は、思っていたよりずっと狭かった。
美穂が一歩踏み出すと、直樹も慌てて足を動かした。傘の縁から落ちる雨粒が肩に触れ、彼女に近づけば近づくほど、自分の歩き方がぎこちなくなるのがわかった。
雨音が大きく、隣にいる美穂の声も、ときどき聞き取りにくかった。何かを尋ねられるたびに顔を近づけることになり、そのたびに直樹は妙に意識してしまった。
しばらく二人は、ほとんど言葉を交わさずに歩いた。
美穂が傘を少し直すと、直樹もそれに合わせて体を動かす。彼女の歩幅に合わせようとして足がもつれそうになり、思わず苦笑した。
「なんか、歩きにくいね」
美穂が笑った。
直樹が謝ると、彼女はまた笑い、「もっとこっちに寄ればいいのに」と言った。
その言葉に、直樹は余計に緊張してしまった。
傘の外側にある右肩は、いつの間にかかなり濡れていた。それでも、これ以上近づく勇気がなかった。
美穂は何度か気にしてくれたが、直樹は平気だと答えた。
実際、肩が濡れることなど、どうでもよかった。
隣を歩く彼女に、何を話せばいいのか。
そればかり考えていた。
やがて直樹は、思い切って話しかけた。
隣のクラスの田中さんだよね、と尋ねると、美穂は少し呆れたように笑い、「そうだよ。そっちは佐藤君でしょ」と答えた。
自分の名前を知っていたことが意外で、直樹は思わず聞き返してしまった。
すると美穂は、隣のクラスなのだから当然だと言い、直樹が休み時間に廊下で友達と大きな声で話していることまで知っていた。
そんなところを見られていたのかと思うと恥ずかしかったが、美穂の笑い方には人をからかうような嫌なところがなく、直樹も自然と笑うことができた。
それから、少しずつ会話が弾むようになった。
学校の先生の話、夏休みの予定、好きな食べ物。何気ない話題を一つずつ重ねていくうちに、最初の緊張が薄れていった。
美穂が最近買った音楽のアルバムについて話し始めたとき、直樹は思わず声を弾ませた。
自分もその歌手が好きだったのだ。
好きな曲の話になると、美穂も驚くほど楽しそうに話した。サビに入るところが好きだと言えば、彼女も同じだと言って笑う。別の曲の話をすると、今度は美穂が自分の好きな部分を教えてくれた。
直樹は、こんなに話の合う相手が隣のクラスにいたのかと驚いていた。
それまで彼女のことを、顔と名前しか知らない女子生徒だと思っていた。
けれど今は、もっと話してみたいと思っていた。
雨は相変わらず降っていたが、直樹にはもう、その音さえ心地よく感じられた。
駅へ続く道が、いつもより短く思えた。
商店街の屋根が見えてきたとき、直樹は心の中で少し残念に思った。
もう着いてしまう。
さっきまで早く雨がやんでほしいと思っていたのに、今はもう少しこのまま歩いていたかった。
駅の屋根の下へ入ると、美穂は傘を閉じた。
直樹の右肩はすっかり濡れていた。彼女の制服はほとんど濡れておらず、直樹は何となく安心した。
礼を言うと、美穂はいつものように明るく笑った。
「じゃあ、また明日ね」
それだけ言って、改札の方へ歩いていった。
直樹は彼女の後ろ姿を見送りながら、その言葉を心の中で繰り返していた。
また明日。
同じ学校なのだから、明日も会うのは当たり前のことだった。
それなのに、その何でもない約束が嬉しくて仕方なかった。
直樹は濡れた肩を軽く払ってから、改札へ向かった。
駅の外では、まだ小雨が降っていた。
*
翌日、直樹はいつもより少し早く学校へ向かった。
特別な理由があったわけではない。ただ、昨日のことが頭から離れず、家にいても落ち着かなかったのだ。
教室に鞄を置き、廊下へ出ると、向こうから美穂が友達と一緒に歩いてきた。
直樹は声をかけようか迷った。
昨日はあんなに話したのに、今日はどう話しかければいいのかわからない。目をそらそうとした瞬間、美穂が先に彼に気づいた。
「おはよう、佐藤君。昨日、風邪ひかなかった?」
美穂は昨日と変わらない笑顔でそう尋ねた。
