第五十四話
夜になり、一人でベッドへ横になっても、リンネの頭の中では昼の光景ばかりが繰り返される。
暴れる馬。
助けを呼ぶ声。
変身しようとした、自分。
「……」
小さく舌打ちし、いつのまにか握っていた拳をゆっくり開いた。一度だけ、深く呼吸する。ずっと、胸の奥がざわついていた。
部屋にいるのが苦しくなって、静かにベッドから起き上がると、腕が痛む。視線を向けると、血管が黒く浮き出ている。すぐに目を逸らし、扉を開ける。
扉を開けると、廊下から冷たい空気が入り込んできた。その空気が冷たいのか、自分が熱いのかは、わからなかった。
どこへ行くでも、誰かを助けるでもなく、理由なく廊下を歩いていく。
天井の電球が、暗い廊下の一部分を照らす。少し歩くと、光が遠くなっていく。また空気が暗闇に包まれ、少し歩くと次の電球が見えてくる。
それを繰り返していた。その時――
「……っ……」
とても小さな、息を押し殺すような音がどこかから聞こえた。
足を止める。
光の端。電球から離れた、廊下の突き当たりの窓の下。
その床に、ミリスが座っていた。
壁に寄りかかって、膝を抱えて顔を膝に埋め、小さく身体を丸めていた。
「……ミリス?」
遠くから声をかけた瞬間、ミリスの肩がびくりと震えた。慌てて顔を上げる。
「あ……」
その目元は、赤かった。ミリスはすぐ顔を逸らし、袖で目を擦った。
「ご、ごめんなさい……起こしちゃいましたか……?」
「……いや」
少し迷ってから、ゆっくり近づく。でも、隣には座らない。
少し離れたところで止まり、ミリスの方を向く。ミリスは俯いたまま、小さく息を吸った。
「……寝れなかっただけで……」
「俺もだ」
しばらく沈黙が続いたが、リンネはゆっくり視線を向ける。
「……寝れないだけなら、なんで泣いてたんだ」
ミリスの指が、服を強く掴む。
「ミリス」
「……っ!」
呼ばれた瞬間、ミリスの肩がまた震えた。
「……ぼくの、せいなんです」
小さな声が、溢れた。ミリスは俯いたまま、震えたまま続ける。
「あの時……リンネさん、変身できなくて……だからぼくが……菌を」
声が掠れる。リンネは静かに聞いている。
「でも、あれがなかったら、リンネさん死んでたかもしれなくて……だから、あの時は、それしかなくて……!」
言葉が途中で崩れる。
「でも……でも……!」
ミリスは両手で顔を押さえる。
「ぼく、リンネさんを……! リンネさんの心も力も、ずっと白くて……ずっと変わらなくて……“正義”だったのに……!」
涙が床へ落ちる。
「ぼくが……灰色にして……!」
呼吸が乱れる。
「ぼく、一度裏切ったのに……戻ってきた時も、リンネさん何も責めすらしないで……信じてくれて……!」
リンネの目が、少し揺れる。ミリスは強く顔を伏せた。
「なのにぼく、あの時……!」
言葉にならない嗚咽が漏れる。リンネは、何も言えず、ただミリスを見ていた。
ずっと近くにいた。
戦って。
笑って。
あの時から、一緒にいた。
でも
――こんな顔をさせるまで、気づいていなかった。
ミリスは泣いたまま顔を上げない。
リンネは、自分の手を見る。
ずっと、自分は“誰かを救う側”だと思っていた。ずっと、自分は――
傷つく人を守って。
苦しむ人を助けて。
目の前で苦しんでいる人は全員、助けたと思っていた。
なのに、一番近くにいた仲間の心ですら、気づいていなかった。気づけなかった。
「……なんだよ。俺、全員救うとか言っといて」
リンネはゆっくり目を閉じる。
「全然……見てなかった」
リンネは少し迷ってから、静かに口を開く。
「……ミリス」
ミリスの肩が震える。
「俺は、お前に助けられた」
「……でもっ」
「お前があのままヘヴィクム側だったら、死んでた。あの時なにが最適だったかなんて誰にもわかんない」
「……」
「だから、一人で背負うな」
その言葉で、ミリスの呼吸が止まる。
「俺も、ちゃんと向き合う」
自分の弱さを
不完全さを
救わなかったものを――
リンネの手の黒が、僅かに揺れた。でも、すぐに収まった。




