第八十五話
リンネは屋根の上を見つめたまま立ち尽くしていた。
「り、リンネさん?」
少しして、ミリスが不安そうに声をかける。
「……何か、見えたんですか?」
リンネは数秒だけ迷ったが答える。
「いや。何もない」
そう答えながらも視線は外さなかった。
見間違いかもしれない。だが、あの黒い霧には覚えがあった。
前の世界でも何度も見た、あの霧に、あまりにも似ていた。
「……拘束したなら、この男を厳重に隔離しろ」
リンネは男を抑えている衛兵に近づいて言う。
「後、家族も拘束しろ」
その言葉で、周囲がまたざわついた。
「なっ!?」
「そいつはともかく、家族は……」
だが、リンネは構わず続ける。
「感染経路が分からないなら、その接触者も危険だ。今、平気でも中にいるかもしれない」
「わ、分かりました……!」
衛兵たちはリンネの言葉に一瞬迷うような仕草を見せるが、納得したおように慌ただしく動き始める。
その様子を見ながら、リンネは小さく息を吐いた。
その日の夜。
普段は滅多に使われないらしい大会議室には、異様な空気が漂っていた。
長机が並び、その周囲を王国の重鎮たちが囲んでいる。
騎士団長。魔法研究機関の責任者。ギルド本部の幹部。王都防衛隊の指揮官。異変報告場の上層部。机の上に置いてある名札のようなものを見るだけで、どれだけ偉いかは想像できた。
「始めます」
年長の職員が立ち上がると、一気に部屋は静まり返った。
「本日招集した理由は、一連の黒い斑点事件についてです」
机の上へ、一枚の書類が置かれる。
「まずはこちらをご覧ください」
それは数日前に、リンネが最初に提出したあの報告書だった。
会議室の何人かが眉をひそめる。
「これが?」
「ただの前あった噂のような証言ではないのか」
そんな声も聞こえたが職員は続ける。
「当初、我々もそう判断していました」
そこで一度言葉を切る。
「ですが現在、その認識は誤りだったと考えています」
「……説明しろ」
騎士団長が言った。
職員は頷き、そして――
村の消失。
発見された死体。
地下で見つかった感染者。
王都で発生した黒い斑点事件。
各地から届く目撃報告。
全てを順番に説明していった。話が進むほど、会議室は静かになっていく。
最初は疑っていたような者たちも、途中からは一言も口を挟まなくなる。
やがて説明が終わると、長い沈黙が落ちる。
「……つまり」
最初に口を開いたのは魔法研究機関の責任者だった。
「このヘヴィクムという存在が原因と?」
「現時点では、その可能性が最も高いと判断しています」
「……そして、その情報源が彼か」
全員の視線がリンネへ向く。
リンネは静かに立っていた。
「あなたは、この存在を知っているのか?」
その問いに、リンネは迷わず答えた。
「ああ」
「どの程度を?」
リンネは一瞬だけ目を閉じ、そして。
「俺の世界を滅ぼした原因の一つだ」
誰も動かない。
誰も喋らない。
ただリンネだけが続ける。
「最初は病気みたいなものだった。感染者が出た時までは、対処できると思った」
リンネの声は淡々としていた。だが、その言葉には妙な重みがあった。
「気付いた時には遅かった」
リンネは会議室を見渡して言う。
「今なら、まだ止められる」
静寂。そして、騎士団長がゆっくりと立ち上がった。
「……分かった」
その一言で空気が変わる。
「王都全域へ通達を出す。黒い斑点を最優先警戒対象に指定。各地の騎士団を動員。感染者は即時保護・隔離」
次々と指示が飛び始める。
王国が、ついに本格的に動き出した。
ミリスはその光景を見ながら思う。村で消えた人たちは救えなかった。
けれど、まだ助けられる人はいる。
その時だった。
「リンネ」
騎士団長が呼ぶと、全員の視線が再び集まる。
「お前にも協力してもらう」
リンネは短く答えた。
「最初からそのつもりだ」
会議はさらに続いていく。その誰もが理解していた。
これは調査ではない。
そして異変でもない。
ヘヴィクムとの戦いは、もう始まっている。




