第八十八話
北西街道近郊は、朝から騒然としていた。
騎士団によって規制線が張られているにもかかわらず、その周囲には、大勢の住民が集まっている。
「本当に見つかったのか?」
「世界が滅ぶんじゃねえのか?」
「昨日の化け物だろ?」
騎士団が止めても、ざわめきは途切れていなかった
。だが――
「道を開けろ! 関係者が通る!」
職員の“ヘヴィクムの死体の関係者”と言う言葉を聞き、ほんの少し人混みが割る。その細い隙間から、リンネたちは中へ入っていく。
規制線の内側には兵士たちが並び、その中央に黒い何かが横たわっていた。
「……っ」
横たわっていた“それ”を見て、ミリスが息を呑む。
それは、人型ではある。
だが、全体が黒く、輪郭も人とは思えないほど歪んでいた。
「確かに普通ではないの」
それを見てシズクも眉を細めていた。近くには昨日の会議にいた騎士団長や職員たちの姿もあった。
リンネは何も言わず死体へ近付いた。
一歩。
また一歩。
一歩進むごとに、周囲が静まり返る。
そして足を止め、数秒後――
「……違う」
リンネがため息のように言うと、周囲でざわめきが起こる。
「何?」
「違うって……」
リンネは死体を見下ろしたまま続ける。
「……これは、ヘヴィクムじゃない」
「理由は?」
「感じる空気も、見た目の圧も、何もかもが違う」
リンネは即答しても、周囲の者たちはまだ困惑している。
だがリンネは構わず続けた。
「こいつは、ただの感染者だ」
「感染者? ……人間が、感染だけでここまで変化したというのか?」
リンネは死体の腕を見る。
皮膚は裂け、筋肉も異様に膨張していた。
「……無理やり菌を流し込まれてる」
その言葉に空気が重くなる。
「そんなことが可能なのか?」
「ヘヴィクム……ならな」
昨日の会議で聞いた話が頭をよぎる。
世界を滅ぼした存在。感染を操る怪物。
この死体はただの死体ではない。
誰かを使い捨てにした、その結果。
「……身元は?」
リンネが尋ねると、職員は少し黙ってから言う。
「まだ確認中で、失踪者との照合を進めている最中だ」
それを聞いて、もう一度死体を見てから、リンネは小さく舌打ちした。
ヘヴィクムがこんなものを残す理由。
それが、分からない。
――だからこそ、気持ち悪い。
「……行くぞ」
リンネは急に死体に背を向ける。
「え……?」
リンネの行動に、ミリスが驚いたように声を出す。
「もう、いいんですか?」
「……ヘヴィクム本体じゃない。だから、ここにいても分かることは、もうない」
その言葉を聞き、シズクも静かに頷く。
「確かにの」
そして、三人はその場を後にした。
一瞬だけ振り返ると、背後では騎士団や研究者たちが慌ただしく動き続けている。
夕方。規制線の周辺には、さっきより減ってはいるが、それでも多くの住民が残っていた。
「結局、本物だったのか?」
「違ったらしいぞ」
「じゃああれは何なんだ?」
噂だけが広がっていく。街道脇には、まだ黒い死体が横たわっていた。
そよ風が、静かに吹く。
――その風で、死体の裂けた皮膚の隙間から、黒い粒子のようなものがふわりと浮かび上がる。
目を凝らしても見えないほどに、小さい粒子。それは風に乗った。
黒い粒子は静かに空へ溶け込み。人々の呼吸と共に消えていった。
誰一人として。それを見た者も、気づいた者もいなかった。




