第六十七話
それからしばらくして、広場の空気は少しずつ変わり始めた。
「なら、避難場所ごとに人を分けた方がいいか……?」
「子供と老人は先に動かさねぇとまずいな」
「倉庫の鍵、誰が持ってた?」
話し合う者や、
「……本当に来る前提で話してんのかよ」
「俺はまだ信じきれねぇ」
「でも昨日のは見ただろ……」
距離を置いたまま、不安そうに様子を見て、信じきれない者も、いる。
広場は、綺麗にはまとまらなかった。でも、変わっていく。リンネたちは広場を離れ、街の通りをゆっくりと、歩いていく。
「西門側、馬車が詰まったら終わりだな」
「裏路地使って走った方が早いかもしれねぇ」
通りの端で、冒険者たちが地図を広げていた。
さらに、別の場所では――
「黒い塊が出てきたらどうする?」
「家の地下収納に閉じ込めるのはどうだ?」
「確認してこいよ」
昨日まで普通に商売していた店主たちも、真面目な顔で話している。
「ここ塞げば、少しは足止めできるか?」
「それかここの鍵を閉めたら……?」
リンネは、その様子を見ながら足を止めた。
「……」
「リンネさん?」
ミリスが、不思議そうに振り返ると、リンネはしばらく黙ったあと、小さく呟いた。
「……俺、いらねぇな」
「えっ!? なっ! そんなこと――」
「そういう意味じゃない」
リンネは視線を前へ戻した。
「俺が全部しなくても、もう勝手に動いてる」
その光景を見ながら、小さく息を吐く。
「……でも、一つの街でこれだけ時間がかかるのか……ヘヴィクムは他にも広がる。俺一人で回ってても間に合わない」
シズクが、静かに目を細める。
「……ほう」
「倒すのは、たぶん俺しかできない」
リンネは、自分の手を見る。
「でも、避難とか、対処とか、そういうのは違う」
少し前を歩いていた子供たちが、会話しているのが見えた。
「黒いの見たら近づいちゃダメなんだって」
「わかってるよ!」
リンネは、その背中を見つめたまま続ける。
「俺が関わらなくても、住民だけでできる」
リンネはゆっくり顔を上げる。
「だから、俺がやるべきことは助けることじゃない。もっと、影響力のある場所に行って、情報を広める」
風が吹き抜け、シズクが、口元を歪めた。
「つまり、ようやく世界単位で動く気になったか」
「……そんな大層な話じゃない。あいつは、俺の世界の化け物なんだ。できれば、俺だけで終わらせたかった。でも、被害を減らすにはこうするしかない」
その目は、昨日より少しだけ遠くを見ていた。リンネはそのまま、ゆっくりと歩き続ける。
「……」
しばらくして、小さく息を吐いた。
「本当に、動いてるんだな」
その言葉を聞き、ミリスが少しだけ得意そうに言う。
「リンネさんがいたからですよ」
「そんなことない。あいつらは、自分だけで動けてる」
「そうですか?」
ミリスは首を傾げる。
「昨日のリンネさんの話を聞いてなかったら、みんな何もしてなかったと思います。ただの、強い魔物で終わってたと思います」
リンネは返さない。ただ、少しだけ視線を逸らした。
シズクがその様子を見て、くすりと笑う。
「褒められるのに慣れておらんのぅ」
「うるさい」
「図星じゃな」
「……そんなことない」
そんなやり取りに、ミリスが思わず吹き出し、ほんの少しだけ、空気が軽くなる。
街を一周し終えた頃には、太陽はだいぶ傾いていた。
リンネは立ち止まり、空を見る。
「……おい」
「何じゃ?」
「遅くても明日の夜には出るぞ」
ミリスが目を丸くした。
「えっ、もう……ですか?」
「一つの街に時間を使いすぎるわけにもいかない。今日だけでもわかっただろ。こいつらは、考えられる」
広場の方を見る。まだ何人かが地図を広げて話し合っていた。
「俺が残ってできることより、別の場所でできる方が、大きい」
シズクは腕を組みながら頷く。
「妾も異論はない。情報も集めるなら、王都か」
「……そうだな」
「王都ですか……」
ミリスが少し緊張したように呟く。
「ぼく、行ったことないです……」
「観光じゃないぞ」
「わ、わかってます!」
「顔が全然わかっておらんようじゃが」
「そんなことないです!」
ミリスが慌てて否定する。シズクが横からぼそりと言った。
「まあよい」
シズクはそう言って歩き出す。
「なら宿へ戻るぞ」
「研究ですか?」
「もう今日は片付けじゃ。今日まで研究したら道具が余計に散らかる」
その一言で、リンネの足が止まった。
「……1日だけで片付くのか?」
「失礼な」
「宿の一室を研究所に変えたやつが言う台詞じゃないだろ」
「妾を何だと思っておる」
そんなやり取りをしながら、三人は宿への道を歩いていく。
街の中では、不安も、疑いも、きっとまだ消えないだろう。
リンネは一度だけ振り返る。そして、小さく息を吐いた。
「……あとは頼む」
誰にも聞こえないくらいの声だった。
そのまま前を向き、歩き出す。次に向かう場所は、もっと遠い。
もっと多くの人がいる場所。王都へ向けて、三人は少しずつ準備を始めようとしていた。




