第五十話
広い空間の奥まで、等間隔に巨大な水槽だけが並んでいる静かな空間に、ヘヴィクムだけが立っていた。水槽の中には、脈打つ黒い液体。
暗闇の中央には、光と熱を撒き散らす球体が一つ浮かんでいる。
その暗闇の中に、ヘヴィクムの足音だけが一定の間隔で響く。
右腕は”白く“焼け焦げ、再生していない。ヘヴィクムの表面から黒い霧が出ているが、右腕だけ、出ていない。
ヘヴィクムは、その感覚のない腕を一度だけ見下ろし、やがて視線を前へ戻した。
「……成立していた」
光と熱の球体の前で立ち止まる。
「太陽と菌は、本来、共存しない」
球体へ、霧をかけるが、次の瞬間。
小さな音を立て、菌が、焼けるでもなく、ただ消えた。
「……」
ヘヴィクムの目が、わずかに細くなる。
あの時を思い出す。
灰色の光。
空間の歪み。
焼けながら、消えなかった菌。
「失敗ではない」
静かな声が落ちる。
「むしろ……興味深い」
水槽の黒い液体が、大きく波打った。ヘヴィクムは、その揺れを見つめたまま、ゆっくりと口元を歪める。
「太陽の戦士……リンネ」
名前を呼ぶ声に、感情はほとんどない。
「貴様は、まだ未完成だ」
暗闇の奥で、別の水槽がぼこり、と泡を立てた。
「ならば……どこまで変質する? いつまで、成立できる?」
黒い液体の中で、まるで、何かを待つみたいに菌が脈打った。
窓から差し込む朝の薄い光が、静かな廊下を照らしている。ミリスは、あの後部屋に戻っても、ほとんど眠れないまま、朝を迎えた。
部屋を出ると、少し離れた場所にある、リンネの部屋の前で、シズクが立っていた。
「……シズクさん」
声をかけると、シズクはゆっくり振り向いた。
「あぁ……もう起きておったか」
シズクが鍵へ手を伸ばす。その時、袖が少しずれた。
「……あ」
シズクの左手には、指先から手首まで白い包帯を巻かれていた。
ミリスの表情が変わる。
「それ……」
「なんでもない」
即座に袖を戻す。
「少し、薬液を触っただけじゃ」
「でも……」
「妾のことはどうでもいい」
シズクは視線を逸らしたまま、小さく息を吐く。
「開けるぞ」
鍵が回る。ミリスの肩が、小さく震えた。
静かな音を立てて扉が開く。部屋の中には、昨日と同じ熱気がまだ残っていた。
ベッドの上に、リンネはまだ横になっている。
「……」
ミリスは無意識に一歩近づいた。すると、その瞬間だった。
リンネの指先が、僅かに動く。
「っ……!」
ミリスが息を呑む。ゆっくりと、リンネの目が開いた。まだ焦点はぼやけていて、視線が揺れながらも天井を見つめた。
「リンネさん……!」
ミリスが呼ぶと、数秒遅れてリンネの視線がこちらへ向いた。
「……ミリス……?」
その声を聞いた瞬間。ミリスの胸の奥に張り詰めていたものが、少しだけ緩む。
ちゃんと、リンネの声だった。ノイズは、なかった。
「よかった……」
「……ヘヴィクムはどうなった」
ミリスの目が揺れる。
リンネはまだ完全には復活した訳じゃない。それでも、最初に心配したのは、自分じゃなかった。
「動くな」
その瞬間。シズクの鋭い声が、空気を切った。部屋の入り口から一歩も入らないまま、鋭い目でリンネを見ている。
「シズク……?」
「おぬしの内部には、まだ菌がいる」
部屋の空気が、一瞬で冷えた気がした。
リンネが眉を寄せる。
「……何を、言って――」
「文字通りじゃ」
シズクは懐からコンパスを取り出す。針は、小刻みに震えながら――真っ直ぐ、リンネを指していた。
「っ……」
ミリスの呼吸が止まる。リンネ自身も、ゆっくり目を見開いた。
「……あの後、ヘヴィクムは逃げた、じゃが菌は……残っておる」
「そんなこと……ない、だろ」
「妾も、そうであって欲しかった」
その声だけ、少し掠れていた。リンネが起き上がろうとして、ベッドへ手をつく。
その瞬間。じゅ、と言う音が鳴り、シーツが、黒く変色した。
「……え?」
黒はゆっくり広がるが、次の瞬間には灰のように崩れて消える。
ミリスの指先が震える。
シズクは表情を変えない。でも、左手が震えていた。
低い声が落ちる。
「まだ、終わっておらん」




