第九十話
翌日。朝から王都は忙しかった。だが、それは混乱ではない。
動き始めた、王国の忙しさだった。
「身分証を見せろ」
「……次!」
街道の検問所では騎士たちが往来する人々を確認している。
城壁の上では見張りが増え、街中にも巡回隊の姿が目立った。
「黒い斑点や異常な動物などを発見した場合は、直ちに最寄りの報告場へ」
「異常を感じた場合は無理をせず申告してください」
声も聞こえ、張り紙も至る所に貼られている。
――もう、王国は本気だった。
「次の報告です!」
職員が書類を運んでくる。
「南部で目撃情報」
「違う。ただの黒い外套の旅人だ」
別の書類が置かれる。
「北街道で黒い斑点患者」
「……これはただの皮膚病だな」
「こっちも、違います……!」
机の上には書類の山ができていた。王国中が警戒し始めた結果、小さな異変まで全て報告されるようになっていた。
「ふぅ……」
ミリスは書類から顔を上げる。
「多いですね……」
「多すぎるの」
シズクも肩を落とした。
「黒い犬を見たじゃの、黒い猫を見たじゃの……」
その言葉に、リンネは淡々と答える。
「……忙しくても、何も報告されずに気づかれないよりはいい」
「……そうですね」
それは、本心だった。異変報告場の皆も、そう思って動いていた。
さらに二日後。研究機関からあの死体についての報告が届いた。
「死体の調査結果です」
会議室で研究者が資料を広げる。
「体内から大量の菌が確認され、分かってはいましたが生命活動も停止していました……ですが――」
研究者は続けた。
「現在、確認できる菌は全て活動を停止しています」
「停止?」
「はい。既に死滅した状態です」
会議室がざわめいた。
「感染の危険は?」
「現時点では確認されていません」
騎士団長が腕を組む。
「つまり死体は安全なのか」
「断定はできませんが、その可能性は高いです」
ほんの少しだけ、部屋の空気が軽くなった。だが――
「しかし、死滅して原型を留めていないため、死体からの菌の研究は困難。不可能に近いです。」
「……そうか。なら、リンネが送った菌のサンプルの研究結果はまだか?」
「す、すみません。もう少し時間が――」
「わかった」
騎士団長は言葉を遮って言い、慌ただしく部屋を出ていった。
会議後。
廊下を歩きながら、シズクが言う。
「……少しは安心してよいのではないか?」
「何がだ?」
「ヘヴィクムの、感染じゃ」
シズクは肩をすくめる。
「死体も調べた。警戒もしておる。今のところ新しい感染者も出ておらん」
「……」
「危険ではあるが、一旦休んでもいいのではないか?」
リンネは答えず、窓の外を見る。
夕日に照らされた王都では、人々が歩き、店が開き、子供たちが走っている。
平和だった。あまりにも。
「リンネさん?」
ミリスが心配そうに見る。
「……静かすぎる」
「え?」
「何も、起きていない」
シズクが眉をひそめる。
「……それは良いことではないか?」
「違う」
即答だった。
「ヘヴィクムはこんな動きをしない」
前の世界を思い出す。
あいつはいつも二手三手先を見ていた。
だからこそ、あの死体だけが浮いている。
意味が見えない。
それが気持ち悪かった。




