第六十一話
外から、鳥のさえずりと、街の動き出した音がして、リンネは目を開ける。
「……朝か」
身体を起こしてから、最初に確認したのは、腕だった。今は、黒い線が消えていた。だが、薄く昨日の跡が見えた気がした。
「……」
立ち上がり、宿の廊下へ出る。階段へ向かおうとしたところで、後ろから足音がした。
「あっ、リンネさん……」
ミリスだった。まだ眠そうな顔で、髪も少しだけ跳ねている。
「お、おはようございます……」
「おはよう」
ミリスはリンネを見ると、少し安心したように肩の力を抜いた。
「……よかった」
「何がだ?」
「その……なんか、無事でよかったなぁ、って」
リンネは少し目を逸らす。
「なんだそれ。別に平気だ」
「そうですよね……」
そして――
「おお、起きておったか」
扉越しに、シズクの声が聞こえた。そして、扉を開けて、ゆっくりとこちらに歩いてくる。少し、ふらついているように見えた。
目の下には深く隈がある。
「……お前、寝たのか?」
「妾は研究者じゃ」
「そ、それって、寝れてないってことですか……!?」
「勘違いするなと言っておる。寝れないんじゃない。寝ていないだけじゃ」
リンネが呆れたように見ると、シズクは気にした様子もなく近づいてきた。
「それより、腕を見せい」
「……朝一番でそれかよ」
シズクは返事の代わりに、当然のようにリンネの腕を掴む。
腕を見て、少しだけ目を細めた。
「……ほう?」
「な、何かわかったんですか……?」
ミリスが不安そうに聞くと、シズクは少し考えるように黙ってから口を開いた。
「今はないのか。じゃが、妙じゃな」
「……妙?」
「通常なら拒絶反応が強まる段階じゃ。じゃが、安定し始めておる」
リンネは眉を寄せる。
「どういうことだ?」
「さあの」
シズクはあっさり言った。
「だから研究しとる」
ミリスが少し困ったように苦笑する。
その時だった。
――外から、悲鳴が聞こえた。
「……っ!?」
次の瞬間、宿の外から、何かが潰れるような重い音が響いた。
「逃げろ!!」
「なんだあれ!?」
「嘘だろ!!」
ミリスは声を聞き、少し震えた声で言う。
「え……な、なんですか?」
「わからない。行くぞ……!
リンネたちはそのまま外へ飛び出した。
通りには、人が溢れていた。だが、昨日のような楽しい声じゃない。
逃げる足音に、耳を裂くような悲鳴。
そして、その中央。
そこでは、黒い塊が、ゆっくりと動いていた。泥みたいに揺れている。けれど、地面へ落ちるたび、鉄の塊みたいな重い音が鳴る。
「なんだよ、あれ……!」
冒険者の男が剣を振り下ろす。
黒い塊は、あっけなく二つに斬れた。だが、次の瞬間、切断面が何事もなかったみたいに繋がり、また動く。
「は……?」
男の顔から血の気が引く。
別の冒険者が槍を突き出す。だが、甲高い音と共に、槍は弾かれた。
「硬っ……!?」
黒い塊が揺れる。
生き物というより、機械のような動きだった。
ミリスが小さく息を呑む。
「……あれ。もしかして……」
リンネの表情が変わる。昨日までの空気は、一瞬で消えていた。
「……ヘヴィクム」
その名前が落ちた瞬間。シズクの目が細くなる。
「……今回も、街中か」
黒い塊はゆっくりと通りを這う。触れた石畳が、じわりと黒ずむ。それを見て、リンネは無意識に、自分の腕を掴んでいた。
「リンネさん……?」
ミリスが不安そうに見る。リンネは黒い塊を睨んだまま、小さく息を吐いた。
「……あれを、止められるのは、俺だけだ」
黒い塊を見る目だけが、少しずつ鋭くなっていく。
「おい! 兄ちゃん、そんな姿で危ないぞ!」
近くの冒険者が叫ぶ。だが、動かない。
「こういう時のために、残ってるみたいな力だ……」
そう呟きかけて。
――リンネは、止まった。
もし今、変身したら。
暴走するかもしれない。
人間ごと、自分が壊すかもしれない。
もし、次に目が覚めた時に、全部失っていたら――
「……リンネさん」
黒い塊は、まだゆっくりと街を侵食していた。
冒険者たちの攻撃では止まらない。あれは、この世界の理屈で動いてない。
シズクが静かに口を開く。
「今のおぬしは、以前より進んで、尚且つ安定している」
淡々とした声で続ける。
「変身すれば、どうなるかわからぬが、暴走の危険性が高いことは確かじゃろう」
それを聞き、ミリスの顔が強張る。だがリンネは、目を逸らさなかった。
「……でも、俺しかいない」
その言葉だけは、迷わなかった。
ミリスはぎゅっと、服を掴む。
それでも――
「……わかりました」
ミリスは、小さく頷いた。
「ちゃんと、戻ってきてくださいね」
リンネが、少しだけ目を見開く。シズクは腕を組んだまま言う。
「暴走しそうなら即座に解除しろ。街ごと吹き飛ばされては困る」
「……わかった」
前を見る。黒い塊が、ゆっくりこちらへ向いていた。
リンネは静かに拳を握る。
昨日まで身体を侵していた感覚が、一瞬だけ脈打つ。だが、止まらない。
「……変身」




