第六十話
宿へ戻る頃には、空はより赤く染まっていた。
扉を開けると、食堂には数人いる程度で、朝みたいな騒がしさはなかった。
「こ、この後ってどうします……?」
ミリスが階段の方を見ながら言う。リンネは少し止まり、言う。
「……シズクの様子、見に行くか」
「シズクさん、ですか」
「朝までずっと閉じこもってたしな。それに――」
無理してる気がする。そこまでは、口には出さなかった。
ミリスも少し不安そうに視線を落とす。
「……そう、ですね」
二人は階段を上がる。
廊下の窓から、赤い夕日が細く差し込んでいる。シズクの部屋の前まで来ると、中から微かに、また、音が聞こえた。
リンネは小さく息を吐き、扉を軽く叩く。
返事はなかった。
でも、中の音は止まらない。
「……まだやってたのか」
軋む扉を開けると、部屋は暗かった。カーテンは閉め切られ、机の上のランプだけが、薄暗く灯っていた。
部屋の中へ入った瞬間。薬品の匂いと同時に、リンネは無意識に歯を少し食いしばっていた。
シズクは机に向かい、紙に何かを書き込んでいる。
「ああ、おぬしら。戻ったか」
「……お前、何か食べたのか?」
リンネは少し眉を寄せる。だが、シズクはそのまま即答する。
「多分食べたはずじゃ」
「た、多分って……」
ミリスが目を見開く。リンネも、一瞬驚くが、そのまま続ける。
「今日、街でクッキー買ってきたんだ。一旦休んで食えよ」
「妾はいらん」
シズクはまた、聞いてるのかすら怪しい速度で、声を変えずに返す。
「でも、このままだとお前が危険だ。それに何日も続けて、苦しいだろ」
その瞬間。シズクの手が止まる。だが次の瞬間、鼻で笑った。
「勘違いするな」
薬液が、試験管の中でゆっくり色を変える。
「おぬしの状態を見ておったら、面白い実験を思いついただけじゃ」
「……は?」
「菌と精神作用の連動。さらに反発物質の結合による変質反応。興味深いにも程がある」
シズクは、また手を動かし、紙へ何かを書き込みながら続ける。
「未知が目の前にあれば調べる。それが妾のやりたいことじゃ。苦しいなんて、感じるわけないじゃろ」
「……」
そこで初めて、シズクは少しだけリンネを見る。
「……まあ、副産物として、おぬしのあの力の復元にも繋がる可能性はあるがの」
シズクの部屋を出る頃には、外はもうかなり暗くなっていた。
廊下の窓から見える空には、もう赤色は残っていない。ミリスは、胸元でクッキーの袋を抱え直す。
「……今日、ありがとうございました」
ミリスは小さく笑い、自分の部屋の扉を開ける。
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
扉が閉まる。
廊下には、また静けさだけが残った。
リンネもゆっくりと、自分の部屋へ歩く。一人で歩く廊下は、さっきとは違うように感じた。
少し歩き、部屋の前に着く。
扉を開ける。中に入ると、すぐにベッドに座わった。その時。ふと腕に視線を向ける。そこには黒い線が、皮膚の下を這うように浮かび上がっていた。
「……?」
だが、痛みがない。
前は焼けるみたいな感覚や、腕の奥を何かが這い回るような感覚があったはずなのに――
熱もなく、異常なはずなのに、痛くない。身体が、これをもう異常だと思っていないかのように。
リンネはしばらく、その腕を見つめてから、袋に手を伸ばし、青い砂糖のクッキーを取り出す。
甘い味が、ゆっくりと口の中に広がった。
――今日は、平和だった。
それでも、腕の黒は消えない。
リンネは、しばらくそれを見つめていた。
薄暗い部屋の中で、妙に浮いて見える。
不快はないのが、逆に不気味だった。
「……は」
ベッドへ倒れ込んで目を閉じる。こんな時に、寝れるわけない。そう思ったが、意識はあっさりと沈んでいった。




