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第六十四話

 黒い跡は、まだ地面に残っていた。それでも街は少しずつ元の動きに戻ろうとしていた。

 冒険者は何度も後ろを振り返りながら剣をしまい、商人は泥のついた商品を無言で拾い集める。

 リンネたちも、その場を離れようとしていた時だった。


「あ、あんた!」


 声をかけられ、リンネが振り返る。


 避難誘導をしていた冒険者の男だった。盾には、まだ黒い傷跡が残っている。


「さっき言ってたよな。ヘヴィ……なんだっけ」

「……ヘヴィクム」

「それはいったい何なんだ?」


 周囲にいた人たちも、不安そうな顔でこちらを見る。


「また来るのか?」

「さっきの強いスライムがそれなのか……?」


 次々に飛んでくる声に、リンネは少しだけ黙る。


 視線の先には、さっきまで自分たちで、戦っていた人たちがいた。

 力のある冒険者だけじゃない。


 大声で誘導した人。

 転ぶ人に手を伸ばす人。

 応援した子供。


「……ヘヴィクムは、菌みたいなものだ」


 リンネが、静かに口を開くと、周囲の空気が少し張り詰める。


「侵食は、体だけじゃない。心まで、蝕まれる」

「菌なのに、精神……?」


 誰かが小さく呟く。

 リンネは、自分の腕を一瞬だけ見る。


「さっきのはただの菌の塊だ。本体じゃない」

「そんなもんが、なんでこの街に……」

「わからない」


 リンネは短く答える。


「ただ、俺は元いた場所で、ずっとあれと戦ってた」


 ざわめきが起きる。


「ずっと……?」

「じゃあ、さっきの鎧も……」


 リンネは少しだけ言葉に詰まった。

 前なら、それ以上は話さなかったと思う。


 自分だけが、知っていればいい。

 自分だけが、戦えばいい。

 けれど。


「……ヘヴィクムは、一人でどうにかできる相手じゃない」


 その言葉を口にした瞬間、喉の奥がわずかに引っかかった。言い慣れていない言葉だった。隣で、ミリスも小さく息を呑む。


「今日だって、俺だけじゃ止められなかった」


 今日の、すべてが脳裏をよぎる。


「……元いた場所ってなんだ? そんなバケモン。噂すら聞いたことねえぞ」


 盾の男が言った。


「……別の世界だ」


 その言葉のあと、誰もすぐには声を出さなかった。少ししてから、周囲から、小さく困惑の声が漏れる。


「べ、別の世界だと……?」

「……そうだ。そこで、俺とヘヴィクムが戦って、どっちも……死んだ」


 しばらくの間、沈黙が落ちる。そして、一人が口を開く。


「それじゃあ……つまり、別の世界から……お前が、あれを連れてきたのか? お前がいなけりゃ、お前がここに来なかったら……現れなかったんじゃないか!?」


 その言葉に、リンネは小さく目を伏せる。だが、別の冒険者が、声を上げた。


「でもよ! ここに来なかったとしても、出てた可能性はあるだろ! 逆に、今いたから止められたんじゃねぇのか!」

「……ちげぇよ」


 さっきリンネへ問いかけた男が、震えた拳を握ったまま俯いている。


「そんなの、わかんねぇだろ……」


 奥歯を噛み締めるみたいに言葉を吐く。


「そんなの、死んだ後に、この世界に来なかったらよかったんだろ……! そのまま、死んどけばよかったんだ……!」


 空気が、止まった。


「お、おい……言い過ぎだろ」

「……じゃあ、間違ってんのかよ」


 誰も、言い返せない。


「俺だって助かったのは感謝してる……! でも! そいつが来なかったら! この世界のままだったら、こんなのなかったんだろ!?」


 誰もすぐ否定できなかった。

 その声は、怒りじゃなく


 ヘヴィクムへの

 力への

 リンネへの

 ――恐怖だったから。

 さっきまで命の危険がすぐ目の前にあった。それがリンネの世界のものだと知って――


「リンネさん……」


 ミリスが、不安そうにリンネを見る。リンネは逃げるような視線も、怒った様子もなく、ただ聞く。

 静かに、一度目を伏せ、口を開く。


「……確かに、そうだ」

「リンネさん!?」


 ミリスが思わず声を上げる。


「あいつを殺して、俺も死んで、終われたなら……そっちを選んでた」


 風で、崩れた荷車の木片が、からりと転がった。


「でも、ヘヴィクムも、俺も……」


 リンネが顔を上げる。その目は、もう逸れていなかった。


「なら、今度は終わらせる」


 しばらく、誰も喋らず、重い沈黙が街に落ちる。


 けれど。


「……だったら」


 沈黙を破り、最初に盾でリンネを庇った男が、ゆっくり口を開く。


「今度は、ちゃんと勝て」


 リンネはその言葉を聞き、少しだけ目を見開く。男は頭を掻きながら、苦く笑った。


「正直、まだ怖ぇよ。お前さん見てると、あの黒いの思い出す。でも、さっき一緒に戦ったのも事実だ」


 男はそう言って、盾についた黒い傷跡を見る。


「だからよ……」


 そして、男は後ろを向き、全体に話す。


「攻めるのは、もういいじゃねえか」


 それは、完全な信頼じゃない。歓迎でもない。

 拒絶でも、なかった。


 リンネは少しだけ黙ってから、小さく息を吐く。


「……ああ」


 その返事を聞いて、ミリスが少しだけ肩の力を抜いた。シズクは腕を組んだまま、静かに目を細めている。


「さて」


 空気を切り替えるように、シズクが口を開いた。


「こんな空気のところ悪いが、妾としては謎が増えすぎて手が動きそうになる」

「……お前な」

「一度宿へ戻るぞ。研究じゃ」


 シズクはリンネとミリスを順番に指差す。


「おぬしら、逃がさんからの」


 ミリスがびくっと肩を震わせた。


「やっぱり、な、長いですか……?」

「そう言ったはずじゃ」

「うぅ、まあそうですよね……」


 そんなやり取りをしながら、三人はゆっくりと宿への道を歩き始めた。


 ミリスは、少し後ろを歩きながら、小さく息を吐く。


「……なんか、変な感じですね」

「何がじゃ」

「その……感謝だったのが、話した後からいきなり……怖くて」


 シズクは少しだけ目を細めた。


「どっちかというとこちらが怖がられておる」

「うっ」


 即答だった。


「で、でも……」


 ミリスはちらりとリンネを見る。


「完全に追い出そうって感じでも、ないですよね」


 リンネは黙って、前を向いたまま歩く。ミリスは何か言いかけて、やめた。

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