直樹が大丈夫だったと答えると、彼女は安心したようにうなずき、友達と教室へ入っていった。
ほんの短い会話だった。
けれど直樹は、その日一日、何となく気分がよかった。
それから二人は、廊下ですれ違えば挨拶を交わすようになった。最初はそれだけだったが、やがて休み時間に立ち話をすることも増えた。
音楽の趣味が合うとわかってからは、互いにアルバムを貸し借りするようになった。
直樹が貸したアルバムを美穂が返してくれるときには、決まって感想を聞かせてくれた。好きだった曲や、何度も聴いた部分を楽しそうに話す彼女を見ていると、直樹まで嬉しくなった。
秋になる頃には、放課後に一緒に帰ることが増えていた。
駅までの道を並んで歩く時間が、直樹にとって一日の楽しみになっていた。
あの日のように雨が降ることもあったが、今度は直樹も傘を持っていた。二人で別々の傘を差して歩きながら、直樹はときどき、最初に一つの傘で帰った日のことを思い出した。
冬には、休日に二人で映画を見に行った。
映画館の暗がりで隣に座る美穂を意識しすぎて、映画の内容があまり頭に入らなかったことを、直樹は今でも覚えている。
そして高校二年生が終わろうとしていた頃、直樹は思い切って美穂に気持ちを伝えた。
放課後の帰り道だった。
いつものように駅へ向かって歩いていたが、その日はどうしても言っておきたいことがあった。何度も頭の中で言葉を考えたのに、いざ口にしようとすると、うまくまとまらなかった。
結局、直樹は立ち止まり、飾り気のない言葉で告げた。
「俺、田中さんのことが好きなんだ」
美穂は驚いたように目を丸くした。
ほんの数秒の沈黙が、直樹にはひどく長く感じられた。
やがて彼女は頬を赤くし、小さく笑った。
「……うん。私も」
直樹は、そのときの嬉しさを今でもうまく言葉にできない。
ただ、帰り道の景色がいつもより明るく見えたことだけは、よく覚えていた。
それから二人は恋人同士になった。
高校を卒業し、直樹は大学へ、美穂は専門学校へ進んだ。毎日顔を合わせていた頃とは違い、会える日は少なくなったが、互いの予定を合わせて出かけたり、電話で長い時間話したりした。
大学を卒業して社会人になると、今度は仕事が二人の時間を奪うようになった。
会う約束をしていた日に急な仕事が入ったこともあったし、疲れているときには些細なことで喧嘩になったこともあった。
それでも、二人は離れなかった。
楽しいことばかりではなかったが、困ったときや迷ったときに、真っ先に話したいと思う相手はいつも同じだった。
直樹が二十七歳になった年、二人は結婚した。
あの夏の雨から、ちょうど十年が経っていた。
結婚式の日は、雲一つない晴天だった。
ウェディングドレス姿の美穂が「雨じゃなくてよかったね」と笑ったとき、直樹も笑ってうなずいた。
けれど心のどこかでは、少しくらい雨が降ってもよかったのに、と思っていた。
あの日の雨がなければ、二人はこんなふうに並んで立っていただろうか。
もちろん、同じ学校に通っていたのだから、別のきっかけで話すこともあったかもしれない。
それでも直樹にとって、あの突然の夕立は特別なものだった。
一本の傘の下で、初めて彼女とゆっくり話した日。
その日から始まった時間が、十年かけて結婚式へとつながったのだ。
*
雨が、少しずつ弱くなっていた。
直樹は軒先に立ったまま、懐かしい記憶からゆっくりと戻ってきた。
あれから二十一年。
三十八歳になった直樹は、美穂と結婚して十一年目を迎えていた。
今では、彼女と一緒に暮らしていることが当たり前になっていた。
朝になれば同じ食卓で朝食をとり、それぞれの仕事へ出かける。帰宅すればその日の出来事を話し、休日には買い物へ行ったり、家でのんびり過ごしたりする。
時にはくだらないことで言い合いにもなる。
直樹が靴下をどこへしまったか忘れて美穂に尋ねると、「昨日、自分でしまったでしょう」と呆れられる。美穂が買い物の途中で何を買うつもりだったか忘れると、今度は直樹が笑う。
