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第五十一話

 部屋の中へ、重い沈黙が落ちる。リンネは、自分の手を見つめている。


 さっきまで黒く染まっていたシーツに、もう跡すらは残っていない。まるで、最初から存在しなかったみたいに。


「……なんだよ、これ」

「っ……」


 ミリスが息を呑んだ。リンネ自身も、言葉を失う。


「……無理に動かすな」


 シズクの声は低い。


「今のおぬしの内部では、太陽と菌がぶつかり続けておる」

「……なら、ヘヴィクムを殺す。そうすれば菌は消える」

「今のおぬしには、倒せん」


 シズクが切り捨てる。リンネの表情が歪む。


「……じゃあ、どうしろって言うんだ」

「今はまだ、安静にして……」

「そんな暇あるか!」


 声が強くなった、その瞬間だった。ぼっ、と。リンネの全身から黒い霧が噴き出す。


「っ!?」


 ミリスが後ずさる。

 菌はリンネの腕を覆った直後、灰色の光が滲み、互いを焼き合うみたいに明滅する。


「ぐっ……!」


 リンネの呼吸が乱れ、咳き込む。床へ落ちた黒い粒子は、床に触れて小さく脈打ち、少し経ってから消えた。


「だから動くなと言った」


 シズクは壁へ背を預けたまま、鋭い視線を向ける。


「感情に、菌が反応しておる」

「……っ」


 リンネが歯を食いしばる。腕の黒が小さく揺れた。ミリスは、その様子を見ながら唇を噛む。


「……しばらく、この街に留まる」


 シズクが静かに言った。


「妾が方法を探す。その間、おぬしは絶対に無理するな」

「……もし何かあったらどうする」

「おぬしが動かぬとも街の人々が時間をかけて解決するじゃろう……街の人だけで危険なら、妾たちも動く」

「は?」


 リンネが顔を上げる。


「お前たちだけでか……?」

「そうじゃ。それで、不満か?」

「……当たり前だろ!」


 シズクの目が細くなる。


「見ろ」


 シズクが、リンネの腕を指差す。

 腕自体が、黒く染まっていた。


「今のおぬしは、怒るだけで暴走しかける。その状態で戦えば、敵より先におぬしが壊れる」


 それは、静かな言葉で、それが、一番重かった。

 リンネはただ、自分の手を見る。


「……なんなんだよ、これ」




 最初のうちは、すぐ動けるようになると思っていた。


 だが、現実は違う。


 少し感情が揺れるだけで、黒い菌が滲む。そのたびに体の奥で何かが軋むみたいな痛みが走った。

 リンネは強く拳を握る。拳の内側に、針が刺さっているように感じた。




 シズクは、あの後すぐに部屋へ戻り、机に向かっていた。宿の机には薬液と焦げ跡が増え、ゴミ箱には、大量の実験結果の紙がぐしゃぐしゃになって入っている。


 机の端では、黒い液体が入った試験管が、小さく泡を立てていた。


 シズクは包帯の巻かれた左手を押さえながら、震える右手で新しい薬液を落とす。


 だが、結果はまた同じだった。黒は、消えない。


「……違う」


 低く呟き、紙を握り潰す。それでも、手は止まらなかった。




 ミリスは、リンネの部屋から出られなかった。


「リンネさん……ぼくたちは大丈夫ですから……安静にしててくださいね」


 ミリスは、リンネの手を見ながら言う。


 その手の血管は、黒く染まっていた。




 数日後。


 昼を少し過ぎた頃だった。


 廊下の向こうで、宿の主人が慌てた声を上げている。


「街外れでゴブリンの群れが出たらしいぞ!」

「なに!? 規模は!?」

「まだ小さい! だが、近づけねぇ!」


 リンネは反射的に立ち上がる。黒い霧が、漏れた。


「っ……!」


 その時、ミリスとシズクが部屋に入ってくる。


「リンネさん……!」


 起き上がりかけたリンネを見てシズクは低い声で言う。


「……おぬし、動くなと言ったじゃろう」

「でも……!」

「おぬしが行っても被害が増えるだけじゃ」

「っ……!」


 リンネは眉を寄せる。シズクの声は、一切揺れなかった。


「今のおぬしは、自分の力すら制御できておらん」


 黒い粒子が、リンネの指先から零れる。


「……っ」


 シズクは静かに鍵を取る。


「ミリス、行くぞ」

「……はい」


 ミリスは頷く。でも部屋を出る直前、一度だけ振り返った。


 リンネは、動かなかった。


 いや、動けなかった。


 扉が閉まり足音だけが、遠ざかっていく。

 部屋の中に残されたリンネは、強く拳を握った。


 その瞬間、また黒が滲む。


「くそっ……!」


 壁を殴ろうとして、寸前で止める。力を抑えようとするほど、黒が揺れる。


 何もできない。


 その事実だけが、肺の奥へ重く沈んでいく。

 呼吸が乱れる。


 外は静かだった。

 静かすぎた。


 リンネは、唇を噛む。自分だけが、ここにいる。戦えないまま。

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