第四十六話
「無駄な話はやめろって、言ってますよね……!」
ミリスの声が低く落ちる。
「……本気で、処理しますよ」
「斬れるなら、来いよ」
ミリスの瞳孔が、ほんの僅かに震える。
だが次の瞬間には、一直線にリンネへと迫っていた。視界が追いつく前に、刃が首元へ届く寸前。
「……変身」
声と同時に、光が弾け、鎧が構築される。だが、やはり鎧は、本来の形を失っていた。
鎧はひび割れて歪み、バイザーには亀裂が走り、光も弱い。
遅れて現れた盾、ソーラーシールドが、黒い刃を真正面から受け止めた。盾の表面には、無数のへこみがあり、もはや円形ですらない。
「……っ!」
リンネの足元が砕ける。装甲が噛み合うたび、軋むような嫌な音が鳴る。
それでも、盾を叩きつけるように前へ振り抜く。その衝撃で、ミリスがふらつき、霧が大きく乱れた。
その瞬間、装甲の一部が崩れ落ちる。
「……もう、時間かよ」
リンネの呼吸が乱れる。白い装甲が、砂みたいに崩れ始める。それを見て、ヘヴィクムが笑った。
「変身すら、まともに維持できぬのか。そんな状態で戦うとはな。それこそ、合理的ではない」
次の瞬間には、白い装甲が肩から腕から音もなく砂のように崩れ落ち、ひび割れたバイザーが、完全に砕けた。
砕けたバイザーの破片が、石畳の上を転がった。
リンネの呼吸は荒い。肩で息をするたび、崩れかけた装甲の残骸が砂のように剥がれ落ちる。
「はぁっ……はぁっ……!」
もう、変身できない。心臓が苦しい。おそらく、もう一度変身したら、死ぬ。
ヘヴィクムは、その様子を見て、一歩踏み込む。
「限界か……貴様は、いつもそうだな。壊れながら、それでも止まらぬ」
リンネは何も返さない。ただ、睨む。ヘヴィクムはゆっくりと両手を広げた。
その瞬間、街中の地面から、壁から、人々の足元から、街全体から、黒い霧が浮かび上がり始めた。
「……何だ、これ……」
シズクの声が低くなる。
「人だけでなく、範囲は街自体ということか……!」
ヘヴィクムの口元が歪む。
「菌秘技――民菌舞」
その瞬間、街の住人たちが、一斉に立ち止まり、ぶつり、と。
嫌な音が街中で重なる。
そして、住民たちの腕、肩、背中から、黒い菌が噴き出した。菌は刃の形を作り、そのまま腕と一体化していく。
一人ではない。
街中すべての、老人も、女も、子供も全員が、菌刃を形成していた。
「お前……!」
「ふん」
ヘヴィクムは愉快そうに目を細めると、住民たちが、一歩踏み出す。
「処理」
「処理」
「処理」
「処理」
「処理」
「処理」
無数の声が重なる。リンネは、歯を食いしばった。
「っ……!」
「……やめてください」
その横で、ミリスが小さな声で言う。ヘヴィクムは、視線だけ向ける。
「個体が死ぬ可能性があります……必要、ありません」
ほんの僅かに早口だった。
ヘヴィクムは、まだ笑っていた。
「安心しろ。そいつは、戦わない」
住民たちの菌刃が、一斉にリンネへ向くと、ヘヴィクムが、腕を振り上げた。
「さあ行け」
黒い霧が街を覆う。
「力も失った愚かな元ヒーローを、殺せ!」
次の瞬間。住民たちが、一斉に駆け出した。シズクが叫ぶように言う。
「リンネ!」
四方八方から迫る黒い刃。リンネは反射的にベルトに手をかけるが、すぐに離す。
もう無理だと、理解した瞬間だった。
「……除菌」
静かな声が響く。声の方向へ向くと、ミリスが、住民たちへ手を向けている。
黒い霧が、逆流するように動き始めた。
「な――」
ヘヴィクムの声が、止まる。住民たちの身体から、黒が抜け落ちていく。刃が崩れ、目の濁りが消えていく。
「ぁ……?」
「え……?」
誰かが、小さく声を漏らした。
そして、住民全員が、その場に倒れた。無数の倒れる音だけが、街に響く。