そんな毎日を繰り返すうちに、高校時代の初々しい気持ちは、いつの間にか遠い記憶になっていた。
けれど、それは気持ちが薄れたからではないのだろう。
あの頃は、彼女の隣を歩くだけで緊張した。
今は隣にいることが自然で、何も話さずに過ごしていても落ち着く。
長い時間を一緒に過ごすというのは、そういうことなのかもしれない。
直樹は、雨に濡れた道路を見つめながら小さく笑った。
高校生だった自分に、二十一年後にはあの傘の女の子と同じ家で暮らしていると教えたら、どんな顔をするだろう。
きっと信じないだろう。
いや、信じたとしても、嬉しさのあまり舞い上がってしまうかもしれない。
そんなことを考えているうちに、雨はほとんどやんでいた。
雲の切れ間から薄い日差しが差し込み、濡れたアスファルトが鈍く光っている。雨粒を受けていた街路樹の葉からは、時折大きな雫が落ちていた。
直樹はようやく、自分が雨宿りしていた店を振り返った。
そこは、小さなケーキ屋だった。
ガラスの扉の向こうには、色とりどりのケーキが並んでいる。ショートケーキやモンブラン、チョコレートケーキ。その中に、美穂の好きな苺のタルトが見えた。
直樹は少し迷ってから、店の扉を開けた。
甘い菓子の香りと、涼しい空気が迎えてくれた。
ショーケースの前に立ち、苺のタルトを一つ選んだ。自分の分にはチーズケーキを買うことにした。
何かの記念日というわけではない。
誕生日でも、結婚記念日でもなかった。
ただ、あの雨の日を思い出したら、何となく美穂に何か買って帰りたくなったのだ。
店員がケーキを箱に詰めてくれるのを待ちながら、直樹は窓の外を眺めた。
雨上がりの道路からは、まだ微かにあの匂いが漂っていた。
*
家に帰ると、美穂は居間で洗濯物を畳んでいた。
窓の外はまだ曇っていたが、部屋の中には柔らかな午後の明るさが残っていた。テーブルの上には読みかけの雑誌が置かれ、テレビでは夕方の情報番組が流れている。
「ただいま」
直樹が声をかけると、美穂は顔を上げた。
「おかえり。雨、大丈夫だった?」
「途中で降られたよ。しばらく雨宿りしてた」
「やっぱり。こっちもすごかったもの。洗濯物、慌てて取り込んだんだから」
そう言いながら、美穂は直樹の手にある紙袋に気づいた。
「それ、何?」
「ケーキ」
「えっ、どうしたの?」
思いがけない答えだったらしく、美穂は目を丸くした。
直樹が「たまにはいいかなと思って」と答えると、彼女は不思議そうに首を傾げながらも、嬉しそうに笑った。
箱を開けて苺のタルトを見つけたときの表情は、昔から変わらなかった。
直樹はその顔を見て、買ってきてよかったと思った。
美穂が皿を二枚持ってきて、二人は向かい合って座った。
直樹はチーズケーキを一口食べ、窓の外を眺めた。雨は上がっていたが、空にはまだ厚い雲が残っている。
あの高校時代の夕立も、こんなふうに突然降って、いつの間にかやんだのだった。
懐かしい記憶を一人で抱えているのが、何となくもったいない気がした。
「なあ、美穂」
直樹が声をかけると、美穂はフォークを持ったまま顔を上げた。
「高校のときさ、俺に傘を貸してくれたこと、覚えてる?」
美穂は少し考えるように首を傾げた。
直樹は、二年生の夏に突然雨が降り出したこと、傘を持っていなかった自分を美穂が駅まで入れてくれたことを話した。
すると彼女の顔に、懐かしそうな笑みが広がった。
「ああ、覚えてるよ。懐かしいねえ」
直樹は、今日の雨宿りのことを話した。
雨が降り始めたとき、アスファルトから昔と同じ匂いがして、それで急に思い出したのだと。
美穂は「あの夏の夕立の匂いね」とうなずいた。
直樹は少し照れくさくなりながら、あの日はずいぶん緊張したのだと打ち明けた。隣のクラスの女子と二人で傘に入ることになり、何を話していいのかわからなかったのだ。
美穂は声を上げて笑った。
「確かに、最初は全然しゃべらなかったもんね」
「そうだろ。あれでも必死だったんだよ」
