第四十八話
ミリスは、リンネの手をそっと握る。
だが――
「……っ!」
咄嗟に、手を引いた。リンネの手は、まるで太陽に触れたくらい熱かった。
ミリスは、自分の手を見つめる。一瞬触れただけなのに、僅かに赤くなった指先が、まだ熱を持っていた。
「……離れるのじゃ、ミリス」
後ろから、シズクの小さな声がした。シズクは、十歩ほど離れた場所で立っている。
「そやつの内部、まだ熱が循環……いや、違う」
メガネの奥の目が細くなる。
「まだ菌が循環しておる」
「でも、リンネさんは……」
「見た目の話ではない」
シズクは低く言った。
「妾には分かる。まだ、終わっておらん」
その時――ベルトの隙間から、黒い粒子がじわりと漏れた。
「やはりじゃ……!」
シズクが反射的にもう一歩引くが、ミリスは、庇うようにリンネの前へ出た。
「待ってください……! 今のは少しだけで――」
「量の問題ではない!」
珍しく、シズクが声を荒げる。
「おぬしが一番分かっておるじゃろ! ヘヴィクムの菌は……心から壊す!」
「で、でも……」
そこから先は、何も出てこなかった。
シズクは、しばらく黙ったままリンネを見ていたが、やがて、ミリスの方にゆっくりと近づき、懐へ手を入れた。
「……これを見ろ」
取り出したのは、コンパスだった。森で、ヘヴィクムを追うために使っていたもの。
ミリスが目を見開く。
「それ……壊れたんじゃ?」
「あの時はヘヴィクムが近づいたから一時的に機能が停止しただけじゃ」
シズクが、軽くコンパスを振る。コンパスの針が震えながら――ゆっくり、一方向へ偏った。
ミリスの呼吸が止まる。
針が刺しているのは
倒れている、リンネの方だった。
シズクがコンパスをもう一度軽く振る。コンパスの針は乱れたが、また、リンネの方をさす。
「ヘヴィクムは去った。じゃが、菌までは消えておらん」
「……そんな」
「今のリンネは、まだ“危険”じゃ」
風が吹き、崩れた街の瓦礫がかすかに音を立てた。
静かな呼吸。
人間の顔。
――正常に見えるその中には、まだ黒い菌が残っている。
「……運ぶぞ。このまま外へ置いておくのは危険じゃ」
「……わかりました」
ミリスは、小さく頷き、リンネの腕を肩へ回す。
「っ……」
やはり熱い。服越しでも分かるほどだった。それでも、ミリスは離さない。シズクは少し迷ったあと、距離を取ったまま前を歩き始めた。
「宿を探す。人の少ない場所を選ぶぞ」
さっきまで戦場だった場所には、まだ灰が舞っていた。遠くでは、もう意識を取り戻し始めている人影が見える。
その中の何人かが、こちらを見た気がした。
ミリスは、庇うように少しだけリンネを支える腕へ力を入れた。リンネの指先から、黒い粒子が一瞬だけ漏れた。
「……!」
ミリスの肩が震える。シズクも気づいていたが、何も、言わない。ただ、前だけを見て歩いていた。
宿へ入ると、受付の男が顔を上げて、そのまま動きを止める。
気絶した男とそれを支える人。
小柄な少女が距離を取ったまま立っている。
さらに、リンネの体からは、まだ僅かに熱気が漏れている。困惑するのも、無理はない。
「……部屋は空いておるか」
シズクが静かに言う。
「え? ああ……空いてます、けど……」
男は戸惑いながら帳簿を開いた。ミリスは、リンネを支える腕へ少し力を入れる。熱は、服越しでも異常だった。長く触れているだけで、自分の腕まで焼けそうになる。
「三部屋、頼む」
その言葉に、ミリスの指先が僅かに止まった。
受付の男は、軽く頷く。
「三部屋ですね。では全部お隣で――」
「……いや」
シズクが遮り、一瞬だけ沈黙が落ちる。
「一つだけ、少し離れた部屋にしてくれ」
ミリスがゆっくり顔を上げた。
「ちょっと、シズクさん……!」
シズクはリンネを見ない。ただ、硬い声で言った。
「万が一、じゃ」
「……」
「まだ安全とは言い切れん」
その言葉に、受付の男の表情が僅かに変わり、視線が、無意識にリンネへ向く。
ミリスは、リンネを隠すように半歩動く。
「……では、端の部屋を一つ使ってください」
男が小さく言う。鍵が三つ、机へ置かれた。
ミリスは、そのうち二つが並んでいるのを見て、残った一つへ視線を移す。
少しだけ離れた番号。たったそれだけなのに、妙に遠く感じた。
すぐに、シズクが三つの鍵を取る。
「……さっさと行くぞ」
否定はしなかった。ミリスは、熱を持つリンネの体を支え直し、ゆっくり歩き出す。
廊下を進むたびに床板が小さく軋んだ。
その途中。
リンネの指先から、また黒い粒子が零れる。
受付の男が、息を呑む音がした。
ミリスは、聞こえないふりをした。