本当に、一瞬で。街が、死んだみたいに静まり返る。
「……は……」
ミリスの呼吸が、僅かに乱れる。ヘヴィクムが、ゆっくりとミリスを見る。さっきまでの笑みが、消えていた。
「貴様……何を、した?」
ミリスは答えない。ただ、倒れた住民たちを一瞬だけ見て、すぐに視線を逸らす。
「答えろ、ミリス」
一歩。
ヘヴィクムが近づく。
「貴様は今、菌を消した」
「……必要な処理でした」
「違う」
ヘヴィクムの声が、わずかに重くなる。
「貴様は、“あれ”を守った」
視線が、リンネへ向く。
「違います」
「ならば、なぜ除菌した」
「住民の死亡率が上昇す――」
「我は太陽の戦士の話をしている!」
少しの沈黙の後、ヘヴィクムが静かに笑う。その目は笑っていない。
「我が効率化してやったのに、それすら拒むか……!」
黒い霧が、ゆっくりとヘヴィクムの周囲へ集まり、空気が変わる。
シズクが、小さく息を呑む。リンネは立ち上がろうとして、膝をつく。
「くそ……っ」
身体が動かない。
変身も、もうできない。
ヘヴィクムは、ミリスへ視線を向けたまま、静かに口を開く。
「ならば、もういらぬ。菌秘」
「菌秘技――菌暴走」
ヘヴィクムの言葉を遮り、ミリスが叫ぶ。その瞬間、黒い霧が風に乗るようにヘヴィクムへと襲いかかり、ヘヴィクムに触れた瞬間、連鎖的に爆破する。
空気を裂くような音。
「貴様――!」
ほんの一瞬だけ、ヘヴィクムの動きが止まった。その瞬間。ミリスは振り返る。
その視線が、リンネへ向く。
「立てますか」
「は……?」
ミリスがリンネに近づく。反射的に警戒するが、もう身体が動かない。
「このままでは、あなたは死にます」
淡々とした声。けれど、その手は確かに、震えていた。
「……だから、使ってください」
リンネの目が、僅かに見開かれる。
シズクが叫ぶ。
「待て、ミリス! それは――」
「理解しています」
ミリスの手が、リンネのベルトに触れる。そして、黒い菌が静かに指先から流れ出る。
「菌秘技――菌力贈与」
リンネのベルトへ、黒い菌が流れ込む。
「っ、ぁ……!!」
血管の内側を、焼けた何かが這い回るような激痛。視界が、一瞬だけ真っ黒に染まる。
耳鳴り。無数の呼吸音。心臓が、脈打つたびに血管が熱い。
「が……ぁぁっ!!」
リンネの身体から、灰色の光が噴き上がり、ベルトが、無理やり動く。
鎧が構築される。だが、その鎧は白ではない。全身を覆うのは、鈍く濁った灰色。
ひび割れた装甲の隙間は、黒い菌で埋まっている。そして、砕けたバイザーの奥で、薄暗い緑の光が灯った。
「……っ……はぁ……!!」
リンネが息を吐く。
その呼吸音に、僅かにノイズが混じる。リンネが、一歩踏み出す。
ぐしゃりと。石畳が沈む音が聞こえる。
「……っ」
ただ、歩いただけだったのに、灰色の装甲から漏れた黒い菌が、地面を腐食させていく。
「これ……」
自分の声が、少し遅れて聞こえた。ノイズが混じっている。まるで、自分の中に別の呼吸があるみたいだった。
「おぬし、その姿……」
シズクの声に、リンネはゆっくり顔を上げる。一瞬だけバイザーが強く光る。
ヘヴィクムが、ゆっくりとミリスを見る。空気が張り詰める。
「……我が、菌の力を」
黒い霧が、殺気と共に揺れる。
「貴様は、太陽の戦士へ与えたのか」
ミリスは、何も言わず、ただ、リンネの前に立っていた。
「……理解不能だ」
ヘヴィクムが、小さく呟く。
「なぜ、そちらへ行く。力も壊れ、死にかけて……非効率。なのに、なぜ貴様はそいつに味方する」
ミリスの指先が、震える。だが、それでも、口を開く。
「……ぼくも、まだ、わかりません。でも……そう思ったから」




