第七十六話
そこは、王都からかなり離れた場所にある、名前を知る者も少ない、小さな農村だった。
夜になれば灯りは消え、人々は眠る。それが当たり前の場所だった。今日も、同じだった。畑仕事を終え、食事をし、家族と少し話し、寝るという、何も変わらない一日。
だからこそ家の中で寝ていた男は、最初に犬が吠えた時も気にしなかった。
「うるさいな……」
音が聞こえないように、耳に枕をつけるように寝返りを打つ。
だが、そうしても聞こえてくるほど吠え声は大きく、止まらない。普通に叫んでいる声とは違うようにも聞こえた。まるで何かに怯えるような――
「……?」
男は今眠ることを諦め、ゆっくり目を開けた。窓の外は真っ暗で、月も雲に隠れている。そしてまだ、犬の吠える声だけは続いていた。
それは、異様なほどに。
「何だってんだよ……」
体を起こした、その時。
――遠くで、甲高い声が聞こえた。明らかに犬の声ではない、人間の叫び声が。
「……ぁっ!?」
男は反射的に立ち上がる。
今のは聞き間違いではない。しかも、叫び声は一瞬だけではなかった。小さな村全体に響き渡るであろう叫び声。
少しすると、走っているような足音も聞こえてきたが、足音はすぐに、悲鳴とともに鳴り止んだ。
「おい……?」
村全体が、息を潜めたように静寂に包まれた。
そして。
……ドン! ……ドン!
何回か、何かが倒れる音がした。
いつの間にか、犬の吠え声もなくなっていた。
男の額に、ポツポツと冷や汗が浮かぶ。だが、震えた手で壁に掛けてあったランタンを掴む。
「……すぐ戻れば、大丈夫だ」
そう言って男は扉へ向かって歩き、音を絶対に立てないように鍵を外してからゆっくりと扉を開く。
すると、扉の向こうから冷たい夜風が流れ込んできた。
村の道には誰もいなく、とても暗かった。
だが――
「……なんだ、あれ」
少し歩いた後、男は足を止めて、目を細めた。
男の歩いていた村の道の少し先、夜の闇の中に、1ヶ所に集まっている黒い霧のようなものが見えた。
「おい……! 何者だ……!?」
男が声を上げ、一歩下がった瞬間。足に何かが触れた。その瞬間。男の全身に鳥肌が立つ。
「な、ぁ……!?」
そこに倒れていたのは、昨日まで笑いながら話していた農業仲間だった。
地面に倒れており、強く呼びかけても、返事はない。ランタンの光に照らされた顔や足、腕などには、見たこともない黒い斑点が浮かんでいた。
「お、おい……」
男は近付こうとして――そこで、気付いた。
周囲にも人が倒れている。
一人ではない。
道の先にも、家の前にも、畑の入り口にも。暗闇の中に、人影がいくつも転がっていた。
「な、なんだよ……こんなのありえねえだろ」
これは、気味が悪い夢だ。と、思い込もうとして、家に走って戻ろうとした時。
背後から。カタン、と小さな音がした。男は振り返るが、そこには何もない。
「……な、なんなんだよ!?」
そう言って、もう一度前を見た瞬間。
――さっきまでいた黒い霧のようなものは消えて、代わりに少ししてから、自分の視界が黒く染まった




