第五十五話
ミリスはまだ俯いたままで、涙を止めようとしているのに、呼吸だけが上手く整わない。
そんなミリスを見ながら、少しだけ迷う。
何か言わなきゃいけない気がした。けど――
「……少しは、寝ろ」
結局、出てきたのはそんな言葉だった。ミリスの肩が、小さく揺れる。
「……はい」
ミリスの声は、掠れていた。リンネはそれ以上何も言わず、背を向けた。
そのまま静かに、ゆっくりと廊下を歩く。
後ろから、さっきの押し殺した声は、もう聞こえなかった。
部屋へ戻り、静かに扉を閉めると、廊下からの光がなくなり、暗闇に包まれた。
窓の外には夜の街がぼんやりと見える。昼とは違って、今は静かだ。
リンネは静かにベッドに座る。
「……」
疲れているはずなのに、やはり眠気は来なかった。座ったまま、目を瞑る。
さっきのミリスの声と顔が、まだ頭から離れない。
「……っ」
今まで気づけなかった、ミリスの姿が、まぶたの裏で繰り返されていた。
『いい加減にしろ!!』
ふと、シズクの怒鳴り声が、頭に響いた。
包帯を巻いた左手。
机に零した薬液。
乱れた呼吸。
それだって、今まで、全部見ていたはずだったのに。
「……俺」
――ずっと、自分が誰かを支えて、救っている、つもりだった。でも、違う。違った。
胸の奥で、何かが動いた音がした。そのまま、静かに拳を握る。黒は、溢れない。ただ、心臓の鼓動だけが、耳に響いていた。
朝日が窓からリンネを照らし、リンネは目を開けた。
「……」
ほとんど眠れなかった。
起き上がると、腕に黒い線が浮かぶ。だが、痛みはなかった。
でも、まだ消えていない。
床に足をつき、扉を静かに開ける。部屋を出ると、一階から、食器の音と人の話し声が聞こえ、朝の雰囲気が廊下にも伝わってきた。
昨日と変わらない朝。
誰かが、助けなくても成立する朝。
廊下を少し歩き、シズクの部屋の前まで来ると、一瞬だけ足を止めた。
扉の奥から足音と、カンカン、とガラス同士が当たるような音が聞こえる。
「……もう起きてんのか」
少し迷ったが、すぐに軽く扉を叩いた。
数秒後、扉がゆっくり開く。
「……あ」
出てきたのはミリスだった。目元は少し赤い。でも昨日ほどではない。
「お、おはようございます……」
「ああ……なんで、ここに?」
「えっと……シズクさんの様子を見に……」
一瞬、会話が止まる。
昨夜のことが、まだ頭に残っている。どう触れればいいのかわからない。多分、ミリスも同じだ。
「……シズクは?」
「まだ……起きてます」
「まだ?」
ミリスは言ってから、小さく口を閉じた。
「あ……えっと……」
「騒がしいぞ」
その時。部屋の奥から低い声が飛んだ。
視線を向けると、シズクが机に向かい両手にフラスコを持っていた。
机には紙が散らばり、フラスコの中で黒い液体が揺れている。
その目の下には、薄く隈ができていた。
「……朝からここに来て何をしておる」
そう言いながら、紙へ何かを書き込む。
声はいつも通りだったが、机の端には、ほつれた包帯の巻き直された左手が見えていた。
「お前……寝てないのか?」
「少しは寝た」
シズクは視線を向けず、言葉を被せるように答える。
ミリスは、部屋へ入ったリンネを見ながら、少しだけ視線を落としていた。
「……朝飯、食うか」
リンネが言うと、ミリスは少しだけ驚いた顔をしてから、小さく頷いた。
「……はい」
「シズク、お前も――」
「妾はいい」
言葉を切るように返された。
「今、止めるな」
フラスコの中で、黒い液体が小さく泡立つ。リンネは、その背中を見ていた。
言葉が止まる。
“無理するな”とは、言えなかった。
――自分は、本当に今まで、ずっとこの背中を見ていたのか? そんな疑問が頭に浮かぶ。
「……行くなら行け。朝食程度、勝手に摂る」




