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第四十三話

 リンネは、立ち上がったまま動けなかった。


 何をするべきか、頭の中で何度も並べ直す。追う。止める。連れ戻す。


 どれも、どこかで崩れる。


 さっきの光景が、何度も浮かび上がる。

 黒い球体の中に沈んでいったミリス。

 迷いのない声。

 ヘヴィクムの方へ歩く背中。


「……あれは、違うだろ」


 あれはミリスじゃない。そう思うのに、次の瞬間には別の考えが割り込む。


 もう、戻らない。


 ヘヴィクムの言葉が、そのまま形を変えて頭の中に残っている。菌とか、効率とか、そんなものに飲まれたら――


「……ミリスを、殺すしか」


 口から漏れかけて、止まる。自分でも驚くくらい自然に出た。

 殺せばいい。

 その方が早い。

 もう救えないなら、一番いい。

 ――絶対に、違う。


 それは、あのヘヴィクムと同じだ。使えなくなったものを、迷いなく切り捨てる考えと同じだ。


「……っ」


 助けなきゃいけない。それしかない。殺すなんて選択をした時点で、もう終わってる。


 なのに、動けない。


 足が、縫い付けられたみたいに重い。もう一度、ベルトに手を伸ばす。


「……変身」


 何も起きない。


「……っ、変身!!」


 なにも、変わらない。ただ、自分だけ、空回りしている。


「……なんでだよ」

「それだけで、諦めるのか?」


 その時、シズクの静かな声が背中に落ちる。

 だが、振り返れない。


「おぬしが言ったことじゃろう。できないかもしれない。だが、何もしないのは違うと」

「……」


 言葉が喉で止まる。頭の中で、さっきの自分が繰り返される。


「力が使えぬだけで、諦めるのか?」


 シズクの声は淡々としているのに、やけに重い。


「おぬしの言葉と決意はそんなに軽いものなのか?」

「……違う」


 やっと声が出る。シズクはそれ以上近づかない。ただ、背後で静かに立っている。


 逃げ道だけ残すみたいに。

 リンネは、もう一度ベルトを見た。

 握る手が、少しだけ緩む。


「俺は……捨てない。絶対に、助ける。それだけは、嘘じゃない」


 その瞬間、微かにベルトが光る。反射に近い動きで、手が伸びる。


「これは……変身!」


 あたり一面に、光が広がり、変身した。だが、それはいつもの形じゃなかった。


 白い鎧は、粉々に砕かれたものを無理やり組み直したように歪んでいる。深い蒼に光っていたはずのバイザーはひび割れ、光を失っている。


 一歩踏み出そうとして、膝が沈んだ。


「っ……重い……」


 ただの重さじゃない。空気の密度が違う。呼吸のたびに、どこかがズレる。


「……」


 それでも、見える。

 遠くの方角を見る。

 そこにだけ、空間がわずかに引き裂かれているような違和感があった。


「……いる」


 次の瞬間、視界が途切れ、鎧が割れていく。鎧は破片となり、その破片もどこかに消えていた。


「……は?」


 膝をついたまま、自分の手を見る。そこにはもう何も纏っていない。ただの人間の手だ。


「……短いのぉ。変身も、おぬし自身も、まだ不完全と言うわけか」

「……分からない。でも……見えた」

「見えた、じゃと?」

「空気が……変だった。そこだけ、流れがズレてた」

「そこに行けば……ミリスがいる」


 迷いがなかった。シズクはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……その状態の力で行くつもりか」

「行くしかないだろ」

「今行ったら、死ぬぞ」

「分かってる」


 視線がまっすぐ刺さる。


「もう一度聞く。その歪みで、何をするつもりじゃ」


 リンネは一瞬だけ黙る。

 そして、ゆっくり立ち上がった。

 まだ重い。まだ不安定だ。

 それでも、足は動く。


「……戻せるかどうか、確かめる」


 シズクは、ほんの少しだけ視線を逸らした。


「やはり不完全よのぉ」


 それは呆れなのか、諦めなのか、区別のつかない声だった。


「行くぞ」


 もう一度だけ、歪みのあった方向を見る。

 まだ、かすかに残っている。

 そして、その向こう側にいるものも、消えていない。まだ、そこにいる。そう確信してしまった時点で、足はもう止まらなかった。

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