第四十四話
黒い霧は、静かに収束していく。
ミリスは、手のひらを閉じた。
「……問題ありません」
その声に迷いはない。ヘヴィクムはわずかに視線を動かし、短く言った。
「行くぞ」
ミリスは首を傾ける。
「……どこへですか?」
「観測は、一旦終わりだ。次は実験と容器の確保だ」
意味を理解するのに、時間はかからない。
「……了解しました」
そう言うと、ヘヴィクムの足元から、黒い菌が静かに広がる。液体のようでいて、形を持たないそれは、床に円を描くように広がり、ミリスの足に触れると止まった。
「移動する。容器の元が生息する場へ」
ヘヴィクムの声と同時に、空間が沈む。
視界が歪み、次の瞬間、草原にいた。ほんの少し先の方には、街がある。
人の声や、馬車の音など、無数の動きや音が、無秩序に重なっている。
「……」
ミリスの視線だけが、ゆっくりと動く。
人の流れ。
歩行速度のばらつき。
意味のない立ち止まり。
重複し、無利益な行動。
全てが、見える。
「……気持ち悪い」
ぽつりと、零れる。
ヘヴィクムはそれを聞いて、否定しない。
「その通りだ。だが、菌の成長環境としては優れている。無駄をなくして、内部から正せ」
「……はい」
ミリスは、そのまま歩き出し、街に入る。
すると、いきなり大剣を背負った大きい男が声をかけてくる。
「こんにちは! この街へようこそ。良ければ案内しようか?」
「結構です」
迷いはない。会話は、最小限の伝達以外、不必要だ。やはり、今の状態は非効率だ。
迷いなく歩き続け、ピタリと足を止める。
そこは、掲示板がある、街の中央。人の密度が最も高い位置。
そこで、手を開く。
「解放」
黒い霧が、音もなく広がる。
風もないのに、均一に、正確に。
触れた瞬間、変化が起きる。
走っていた人が、足を止める。
笑い声が、途切れる。
倒れるわけじゃない。
苦しむわけでもない。
ミリスは、それを観察する。
「無駄が大幅に減りました」
その時、勝手に霧は広がり始めていた。
街を静寂が包む。だが、それは止まったわけではない。最適化され、必要のない会話や音がなくなっただけだ。
「……こっちの方が、綺麗」
その時だった。
「いきなりどうしたんだよ! おい!」
振り返ると、そこにいたのはさっきの男だった。
「お前! 何をした! こんなことしていいと思うのか!?」
ミリスの動きが、一瞬、止まる。
その光景を、見ている。
「……それは」
言葉が、わずかに遅れる。
「……非効率」
そう結論づける。
次の瞬間、霧が男を包んでいた。
男の声が消えた街は、驚くほど静かだった。
「……」
ミリスは、何も言わない。ただ、もう一度、すべてが整っている周囲を見る。
「……良好」
そう判断する。
その判断に、迷いはない。
……ない、はず。
「問題……ない、です」
黒い霧が、さらに深くなる。
より効率的に。
より正確に。
それが正しく、一番美しいはずだ。
雨はもう止んでいた。
リンネは、一歩踏み出すたびに、地面の感触がわずかに遅れて追いかけてくるのを感じていた。
「……」
あの“歪み”は、まだ見えている。けれど、曖昧だ。近づいているのか、遠ざかっているのかすら分からない。
「歩幅を変えるな。変えれば、外れる」
「外れるって……何からだよ」
「歪みの“直線”じゃ」
それ以上説明しない。ただ、淡々と歩く速度を保っている。数歩ごとに、世界の輪郭がわずかに揺れる。木々の位置がずれ、音が一瞬遅れて届く。
「……これ、普通じゃないだろ」
「今さらか」
風の音が一瞬だけ消えた。
その時、森が薄れ、石畳が現れる。土の匂いが消え、人の気配だけが増える。
「……街だ」
リンネは無意識に呟いた。
だが、街は“普通の街”ではなかった。
人は、いる。歩いている。会話もしている。それなのに、どこかが噛み合っていない。
まるで全員が、同じ設計図で動いているみたいだった。
「……気持ち悪い」
「学園と、似ておるな」
シズクの声が落ちる。その言葉で、リンネの胸の奥がわずかに締まる。
「学園……」
記憶が引っかかる。言葉が言葉じゃなくなり、誰かが“正しい“に揃えられていく光景。
「……あれと、同じなのか」
「似ておる。いや、より丁寧じゃな」
シズクは街を見渡す。
「今回は規模も、深度も違う」
リンネは一歩踏み出す。その瞬間、すれ違った人が笑った。だが、笑っているはずなのに、何も感じられない。
「なあ、お前ら……」
「要件はなんですか」
振り向きもしないまま返事が来る。
「な……要件?」
「不要と判断しました」
流れるようにその人は、そのまま歩き出した。呼吸の間隔すら揃っているように感じ、無意識に一歩引いた。
「言葉が意味として届いておらぬ。あの時よりも進行しておる」
「じゃあ……どうなってんだよこれ」
リンネの声は少しだけ荒くなる。
「また、ヘヴィクムの仕業か……?」
「その可能性が高いじゃろうな」
「いくら菌でも……本当に、人間なのか……?」
足音だけが、規則的に重なり、どこか揃っている。
「……」
リンネは、わずかに眉を寄せる。
なにかがおかしい。さっきまで感じていたものが、薄れている。周りを慎重に見渡す。
一箇所だけ、揃っていない。
「……あそこ」
リンネの指は、街の中央に向いていた。そこだけ、人の流れの中に、ぽっかりと空白があった。
誰も、近づかない。
避けているわけでもないのに、自然と流れが歪んでいる。
「……空いてる、のか?」
「違う」
「“避けさせられておる”」
シズクの声が低くなる。
リンネの喉が、わずかに鳴る。
一歩、近づくと、整っていたはずの静寂に、微かな“揺らぎ”が混じる。
そして、そこに、“いた”。
その場所だけ、霧とも影とも言えぬようなものが、静かに地面に広がっている。
その中心に、二つの影。
ミリスは、こちらを見ていない。
ただ、周囲を観察している。
「……予想より早いな」
その隣で、ヘヴィクムが笑いながら呟く。
「外部からの侵入個体……二名」
ミリスが、淡々と告げる。
初めて、視線が合う。その瞬間、リンネの背筋に冷たいものが走った。
――視線が、前とは別物だった。本当に生きているのか疑いたくなるような目。
「……排除しますか?」
「いや」
ヘヴィクムは、わずかに首を振る。
「観察対象として価値があるからな。少し、楽しんでから殺す」




