第六十八話
宿へ戻る頃には、空は夕暮れ色へ変わり始めていた。
食堂に行くと、やはりみんなの視線は三人に向く。だが、その視線は、朝に降りてきた時の視線とは、違っていた。
そんな視線を感じながらリンネたちは階段をゆっくりと上がった。
「……えっと、ここからは自分たちの部屋に戻って、片付けでしたよね?」
「いや、その前に妾の部屋に来てくれんかの。いいものを見せてやる」
「いいものって……怪しい研究じゃねえだろうな」
リンネが眉をひそめると、シズクは腕をまくりながら首を横に振る。
「残念ながら、研究結果ではない」
「残念じゃねえよ」
少し歩くと、シズクの部屋の前に着いた。そして、シズクが扉を開ける。
中に入ると、大量の紙が床と机に上に散らばり、さらに机の上には、ガラスに入った大量の液体があった。
「よし、片付けるかの」
リンネは部屋の中を見渡した。普通の宿の一室だったとは思えない。
「……これ、やっぱ無理じゃねえか?」
「失礼な」
「まず、こんな量どっから出したんだよ」
「ふん。妾を誰だと思っておる」
シズクは得意げに言いながら、机の上の本へ手を伸ばした。
ふっと本が淡い光に包まれ、次の瞬間。机の上にあったはずの本は、跡形もなく消えた。
「……は?」
リンネが固まる。だが、シズクは何事もなかったように次の紙束へ触れた。
紙束も、薬瓶も、金属片も。
次々と、まるで最初から存在しなかったみたいに。
「……」
リンネは数秒黙った。
「……何してるんだ?」
「収納じゃが」
「収納?」
「収納魔法じゃ」
シズクは当然のように答える。
「便利じゃぞ」
ぽん、とまた薬瓶が一つ消える。
「使えたのかよ」
「使えるが?」
「じゃあ最初から言えよ」
「聞かれんかったからの」
リンネは無言になり、ミリスも目をぱちぱちさせている。
「しゅ、収納魔法って本当にあるんですね……」
「昔、妾もあるとは思わなかった。だから、作ったんじゃよ」
「え……! 魔法を作る!?」
ミリスは目を見開くのを見てシズクはさらに得意げになる。
「そうじゃ……まあ、昔はそっちも研究したんじゃが、難しすぎての。結局開発できたのは1年かけてこの魔法だけじゃ」
「で、でもやっぱりすごいですよ!」
その時、リンネも口を開く。
「その魔法の容量はどれくらいなんだ?」
「制限自体はないんじゃが、荷物を肩で背負うのと同じで、疲れるんじゃ。それにずっと使ったままじゃと、最悪一気に溢れてくる」
シズクはそう言いながら、最後の本を収納する。
その本がなくなると、部屋は埃一つ残さず、綺麗になっていた。昨日まで研究室だったとは思えないほどだ。
「終わったぞ」
シズクが満足そうに頷く。
リンネは部屋を見回した。
「……綺麗になったな」
「だから言ったじゃろ」
「……これ、埃も一緒に収納してないか?」
「おっと、そうかも知れぬ。まあ部屋も片付いていいではないか」
シズクは、椅子へ腰掛けようとしながら言う。
「お前はそれでいいのかよ……」
リンネの言葉には答えず、二人を見て言う。
「善は急げじゃ。準備が終わるなら明日の朝でも構わん」
部屋が静かになった。ミリスが小さく背筋を伸ばす。
「王都……き、緊張してきました」
リンネは窓の方を見る。夕焼けが街を赤く染めていた。
――最初ヘヴィクムもこの世界に来てると知った時、ただヘヴィクムを殺すことしか考えていなかった。すぐに追いつき、殺したら被害は少なくなる、と。
でも今は――
もっと遠くへ。
もっと多くの人へ。
そう、思っていた。
「……」
窓の外では、まだ人影が動いていた。
避難経路の確認か、ただの帰り道かは、もうわからない。
リンネは静かに窓から目を離す。
王都への出発まで、あと少しだった。
次の日のまだ早い時間。空気は少し冷たく、街は目を覚ましていなかった。
そんな中で、三人は宿の前に立っていた。シズクは、相変わらず手ぶらだ。
「……本当に全部入ってるのか」
リンネが一応聞く。
「入っておる」
少し間が空いてから、言う。
「やっぱ、便利だな」
「じゃろう?」
シズクが少しだけ得意そうに胸を張った。
三人はそのまま歩き出す。朝の通りには人影が少なかった。
昨日のざわめきが嘘のように、街は静寂の中に包まれていた。広場の横を通った時、リンネは少しだけ視線を向けた。
掲示板には紙が何枚も貼られている。
避難場所や集合地点、鐘を鳴らす順番。
雑な書き込みが地図に何箇所かあり、誰が見てもまだ途中とわかる。
それでも、0よりはずっと、進んでいる。
リンネは立ち止まらない。そのまま歩き続ける。
やがて街門が見えてきた。門番たちは三人を見ると、一瞬だけ表情を変えた。
けれど何も、言わない。
三人も何も言わなかった。
そのまま門をくぐり、街の外へ出る。
振り返れば、城壁が見える。リンネたちからしたら、最初はただの場所だった街。でも今は――
ヘヴィクムを知った街。
備え始めた街。
「……」
リンネは数秒だけを見つめ、それから前を向いた。
街道は遠くまで続いている。
王都はまだ遥か先だろう。そして、この先にもきっと同じような街がある。
知らない人たちがいる。
まだ何も知らない人たちが。
「行くぞ」
ミリスが頷き、シズクも肩をすくめた。
三人は歩き出し
――王都へ向かう長い旅が、始まった。




