第五十三話
いつの間にか、夕方になっていた。窓の外では、街の人々が慌ただしく行き交っている。一階からの話し声が三人のいる静かな部屋に響く。
リンネは、ベッドへ腰掛けたまま窓の外を見ていた。すると突然、外から鋭い悲鳴が響く。
「うわっ!? 止めろ、止めろ!!」
通りの向こうで、荷馬車の馬が暴れていた。荷台が大きく揺れ、人々が慌てて避けている。
「っ、……! 変し――」
リンネは反射的に立ち上がる。その瞬間、ミリスが肩を掴んだ。
「リンネさん、やめてください!」
「でも……!」
リンネは窓の外を見る。暴れる馬。転びかける子供。散らばる荷物。
「また菌が――」
「なら、変身する時間を短くすればいいだろ!」
強く言い返した瞬間、リンネの腕に黒が滲む。
「っ……」
ミリスの顔が青ざめる。
その時――
「いい加減にしろ!!」
部屋が震えるほどの声だった。ミリスがびくりと肩を揺らす。
ゆっくりと振り返ると、シズクが肩を震わせていた。鋭い目が、真っ直ぐリンネを射抜く。
「なんでこんな事で、変身する!! 馬一頭! 馬車一つ! それだけのために、また菌を暴れさせる気か!?」
「少しだけなら――」
「同じじゃ!」
シズクの声が叩きつけられる。
「おぬしは、感情が揺れただけで菌が溢れる! 今もそうじゃったろうが!」
「っ……」
「分からんのか!? おぬしは今、体の中に世界を滅ぼす力を持っているんじゃぞ!」
珍しく、呼吸まで乱れていた。ミリスは、ただ震えながら二人を見ている。リンネは何か言い返そうとして、でも止まる。
窓の外では、まだ怒鳴り声が聞こえていた。
「……変身はしない」
リンネは窓の外を見る。
「でも、助ける。目の前で困ってる人がいるのに、何もしないのは無理だ」
シズクは強く一歩を踏み出し、何か言いかけるが、そこで止まった。
沈黙の後、視線を逸らし低く言う。
「……変身せずに解決できるなら、おぬしでなくとも街の者が解決する。その力でしか解決できないなら、それこそ異常じゃ」
リンネは答えない。ただ、ゆっくり拳を解いた。ミリスは、その背中を見ていた。
震える指先を、誰にも見えないよう背中に隠して。
窓の外の騒ぎは、思っていたより早く収まった。
怒鳴り声が少しずつ減り、やがて馬の鳴き声も遠ざかっていく。
リンネは立ったまま、窓の外を見ていた。
通りでは、街の男たちが荷台を起こしている。散らばった荷物を拾い集め、転んだ子供を母親が抱き起こしていた。人々は歩きながら「今日は災難だったな」と話していた。
誰も死んでいない。
でも、誰も変身なんてしていない。
「……」
シズクはもう見ていない。机へ向かい、乱暴に薬瓶を置く音だけが響く。
珍しく、瓶の口へ薬液を注ごうとして、少しだけ机に零れる。
包帯の巻かれた左手を押さえながら、シズクは黙ったまま、机の上は拭かずに次の試験管へ手を伸ばす。
だが、途中で止まった。ミリスは、その背中を見ていた。
「……お茶、入れてきます」
二人からの返事は、ない。聞こえてるのかもわからない。
ミリスは静かに部屋を出る。廊下へ出た瞬間、拳を強く、震えるほど強く握る。
「……」
胸が苦しい。
リンネを見ているのも。
シズクを見ているのも苦しい。
その原因が、自分だから。
ミリスは唇を噛み、下の階に降りていく。
部屋の中では、リンネが窓の外を見たまま小さく呟いていた。
「……本当に、俺いらなかったんだな」
シズクの手が、一瞬止まる。だが、振り返らない。
「最初からそう言っておる」
低い声だけが返ってくると、リンネは苦く笑う。
「助けなきゃって思った。でも、別に俺が行かなくても終わった」
窓の外では、片付けを終えた人々が笑いながら歩いていた。
リンネがいなくても続いていく、普通の街の光景。
「……変な感じだ」
その声には、困惑が混ざっていた。シズクは薬液を混ぜながら、静かに言う。
「それが普通じゃ」
試験管の中で、黒い液体がゆっくり揺れる。
「世界は、本来、一人に救われ続けるようにはできておらん」
少し間を置いて、さっきより静かな声で言う。
「……じゃが、おぬしの世界のヘヴィクムは異常じゃ。この世界に、おぬしの力以外で殺す方法はかなり限定的で、非現実的じゃろう…… 妾は、おぬしに力を使うなと言っておる訳ではない。ただ……今の状態のおぬしが、何にその力を使おうとしたかじゃ」
リンネは何も言わずに、ただ、窓の外が少しずつ夜に染まっていくのを見ていた。




