第六十六話
――気づけば、朝だった。
太陽の光が、窓から部屋に入り、床を白く照らしている。
「……」
リンネはしばらく天井を見ていた。昨日のことが、頭の奥に重く残っている。
『お前が来なかったら――』
頭の中で、その言葉が無意識に繰り返される。ゆっくり息を吐き、身体を起こすと、すこし重さを感じた気がした。
「……寝てたのか」
記憶が途中で曖昧だった。
シズクの部屋。
机に突っ伏すシズク。
困った顔のミリス。
そこから先は、覚えていない。
立ち上がり、部屋を出ると、廊下に一人の人影があった。
「あ……リンネさん」
そこにいたのはミリスだった。まだ少し眠そうに目を擦っていた。
「おはようございます……」
「おはよう」
その時、さらに奥の扉が開く。
「む……朝か……」
シズクが不機嫌そうな顔で出てきた。
珍しく髪が少し乱れている。
「……夜がないとこんなに違和感があるのか」
「これが普通ですけど」
「何日も寝ないと、一日が長いのが普通になるんじゃよ……」
そんなことを言いながら、シズクは階段の方へ歩き出した。
三人はそのまま一階へ降りる。そして、食堂へ入った瞬間。客の視線が一斉にこちらへ向き、静かになる。
ミリスが小さく肩を縮める。
「……なんか、すごい見られてません?」
「見られておるな」
「……当然だ」
怖がられない方がおかしい。
「……」
リンネはしばらく黙ったまま食堂を見渡し、机に背を向ける。
「リンネさん?」
「話に行くぞ」
「え……なんでまた?」
二人が少し驚いた顔をする。リンネは数秒だけ黙ってから、言った。
「昨日、俺は全部説明した。でも、あれだけじゃダメだ。今も、助けないと」
ミリスが小さく目を見開く。
「だから、最低限は伝える」
「……ほう」
シズクが少しだけ目を細めた。リンネはそのまま、扉へ向かう。少し遅れて、ミリスが慌てて立ち上がった。
「ぼ、ぼくも行きます!」
「妾もじゃな」
外に出た瞬間。人々の視線が向く。リンネたちが歩くたび、ひそひそ声が止まる。
その全部を受けながら、リンネは街の中央広場まで歩いていく。
「……リンネさん」
ミリスが不安そうに呟く。広場には、昨日避難していた人たちもいた。
リンネを見るなり、空気が張る。広場の中央で立ち止まる。
数秒の沈黙の後、静かに口を開いた。
「ヘヴィクムについて、話す」
その一言で、広場が静まり返る。
「昨日みたいなものを見た時、まず近づくな」
ざわ、と人の波が揺れる。
「黒い霧。黒い泥。黒い斑点。濁った水。何でも。異変を見たら、一人で確認しようとするな。街に知らせろ」
リンネの声は大きくない。でも、不思議と広場によく通った。
「そして、自分が感染しても、隠すな」
リンネは真っ直ぐ前を見た。
「絶対にだ。そこから、全てが終わる」
広場は少し静かになった。だが――
「……それだけか?」
広場の端から、不満げな声が飛んだ。
「隠さず言えって、その後どうすんの!?」
「結局、助からねぇなら意味ないだろ!」
空気がざわつき、不安が、苛立ちへ変わり始めていた。
「……俺だって、完璧に治療できるわけじゃない」
その瞬間、空気が一気に荒れた。
「なんだよそれ!」
「感染したらどうにもできねぇのかよ!」
さらに別の男が吐き捨てる。
「昨日の話だって嘘かもしれねぇだろ!」
「だいたい別の世界って何なんだよ! 嘘臭えんだよ!」
「本当はお前が原因なんじゃねぇのか!?」
視線が鋭くなり、ミリスが思わず、前へ出た。
「ち、違います! リンネさんは――」
「ミリス」
ミリスが言おうとした瞬間。リンネは小さく、首を横へ振った。
「反論しなくていい」
「で、でも……!」
「これが普通だ」
リンネは怒ってはいなかった。諦めてもいない。
ただ、最初からわかっていたみたいに。
「俺だって、逆の立場なら信じない」
言葉を聞き、ざわめきが少し弱くなる。
「急に別世界とか菌とか言われても、意味わかんねぇよな」
誰も返せなかった。
「だから、俺のことは信じなくていい。別世界とか、どうでもいい」
ミリスが少し目を見開き、広場の人たちも戸惑った顔をする。
それでもリンネは、真っ直ぐ前を見て言う。
「でも……昨日、あれが現れたのは事実だろ。なら、その場で生き残る方法くらいは聞けよ」
リンネの声が、少しだけ強くなる。さっきまで怒鳴っていた者も、今は黙り、広場は再び静かになった。
「症状は、黒い斑点のようなものだけじゃない」
リンネは一度言葉を切る。
「昨日言ったが、精神にも出る」
何人かの表情が強張った。
「それも、いきなり心が壊れるわけじゃない。最初はほんの少しだ。そこから、侵食されていく。だから、もう一度言う。隠すな」
さっきまで怒鳴っていた男ですら、視線を逸らしている。
リンネは、その空気の中で続けた。
「一人で抱え込ませるな。変だと思ったら、一人で悩ませるな」
「……黒い斑点とか、考えがおかしくなるとか、普通の病気と変わんねぇじゃねぇか」
「違う」
誰かが小さく囁くと、それにリンネは即答した。
「放っておくと、最後には人じゃなくなる」
「……じゃあ、どうすればいいんだよ」
今度の声には、怒りより疲れが混じっていた。
「お前が倒すの待つしかねぇのか?」
「……今のところ、それしかない」
リンネはそこで一度息を吐いた。
「ヘヴィクムは、強い。たぶん、また来る……だから、これから数日、俺は街を歩く」
「えっ……?」
ミリスがリンネを見る。
「避難できる道、広い場所、封鎖できる場所。全部確認する」
「……避難経路なら、もう街のがあるぞ?」
「普通の火事とか、そう言う避難じゃない」
リンネは広場を見渡して言う。
「ヘヴィクム関連から逃げるなら、感染したやつを閉じ込める場所も、黒い霧が出た時に近づいちゃいけない場所も、近くの人がいきなり感染した場合だって決めなきゃいけない」
ミリスが、少しだけ息を呑む。リンネはもう、“自分だけで戦う”つもりじゃない。
風が吹き、広場の旗が小さく揺れる。長い沈黙の後。
「……封鎖なら、北門横の旧倉庫が使えるかもしれねぇな」
ぽつりと、誰かが言った。それに続き、別の方向からもポツポツと声が上がり始める。
「中央通りは人が多すぎる。逃がすなら西側の方が……」
「鐘でも鳴らせば街全体に伝わるか……?」
「いや、音魔法の方が……」
小さかった。本当に、小さかった。全員でもない。ただ数人の、小さな囁きのような声。
シズクが、ふっと口元を緩める。
「……ほう」
ミリスも、少しだけ安心した顔をした。一方リンネは、表情を変えないまま広場を見ていた。
ほんの少しだけ、肩の力だけは昨日より抜けていた。