「でも、途中から音楽の話で盛り上がったよね」
彼女もよく覚えていた。
好きな曲の話をしたことも、駅に着く頃には雨が弱くなっていたことも。
直樹は、自分だけが覚えていたわけではないと知って、少し嬉しくなった。
美穂はフォークを皿に置き、懐かしそうに目を細めた。
「私も覚えてるよ。あなた、私が濡れないようにって、自分の肩をびしょびしょにしてたじゃない」
直樹は思わず顔を上げた。
「え? そうだったっけ?」
「そうよ。もっとこっちに寄ればって言ったのに、全然寄らないんだもの。駅に着いたとき、右肩だけすごく濡れてたよ」
直樹は記憶をたどった。
確かに、あの日の右肩はずいぶん濡れていた。
ただ、それが美穂を濡らさないためだったのか、単に彼女へ近づくのが恥ずかしかっただけなのか、今となっては自分でもよくわからなかった。
むしろ、あの頃の自分は緊張することに精一杯で、そんな気遣いをしている余裕などなかったように思う。
「そんなこと、よく覚えてるなあ」
直樹が感心すると、美穂は小さく笑った。
「だって、嬉しかったんだもの」
その言葉に、直樹は少し驚いた。
美穂は何でもないことのように続けた。
「自分が濡れても、私を濡らさないようにしてくれてるんだなって思って。あのとき、ちょっと嬉しかったのよ」
直樹は返す言葉を探した。
自分にとってあの日は、好きになる前の女の子と初めてゆっくり話した、忘れられない一日だった。
けれど美穂にとっても、同じように何かが残る一日だったのだ。
しかも彼女が覚えていたのは、どんな話をしたかということだけではなかった。
自分でも忘れていた、ほんの小さな仕草だった。
直樹は急に照れくさくなり、目をそらしてチーズケーキを口に運んだ。
「……そんな大したことじゃないよ」
美穂は楽しそうに笑った。
「そうかもしれないけど、私は嬉しかったんだから、いいじゃない」
直樹も、つられて笑った。
長い年月を一緒に過ごしてきたのに、まだ知らないことがある。
それが何だか、不思議で嬉しかった。
窓の外では、またぽつぽつと雨が降り始めていた。
美穂は雨音に気づき、窓の方へ顔を向けた。
「また降ってきたね」
「ああ」
「洗濯物、取り込んでおいてよかった」
「そうだな」
そんな何でもない会話を交わしながら、二人は残りのケーキを食べた。
直樹はふと、高校時代の自分を思い出した。
一本の水色の傘の下で、彼女の肩に触れないように気をつけながら歩いていた少年。
隣にいるだけで胸が高鳴り、何を話せばいいのかわからず、駅までの道が終わらなければいいと思っていた。
あれから二十一年が経った。
今では彼女と同じ家で暮らし、同じ食卓で食事をし、同じ雨音を聞いている。
あの頃のような緊張はもうない。
その代わり、何も話さずに過ごしていても落ち着く、穏やかな時間があった。
直樹は、向かいに座る美穂を見た。
彼女は苺のタルトを食べ終え、満足そうに紅茶を飲んでいた。
その姿を眺めているうちに、直樹はふと思いついた。
「なあ、今度さ」
「ん?」
「雨の日に、一緒に散歩でもするか」
美穂は不思議そうに眉を上げた。
「雨の日に? どうしてわざわざ?」
「いや、何となく。たまにはいいかなと思って」
美穂は少し考えたあと、くすりと笑った。
「変なの。でも、いいよ」
そう言って、窓の外の雨を眺めた。
「今度は、大きい傘を買わなくちゃね」
直樹はうなずいた。
「そうだな。今度は二人とも濡れないように」
美穂は楽しそうに笑った。
直樹も笑った。
窓の外では、夏の雨が静かに降り続いていた。
遠くの道路には、雨粒がいくつも小さな輪を作っている。
あの日は、一本の傘に入れてもらった。
今は、二人で同じ屋根の下にいる。
直樹は紅茶を一口飲み、窓の外を眺めた。
雨に濡れたアスファルトから、二十一年前と同じ匂いが立ち上っているような気がした。
その匂いは、もう遠い昔のものではなかった。
今も目の前にいる、大切な人との思い出の匂いだった。
(第十五話 完)




