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第四十九話

 昼の喧騒が嘘みたいに引いていく。窓の外では、夕暮れが建物の影を長く伸ばしていた。


「ここじゃ」


 シズクが立ち止まる。3つの部屋の鍵は、彼女の手の中にあるままだった。

 ミリスは、もう一方の鍵を見てから、リンネの体を支え直す。


「……開けます」


 扉を押すと、古い木の軋む音がした。


 中はベッドと机だけの簡素な部屋だった。ミリスは、慎重にリンネをベッドに寝かせる。


「……っ」


 その瞬間、リンネの体から、また微かに菌が広がった。布が触れた部分が、ほんの少しだけ黒く変色する。


「……」


 ミリスは息を止めるが、それでも、離さない。シズクは部屋の入り口に立ったまま、中へ入らない。


「……入らないんですか?」


 ミリスが振り向く。


「できる限り入らん」


 その声はいつも通り落ち着いていた。

 でも、視線は一度もリンネを見ていない。


「おぬしも、そろそろ出ろ」

「っ……分かり、ました」


 ミリスはそれ以上何も言えず、ドアへと歩く。視線は、リンネに向いたまま。

 部屋の外に出ると、シズクはすぐに鍵を閉める。


「……リンネさん」


 ミリスはドア越しに呼ぶ。そして、こことは離れた部屋の方へと歩いていく。


「これがおぬしの部屋の鍵じゃ」


 シズクから、鍵を受け取る。夕暮れが完全に沈むと、廊下の中の色が闇に呑まれた。




 夜はとっくに深くなっていた。


 宿の廊下は静まり返り、外の音もほとんどない。遠くで風が窓を叩く音だけが響いていた。


 シズクは、自分の部屋の中にいた。

 机の上には、懐から出したいくつかの小さな器具と、黒い液体の入ったフラスコ、そして蝋燭が置かれている。


「……やはり、こうなるか」


 小さく呟いて、メガネを押し上げ、瓶の中の液体を一滴、蝋燭に垂らす。


 その瞬間、炎が灰色に染まり、次の瞬間には、白と黒の炎にわかれ、大きさはとても大きくなり、そして――すぐに、消える。


「やはり、二つが交われば……どちらも壊れる」


 机の上に置いたコンパスを取る。針は揺れながら、一定の方向を指し続けている。


 それは、今ここではない。

 ――リンネのいる方向だった。


「……まだ、繋がっておるのか」


 シズクは息を吐き、別の試験管に手を伸ばし、黒い液体の中に薬液を少し落とすと、黒は一瞬だけ薄くなり――すぐに、増えた。


「……違う」


 別の薬液は、入れた瞬間、光が弾けるように広がる。しかし次の瞬間、光が黒に変わる。


「……っ、なんでじゃ……」


 フラスコを持った手に力が入り、震えている。

 視線をコンパスに戻すが、針の指す方角は変わっていない。


「黒だけ、消せぬのか……?」


 呟いた声は、思ったよりも小さかった。窓の外で風が鳴る。シズクは少しだけ目を閉じ、すぐに開く。


「……消せる。まだ、終わらせぬ」


 誰に向けるでもなく言って、再び手を伸ばした。試行は止まらない。止まるわけにはいかなかった。




 夜は深いはずだったが、ミリスは一度も眠れていなかった。


 狭い部屋の天井を見つめたまま、何度目か分からない寝返りを打つ。布団の中は冷えているのに、指先にはまだ、あの時の熱が残っている気がした。


「……」


 廊下を歩く音もない。隣室から声も聞こえない。それなのに、妙に落ち着かない。


 目を閉じるたびに、思い出す。

 コンパスの針。

 シズクの声。

 菌という言葉。


 そして

 ――ベッドへ横たわる、苦しそうなリンネの顔。


「……少しだけ、なら」


 誰への言い訳かも分からないまま、ミリスは小さく呟き、ゆっくりと床へ足を下ろした。


 床が、小さく軋む。ミリスは、しばらく扉を見つめていたが、やがて静かに部屋を出た。廊下は暗く、窓から差し込む月明かりだけが、細く床を照らしている。


 少し離れた場所にある、リンネの部屋。ミリスは、無意識のうちに歩く速度を落としていた。


 怖い。


 もし、もう人間じゃなくなっていたら。

 もし、扉を開けた瞬間、黒い菌だけがそこにいたら。

 もし、もう全部“終わった”後だったら。


「……っ」


 指先が震えるが、それでも、足は止めなかった。

 やがて、リンネの部屋の前へ辿り着く。

 中からは、何も聞こえない。


 ミリスは、ゆっくりと扉へ震えた手を伸ばした。指先が、触れる。


 熱はない。ミリスは、音を立てないように慎重に扉を開いた。


「……リンネさん?」


 返事はない。部屋の中は暗く、窓から差し込む月明かりだけが、ベッドの輪郭を薄く照らしていた。


 リンネは、そこにいた。


 昼と変わらず、横になったままで、呼吸は浅い。額には汗が滲み、苦しそうに喉が震えている。


「……っ」


 ミリスは、そっと部屋へ入った。


 一歩ずつ、近づくたびに空気が少し熱くなる。


「……」


 怖い。本当に、怖い。

 それでも、目は逸らさない。リンネは苦しそうに眉を寄せ、小さく息を漏らす。

 ミリスの肩が震える。


 次の瞬間。リンネの指先から、黒い粒子が零れ落ちた。


「っ……!」


 反射的に後ずさる。だが、その粒子は床へ落ちる前に、灰みたいに崩れて消えた。


 静寂だけが残る。


「……やっぱり、苦しいんですよね」


 ミリスは、小さく呟く。


 目の前にいるのは、菌に心を蝕まれた怪物なんかじゃない。


 ただ、壊れそうになりながら眠っている、一人の人間だ。


 ミリスは、ゆっくりとベッドの横へ座る。今度は少し迷ってから、火傷しないよう、恐る恐るリンネの手へ指先を重ねる。


 やはり熱い。


 でも昼より少しだけ、その熱は弱くなっている気がした。


「……ちゃんと休んで、戻ってきてください」


 返事はないけれど、リンネの熱が少しだけ下がったような気がした。

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