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第五十六話

「……わかった」


 それだけ言い、すぐに背を向ける。扉の方へと歩き、開ける。

 静かな部屋の中にガラスの擦れる音と扉の軋む音だけが響いていた。


 一階へ続く、少し冷えた木の階段を降りていく。焼いたパンの匂いと、人々の笑い声が聞こえてくる。


「おっ、昨日の嬢ちゃんたちか!」

「昨日はゴブリンやら馬やら、大変だったなぁ!」


 一階に降りると、何人かが話しかけてくる。

 みんな、あれを“昨日のこと”として話している。その声を聞きながら、リンネは少しだけ目を伏せた。


「こっち、空いてます……!」


 ミリスが先に席を見つけ、小さく手を振る。その声は、昨夜より少しだけ明るい、いや、明るく“していた”。

 二人で席へ座ると、店主の女が水とパンを置いていく。


「今日は面倒ごとがないといいねぇ」

「えっ……あ、はい!」


 ミリスは、一瞬だけ口角を下げ、慌てて笑顔を作る。


「そ、そうですね……!」


 店主は、それを気にせず、もう去っていた。

 ミリスはその背中を見送りながら、小さく肩を落とした。


「……無理してるだろ」

「へっ? し、してませんよ!?」

「嘘はつくな。もう、わかってる」

「して……ない、ですよ……」


 でも、そのあとミリスはコップを持ったまま、小さく視線を落とす。


「……でも」


 さっきより、声が細くなる。


「暗い顔してたら、リンネさん、心配するじゃないですか。昨日も、そうでした」

「……っ」

「……だから、こういう時こそ、なるべく普通にしたくて」


 口は、少しだけ震えていた。

 リンネは、水の入ったコップを見る。


 ミリスも、シズクも。

 二人とも、無理をしていた。

 なのに――


「シズクさん、あとでちゃんとご飯食べますかね……」


 ミリスは、パンを手に持ち直して、また少しだけ笑う。今度は、少し自然な気がした。意識して直したのかは、わからない。


「……どうだろうな」


 二人の間に、沈黙が落ちる。

 その時だった。


「おい、昨日の嬢ちゃん」


 少し離れた席から、剣を持った男が声をかけてきた。


「火ぃ出してた子だろ?」


 ミリスの肩が、一瞬だけ止まる。


「あ……はい」

「昨日は、ありがとな」

「……え?」


 男は笑う。ミリスはしばらく固まっていたが、やがて小さく言う。


「……い、いえ……ぼく、何も……」

「それがな、うちの孫が、戦いたいってうるさいから、しょうがなく連れてきたんだけど、扱いに困ってたんだ。だけど、嬢ちゃんの炎みてな、“すげえ!”とか言って、遠くから見とれててな。そのおかげで、俺も戦えたってわけよ!」


 男はそう言って、また自分の席へ戻っていく。ミリスは呆然としたまま、その背中を見ていた。


 昨日、自分は何もできなかったと思っていた。

 でも、違った。


 男が席へ戻っていっても、ミリスはしばらく動かなかった。


「……」


 手の中のパンを見つめたまま、何も言えないでいる。

 リンネは、水を一口飲んだ。


 外からは荷車の音と、人々の笑い声が聞こえてくる。

 普通の朝、だった。


 ミリスは小さく俯く。


「……ぼく、本当に何もしてないんです」

「そう思ってても、あの人からしたら違った。それだけだ」


 しばらくして、二人は黙ったまま朝食を食べ終える。


 水の入ったコップが空になり、皿の上にはパンの粉だけが残っている。


 リンネは立ち上がった。


「……行くぞ」

「え?」


 ミリスが顔を上げる。


「ど、どこにですか?」

「街」

「えっ!? で、でも、まだ安静にしてた方が……!」


 リンネは少しだけ、自分の腕を見る。

 黒い線は、まだ消えていない。

 でも、昨日みたいな疼き方はしていなかった。


「もう、昨日みたいに暴走しそうにはなってない。だから、少しくらい動く」


 ミリスは不安そうにリンネを見る。


「でも……」

「部屋で寝てても、余計なことばっか考える」

「……わかりました。でも、無理はしないでくださいね」


 リンネは宿の入口へ向かう。


 重い扉を開けると、外の空気が流れ込んできた。冷たい風が、顔に当たる。


 商人が荷物を運び。

 子供が走り回り。

 お店では元気に呼び込みをする。


 街は、普通に動いていた。


「……どこ行くんですか?」

「別に決めてない」


 ミリスが困った顔をする。

 リンネは少しだけ苦笑した。


「でも、そういうもんだろ」


 昨日までなら、焦っていただろう。


 何か起きていないか。

 困っている人はいないか。

 いつでも変身する準備はしないと。

 ずっと、そう思っていた。


 ……昨日、馬は止まった。

 ゴブリンも倒された

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